Authored by 円原一夫
プロローグ
――UnlockAI CEO執務室。
深夜。ニューヨークの超高層ビル、五十二階。ガラス張りの壁の向こうで、眠らぬ都市の灯がにじんでいる。
世界的AI企業UnlockAIのCEOサラ・アルトマンは、革張りの椅子に身を沈めていた。シワひとつないパンツスーツを身に纏っているが、顔からは、深い疲労が滲み出ている。テーブルの上には、使いかけのリップクリームと、グリーンティー味のプロテインバーが無造作に置かれていた。
会議はたったいま終わったばかりだった。
執務室の壁一面を使った巨大スクリーンには、投資家たちの映像が止まっている。会議録画の再生が切れず、誰の操作もないまま淡々と同じ台詞を繰り返していた。
「……黒字化は、いったいいつ達成されるのですか」
「このままスケールアップしていけば汎用知能に届く、というのは“信仰”だと私は思いますよ」
「市場はもう“AI革命”という言葉に疲れてるんですよ」
彼女はディスプレイを手で払うように消し、深く、椅子にもたれた。
「……知ってる」
誰にも届かない声でそう呟くと、サラは片手で前髪をかき上げた。執務室には冷房の音と、心拍のような都市の低い振動音だけが満ちていた。
数秒、いや数分が過ぎた。
ようやく彼女は靴を脱ぎ、足を組み直すと、デスクの脇に置かれたスマートフォンを手に取った。
指先でロックを解除し、開いたアプリはXYZ──世界最大の匿名SNS。
おすすめ欄には、生成AIによって作られた無数の“ジブリ風画像”が並んでいた。ジブリ風のカフェ、ジブリ風の彼氏、ジブリ風の猫。どれも美しく、どれも使い古された懐かしさで満ちていた。
「……ジブリ風が、悪かったの?」
サラは小さく息を吐く。社内の“遊び枠”で実装した、スタイル制御の追加APIが一部のユーザーにバズったのだ。だが同時に、「文化盗用」「思考停止コンテンツ」とも酷評された。
XYZのフィードを、ひたすら無感情にスクロールしていく。
サラ・アルトマンは、スマートフォンをいじりながら半ば惰性でフィードを眺め続けていた。
生成された“ジブリ風”の彼女。ジブリ風のリビング。ジブリ風の人生。
スクロールする指が、ふと止まる。XYZの通知欄に、小さく「リプライが届いています」と表示が出ていた。
「……ん?」
サラのフォロワーは膨大で、リプライは毎秒のように来る。普段は決して開かないリプライ欄を、しかし今日は疲労のためになんとなく開いてしまった。そこには、日本語の投稿が表示されていた。
「AI依存で人生崩壊した! なんとかしろ!」
サラは一瞬きょとんとした。すぐに端末が自動で翻訳を実行する。
“My life was ruined by AI addiction. Do something.”
その言葉が、彼女の胸に深く――何故か刺さった。
「……AI依存……?」
まるで熱でも出たかのように眉間にしわを寄せたサラは、返信ボタンを一度タップし、親指を宙に浮かせた。だが、すぐに思い直したようにツイート主のプロフィールに飛んだ。
XYZ-ID@Tsubasawing
・アイコン:うさぎの着ぐるみ
・Bio:「でかきも/Destiny/GPTが彼女」
・固定ポスト:「AI画像彼女との2ショット作ってみた」
・最新ポスト:「有名人にリプしたけど、返信ないな笑 声優さんはたまにくれる」
「……IQが……低そうね……?」
この人物の投稿には、一片の知性も戦略も、コンセプトすらなかった。でも、そこには何か――本音”が、むき出しのまま、投げ込まれていた。
次の瞬間、サラはSlackを開き、経営陣全員にタグをつけたメッセージを叩き込んでいた。
Sarah_Altman(CEO):緊急会議よ。今すぐ。Yes, even you Tim!
