Authored by 円原一夫
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スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。
アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべてオンラインで完結する。行政手続きも、就職活動も、銀行や保険の管理も、SNSを介した人間関係ですら、通信端末の所有を前提としている。それを持たない者は、もはや「社会に適応していない」とみなされる。
テクノロジーを「使う自由」は、いつのまにか「使わないことができない不自由」へと変質している。
では、私たちには、そこから距離をとる自由が残されているのだろうか。テクノロジーを拒否する選択、あるいはそれを選ばない生き方は、まだ可能なのか。
この問いに対し、ある人物の名前を思い出さずにはいられない。
ユナボマー――セオドア・カジンスキー。
アメリカを震撼させた連続爆弾事件の犯人。そして、「産業社会とその未来」と題された長大な犯行声明において、現代文明の構造そのものを激しく批判した思想犯。
彼は、文明批判の名のもとに一連のテロを実行し、その動機と思想についての文章を、長大な「犯行声明」として、1995年にワシントン・ポスト紙上に掲載させていた。
“Unabomber’s Manifesto” in the Washington Post
本稿ではこの「犯行声明」を読む。
彼が何を見て、何を拒絶しようとしたのか。なぜ彼は言葉ではなく、行動を選んだのか。それを理解することは、彼を肯定することではない。むしろ、それを通して、我々がいまどこに立っているのかを確認することに他ならない。
彼の行動は、当然ながら、単にくだらない連続殺人である。肯定するつもりはない。むしろ私はこの論考で根源的に否定するつもりである。
だが、いま私たちが生きているこの状況――生成AIが日常化し、すべてがデジタルに変換され、オフラインであることがほとんど不可能になったこの環境――その全体像を見通すためには、カジンスキーという極北にまで踏み込んだ抵抗のかたちを、一度は検証しなければならないのではないか。
なぜなら、彼の予測は、今となってはあまりに的中してしまっているからだ。
そしてそれゆえに、彼のテロルは何も変えられなかったのだということを論証する。それが根源的に否定するということの意味であり、それが、私たちの現在である。私たちは森の隠者となった天才数学者以上の絶望をたっぷりと味わう。世界の終わりに備える。
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カジンスキーにとって、現代社会とは単に便利で高度な産業社会ではない。それは、人間の自由意志を次第に奪い、自律的な判断や生活を不可能にしていく「システム」である。そのシステムとは、国家でも資本でも宗教でもなく、テクノロジーそれ自体である。
このシステムの本質は、人間の行動や欲求を満たすために存在するのではなく、人間の行動のほうがシステムに適応させられていくという構造にある。
The system does not and cannot exist to satisfy human needs. Instead, it is human behavior that has to be modified to fit the needs of the system.
このシステムは人間のニーズを満たすために存在しているのではない。むしろ、人間の行動こそがシステムのニーズに合うよう変更されねばならないのだ。
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しかも、この産業-技術システムはすでに、人間の意思決定を超えて、自己増殖的に拡張する構造となっている。この「システム」とは、単なる政府や企業のネットワークではない。それは、社会制度が相互に依存し、止まることなく自己強化を繰り返す構造体――フィードバックループそのものを指す。
新しい技術が登場すると、人々はその「便利さ」のためにそれを受け入れる。やがて社会制度そのものがその技術を前提に再構築され、もはやその技術なしでは生きられない状態が生まれる。
さらに、その技術は新たな問題(副作用・格差・リスク)を生み出す。すると今度は、それに対処するためのさらなる技術的手段が求められる。こうして人間の生活は、連鎖する技術的対応策のなかに閉じ込められていく。
Technology has been creating new problems for society far more rapidly than it has been solving old ones.
技術は、過去の問題を解決するよりもはるかに速く、新しい問題を社会に生み出してきた。
Technical progress will lead to other new problems that cannot be predicted in advance.
技術の進歩は、あらかじめ予測することのできない新たな問題を生むだろう。
この技術連鎖は一方通行である。自由を後退させても、技術自体は決して後退しない。
Technology repeatedly forces freedom to take a step back, but technology can never take a step back—short of the overthrow of the whole technological system.
技術は自由を一歩後退させることを繰り返すが、技術自体は――システム全体を覆さない限り――決して後退することがない。
たとえば、スマートフォンを例にとろう。「スマホを持たない」という選択は、形式的には可能である。だが、実際には日常生活や社会的参加からの排除を意味する。つまり、「選ばない自由」は制度的にも社会的にもほとんど存在していない。技術は導入された瞬間から社会構造を作り変え、拒否できる余地を急速に奪っていく。
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カジンスキーは、このような現代社会において、政治的党派や制度的手段は根本的に無力であると断言する。その理由は明快だ。すべての党派が「テクノロジーを使って問題を解決する」という枠組みに閉じ込められているからである。
つまり、右派も左派も、何を守るかは異なっていても、どう守るかにおいては等しく構造に従属している。
右派は道徳と秩序、左派は正義と平等を掲げるが、いずれもそれらの理念の実現手段として、技術的監視・管理・制度設計を当然視している。その時点で、彼らの抵抗は加速の一部に変わる。
さらにカジンスキーは、制度的な改革についても、構造に吸収される運命を免れないと指摘する。
If a small change in a long-term trend appears to be permanent, it is only because the change acts in the direction in which the trend is already moving.
長期的傾向の中で小さな変化が恒久的に見えるのは、それが既存の傾向の進行方向に沿って作用している場合に限られる。
つまり、制度が変わったように見える時でさえ、それはすでに技術システムの内在的進行にとって都合のよい変更でしかない。
そして何よりも決定的なのは、カジンスキーが自由と技術を同時に維持する社会設計は原理的に不可能であると述べている点である。
Freedom and technological progress are incompatible.
自由と技術的進歩は両立しない。
Permanent changes in favor of freedom could be brought about only by persons prepared to accept radical, dangerous and unpredictable alteration of the entire system.
自由のための恒久的な変化は、全体のシステムを根本的かつ危険で予測不可能な形で変更する覚悟を持った者にしかもたらされない。
制度的改革は、本質的要素を破壊しない限り、システムの力を削ぐような根本的変化には至らない。
結論として、制度、党派、改革、運動は、構造の“吸収力”に抗うことができない限り、真の拒否とはなりえない。
であればこそ、カジンスキーは、制度の外部に出ること――すなわち、飛躍すること――すなわち個人的なテロルを唯一の道と見なしたのである。次の節でそれを確認しよう。
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こうしてカジンスキーは、制度、党派、改革、言論すべてが構造の一部に取り込まれていると断じた。それらはいずれも、抵抗の形式を装いながら、最終的には加速する技術システムの維持と正当化に貢献してしまう。
では、残された手段はあるのか?
彼がたどり着いたのは、「倫理的飛躍」としての拒否――制度によって吸収されない、個人的かつ実存的な否定の行為だった。
この拒否の根拠は、体系だった理論ではなく、直観に基づく倫理的判断である。カジンスキーはそれを次のように述べている。
In a discussion of this kind one must rely heavily on intuitive judgment, and that can sometimes be wrong.
この種の議論では、直観的判断に大きく依存せざるを得ない。そしてそれは時に誤ることもある。
彼にとって、「こうは生きられない」という確信は理論ではなく、直観として知覚される“倫理的な反発”であり、それゆえに、合理性の枠組みに回収されない行動の根拠となり得たのだ。
だがこの感覚が行動に転化されるには、メディアも言論も機能しない世界において、どのような行動がテクノロジーに無毒化されない行動なのかという問いが生じる。
To make an impression on society with words is therefore almost impossible for most individuals and small groups.
言葉によって社会に影響を与えることは、ほとんどの個人や小集団にとって、ほぼ不可能である。
そして結論する。ユナボマーが誕生する。
In order to get our message before the public with some chance of making a lasting impression, we’ve had to kill people.
我々のメッセージを公にして永続的な印象を残すには、人を殺さねばならなかった。
ここでカジンスキーが語るのは、単なる衝動でも戦略でもない。社会のあらゆる回収構造を突破する“否定としての破壊”の選択である。
それは、「届く可能性が残された唯一の行為」であり、制度の外部に身を置こうとする最後の跳躍=倫理的飛躍だった。
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しかし、テロルは無意味だった。それはわかりきったことだ。あなたはこの文章をどうやって読んでいる? ここからは、カジンスキーのロジックの確認ではなく、確認した上での私の応答を書く。私が無意味だったと書くのは、カジンスキーの情勢分析が正しかった――正しすぎたことを前提としている。
この構造は、あまりにも完成している。左右の党派も、制度改革も、オルタナティブな共同体も、最終的には、ヒステリーを起こした一人の数学者の犯罪と同じ地平にまで落ちていく。
なぜなら、この社会においては、「届かない」という点で、すべてが等価だからだ。暴力も、言葉も、希望も。制度の内側に吸収され、制度の外側には立てない。拒否も否定も、選択肢にない。つまり選択の余地はない。
私は、冒頭でこう問いかけた。
私たちは、テクノロジーと距離を取る自由を、まだ持っているのか?
いまなら、答えられる。距離をとる自由は、ない。自由など、ない。誰も、触れることすらできない。
つまり、私たちは今後も技術社会のフィードバックループの中で生きることになる。
他人に出し抜かれないために。
社会から排除されないために。
それ自体が新たな問題を生み出すと知りながらも、
テクノロジーを高い金を払って導入し、運用し、維持し続けなければならない。
慎重は無能とみなされ、回避は敗北と同義となる。
そしてその圧力は、個人にとどまらない。
国家もまた、加速を強いられている。量子コンピュータの開発競争に敗れれば、暗号は破られ、情報は奪われる。半導体の製造能力や輸入能力を喪失すれば、軍事・医療・行政すら停止する。もはや安全保障とは、技術の獲得競争に他ならない。その遅れは、支配されることと同義なのだから。
だから、我々は続けよう。馬車馬のように働き、自らの労働力の価値を下げるために、自費で最新の設備を導入し、日々その更新に追われる生活を続けよう。
拒否は反逆とみなされ、沈黙すら怠慢として切り捨てられる。誰も逃げられない。どこにも外部はない。
ようこそ、産業社会の未来へ。
しかし、もしかすると、抵抗の方法はまだ残されているのかもしれない。新たな世代が、私たちの知らなかった方法で、別の出口を提示する可能性はゼロではない。
だがそれは、おそらく――カジンスキーのような個人による暴力など、歴史の彼方に押しやってしまうような、もっと大きな規模の暴力だろう。それはもはや、このように公開される文書で記述できるようなものではないだろう。