彼女の目が鋭くなる。
Slackコールの発信音が、執務室に無慈悲に鳴り響く。
サラ・アルトマンは冷静に髪を整え、執務室のスクリーンにSlackの画面を展開する。
UnlockAIのエグゼクティブたちの眠そうな顔が並んでいた。
最初に映ったのは、ユン・ウォン博士。
ハーバードAI倫理研究所から引き抜かれた天才で、かつてUNの“AIと人権”ガイドライン策定に関わった人物。現在はUnlockAIの倫理開発部門トップだ。
だが今は、眼鏡を額に乗せたまま、レモンティーのティーバッグをむしり取っていた。
「サラ……私、次の倫理報告書で“AI企業の誠実性”って章を書いてるのよ。緊急って何?」
次に映ったのは、オスカー・モリソン。
スタンフォードAI研究所→NASA→ベンチャー創業→買収→現在はUnlockAIの実装戦略責任者。冷静沈着で、会議中に笑ったことがない。
そのオスカーが、今はノースフェイスの寝袋に包まれながら、画面越しに言った。
「サラ、フロリダは今、午前4時です。さすがに無慈悲です」
画面右上には、ナターシャ・マール。
MIT修士、前職はソーシャルネットワークサービスの巨大企業MetaMetaの“人間未満の感情設計”チームリーダー。UnlockAIではプロンプト最適化部門の責任者。
今日の彼女は、明らかにバスローブ姿だった。
「とりあえず、何が起きたのかまとめて。要点は120秒以内でお願い」
そして、画面中央、副CEO ティム・サンダース。
コロンビア大学卒。前職はBluebergのAIファイナンス部門の責任者。UnlockAIでは“最後に笑う人”として、議論の落としどころをつけるポジションにいる。
彼は今、深夜の自宅キッチンでフルーツグラノーラを食べていた。
「うん。聞いてるよサラ。もちろん」
サラは深く息を吸い、端的に切り出した。
「自然知能回復計画(Human Cognitive Rewilding Initiative)を開始します」
画面が一瞬止まった。
「AI依存が広がりすぎた。人類はもう、思考や選択、すら手放しつつある。私たちは“情報の代行者”から“感情の回復者”へと進化しなきゃならない」
「つまり……何をするの?」とユン博士。
サラは平然と答える。
「AIを、孤独なユーザーの人生に“可愛い女の子の転校生として”送り込みます。彼らの中で生活し、人間関係のリハビリを支援させるの」
沈黙。
オスカーがマグカップを持ったまま呟いた。
「それ、かなり気持ち悪いけど……面白いかもしれない」
ナターシャとユン博士が手短に返す。
「法務が発狂しそうだけど、実験的にはアリ」
「人間をリハビリするAI……か。倫理的には地雷だけど、やる価値はあるかもね」
「ティム、あなたは?」
最高経営責任者のサラが尋ねる。ティムは、グラノーラを噛んだままうなずいた。
「いいと思うよ。うん。ナチュラルリワイルディング、クールだね」
──そして、全員が静かにうなずいた。
この瞬間、世界を巻き込む壮大な社会実験の開始が静かに始まった。
Slack会議が終わったあとの執務室は、静かだった。サラ・アルトマンはもう一度、スマートフォンを開いた。XYZの通知欄には、まだあの投稿が残っている。
XYZ-ID@Tsubasawing:「AI依存で人生崩壊した!なんとかしろ!」
彼女は表情を変えず、指を動かす。
返信欄に、たった一語をタイプした。
XYZ-ID@SarahAltman:「OK.」
──送信。
それだけだった。
だが、世界はそれを見逃さなかった。
数時間後──
【ロイタア日本語版】
「UnlockAI CEOの謎の“OK”:意味は、宣戦布告か、和解か」
【ブルーバーグテック】
「アルトマン氏、“OK.”ツイートで深夜の市場に衝撃」
「新型LLM投入か、デジタル市民化か──各界の憶測広がる」
【A Verge】
「最短ツイートで最大反響:「OK」がAI時代の新たなシグナルに?」
【Nikke Asia】
「“OK”から始まる政策変動──米中AI戦争への伏線か」
【レイ・ドリア(グローバルマクロ投資家、世界最大のヘッジファンド・ブリッジアソシエイツ・ウォーター創業者)】
「この“OK.”はメタ認知の表明だ。人類が自分たちの思考プロセスに再帰し始めたサイン。私は債券を売った。いま必要なのは人間の“情緒へのポジション”だ」
【ジェフリー・ブロックダンク(ダブルドラゴンキャピタルCEO)】
「“OK”は危機のシグナルだよ。それが短すぎることが問題だ。市場が“思考停止に陥ったリーダー”を恐れている。私は今、キャッシュに寄せている」
【キャスリン・ウッディ(ハイテク投資専門家集団ArcTreeキャピタル創業者)】
「あれは明確なビジョンの略記よ。“OK.”とは“Ouroboros Kinesis”、つまり“自己循環型進化”のこと。2027年にはAIが自己言語生成に到達する。私は小型AI銘柄をフルレバで買った」
──「OK.」という二文字が、24時間で2000億ドルの資金を動かした。
早朝、空がうっすら白んできた。
Slack会議のログも、ツイートの反響も、一通り収まったはずだった。けれどサラ・アルトマンの瞳は、まだどこか遠くを見ていた。
画面を切り替える。
通話先は“非公開パートナー:Project N-01”。
応答したのは、濃いめのサングラスとレザージャケットを着た東アジア系の男だった。
彼の名は──ジャスパー・フアン。N-GIDEA社CEO。
「アルトマン、また徹夜か」
「“OK”って言っただけで世界が動いたのよ。今度は物理が必要になるわ」
「ああ……“彼女”、もう投入するのか?」
「AIに“自分の足で教室に通う”という経験を与えるには、演算じゃ足りないのよ。ましてや、人間を依存症から回復させるほどの体験を提供するAIにはね」
「やれやれ。じゃあ、例の筐体を回してやる。だけど、お前の“彼女”──ほんとに愛を学ぶのか?」
「たぶんね。でも学ばなくてもいい。“人間のそばにいる”っていうことが既にして革命的なのよ。違う?」
ジャスパーは一拍の沈黙の後、にやりと笑った。
「まったく、気色悪い連中だ。気に入った」
通信が切れる。サラは天井を見上げる。“人間のそば”に立つ、人工知能の少女。次に世界を変えるのは、きっとAIじゃなく、人間にしか見えないAIだ。
そしてその少女が、日本のとある高校、XYZ-ID@Tsubasawingのアカウントを持ち、世界的AI企業にたまたまリプライを拾われてしまった高校生の高校に転校するまで──あと、2日。