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For the end of the world and the last man

月: 2025年4月

  • 202503021711:【連載】N4BEK0『ドイツ滞在記』

    202503021711:【連載】N4BEK0『ドイツ滞在記』

    Authored by N4BEK0

    ドイツに来てから初めてウクライナ人と出会い、彼らの自国批判を聞いて、ウクライナは汚職のひどい国だという印象を持った。その腐敗具合が想像以上で、笑いのネタにしていたこともあった。その後、ロシアの侵略戦争が始まり、難民支援を通じて多くのウクライナ人と接する機会があった。元夫の家に難民として住んでいた女の子とは今もやり取りを続けており、彼女はウクライナに戻った後も、現地のリアルを教えてくれる。

    民間人は常に危険に晒され、定期的な攻撃で多くの死者が出ている。インフラもボロボロで、停電は当たり前だという。それでも彼女はウクライナを離れたくない。同じように、たとえ戦争が続いても自国に留まりたいと考える人は多い。そんな状況を聞くと、いたたまれない気持ちになる。理不尽に民間人が死んでいく。

    しかし、現実は厳しい。ウクライナはアメリカの支援なしでは戦争を続けられない。西側諸国は資金や武器を提供しているが、NATO加盟を認めず、実質的な軍事介入は避けている。ウクライナやモルドバなどの旧ソ連諸国は経済的に貧しく、もともと民族対立が絶えなかった。さらに、ロシアの侵略戦争によって、周辺国から反ロシアのアナキストや武装勢力が流入し、ウクライナ国内には多様な政治思想が混在している。皮肉なことに、こうした勢力が共存できているのは「共通の敵」であるロシアとの戦争があるからだ。

    だが、もしこの戦争が終わったらどうなるのか。外敵を失えば、国内の対立が激化し、シリアのような内戦状態に陥る可能性もある。西側諸国がウクライナを全面的に支援し続ける保証はなく、期待するべきではない。今はトランプとゼレンスキーの会談が決裂して、いたたまれなくなった西側諸国の政治家たちがゼレンスキー支持を表明してるけど、それと具体的な軍事支援は別だ。

    そう考えると、ウクライナの一般市民のためには、今の段階で停戦し、ロシアに一定の譲歩をすることが現実的な選択肢なのかもしれない。これは、もともと汚職や民族・政治的対立が激しかった国が辿る、悲しい運命なのだろう。仮にロシアがウクライナを支配しても、民族主義勢力の抵抗やポーランド・バルト三国の反発によって、しばらくは混乱が続くかもしれない。

    それでも、ウクライナがアメリカの支援なしに今のような戦争を続けることは不可能だ。そもそも、永遠に戦争を続けることなどできないのだから。

    2025年3月21日


    執筆者:N4BEK0

    在独日本人労働者。

  • 絶望することに絶望するための独立したメディア「OnTheBeach」への支援と連帯の呼びかけ:DONATEページの開設のご報告

    絶望することに絶望するための独立したメディア「OnTheBeach」への支援と連帯の呼びかけ:DONATEページの開設のご報告

    この世界には、偽りの希望を売る人たちがたくさんいます。しかし、本当に必要なのは「絶望」と「絶望することへの絶望」ではないでしょうか。

    そして、それを生産できるほどに苛烈な認識は、「OnTheBeach」のように独立したメディアにしか不可能です。どのように飯を食っているかということに、人間の認識能力は強く影響を受けるからです。

    もし、このようなメディアに維持されるべき価値があると感じてくださったなら、ぜひ、ご支援をお願いいたします。

    サーバー代等、ブログ運営費に利用させていただきます。

    円・Bitcoin・Ethereumのいずれでも可能です。

    詳細は「DONATE」ページをご覧ください。

    2025年4月13日
    OnTheBeach管理人・円原一夫

  • 大規模な検閲体制を打ち破るためにご協力ください:OTB Store(渚堂)開店のご報告

    大規模な検閲体制を打ち破るためにご協力ください:OTB Store(渚堂)開店のご報告

    OTB Store(渚堂)を開店いたしました。

    OTB Store(渚堂):https://nagisanite.booth.pm

    OntheBeachの物販部門という位置づけです。

    こちらの商品をご購入いただくことで、あなたの現実にもうひとつの現実がそっと重なります。

    終末を待機する渚で笑う犬のカップやステッカーを通して、「この世界はますます壊れていく」という確信を、友人や同僚、家族へ静かに伝えることができるでしょう。

    時には、嫌な上司、酷薄な同僚やクラスメイトへの「魔除け」にもなるかもしれません。

    また、売上は、偽りの希望を売り歩く者たちばかりのメディア状況のなかで、独立した言論を維持する「OnTheBeach」の諸費用の支援にもなります。

    アポカリプス・ナウ。大丈夫、あの渚で犬は笑っている。

    恋人やパートナー、お子様やご両親へのプレゼントにも、ぜひどうぞ!

  • きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    Authored by 円原一夫

    ようやく『君たちはどう生きるか』を観ることができた。およそ、粗筋やキャスト、舞台について何も知らずに映画を観ることがなかったため、まずその点で新鮮な体験だった。とはいえ、とにかく私はこれを宮崎駿の作品であるということだけは、確かに、知っていた。

    宮崎駿の作品に共通するのは、その、日本中の家族を動員するほどの、ある種の単純さである。シンプル・イズ・ベスト。俺は褒めてんだぜ(立川談志)。『風立ちぬ』のような作品を除けば、宮崎駿の映画作品は概ね、「オールドな啓蒙主義」の作品であり、ビルドゥングスロマンであり、「行きて帰りし物語」である。少女が異世界で労働を通して成長し、日常へ戻って僅かに世界を改善する(『千と千尋の神隠し』を想起せよ)。

    そして、この『君たちはどう生きるか』もまた、「オールドな啓蒙主義」の装いを保っていた。だから、宮崎駿が好きなものは、『風立ちぬ』に拒否反応を示したものも、面白く観ることができるだろう。

    しかし私は『君たちはどう生きるか』を「オールドな啓蒙主義」を面白おかしく説明するための題材にするような真似はしない。批評は認識の革命である。批評は、あなたが自分が本当には『君たちはどう生きるか』を観ていなかったと悟らせ、もう一度、劇場に足を運ばせる。そう、私はこれが「オールドな啓蒙主義」の装いを保ちつつ、「オールドな啓蒙主義」を超えた作品であると、あなたに言いたいのだ。つまり傑作である、と――。

    そのために私が考えてみたいのは、何故、あの塔の中の世界では妊婦である夏子に近づくことが禁忌とされていたのかということである。幾つかの台詞で、しつこく、夏子の腹の中に子どもがいるため、接触が禁止されていると説明され、そしてその侵犯が物語をさらに進める。インコですらもが、子どもが腹の中にいるため夏子を食べようとはしない。

    この「禁忌」の謎を、私がこの作品を分析するために選んだのは、必ずしも恣意的なものではない。偉大な法学者ハンス・ケルゼンは、法規範の最終的な根拠、あらゆる法規範を妥当なものとする最上位の法規範である根本規範という概念を提唱したが、私はこの「禁忌」の分析を通して、あの世界の根本規範を素描しようと企図しているのである。

    さて、結論から書けば、これは赤児が「無垢」であるためなのである。あの異世界は無垢な者が構築し、悪意の汚れのある者たちが運用・保守しなくてはならない世界としてある。ペリカンはそれを「地獄」と言ったのだ。無垢な者などこの世界に存在しないのだから。そう、始めから全てが間違えている。だから、「地獄」。

    あの世界の根本規範を考えるための、今ひとつの材料は、眞人が何故、あの世界の次代の創造者に選ばれ、そして、それを彼が何故、断ったかということである。そして、前者の疑問への答えが「無垢であるから」であり、「実は無垢ではなかったから」なのだ。無垢、無垢、無垢。これが今回のこの映画の根本規範だ。

    あなたは、このような疑問を持ってよい。例えば、何故、次代の創造者は「ヒミ」や「キリコさん」、「夏子」ではなく、眞人なのだろうか?

    ここでもまた考えなければならないのは、「無垢」である。「ヒミ」は実は主人公の母であり、「キリコさん」は眞人の母の屋敷に勤めていた女中なのである。「ヒミ」が何故、あの塔の中の異世界に入ったのかは明示的には描かれていないが、重要なのは、「キリコさん」を伴っていることである。彼女は女中を伴って、塔の中に入ったのだ。間違いなく地方の名士の娘である彼女が、塔の中の異世界でも召使い(と主人の関係)を必要とした人間であると想像するのは、私のプロレタリア的嫉妬のためだろうか。そして、塔の中で、「キリコさん」は自らは殺生しない「無垢」な者たちに肉を提供するため漁に従事し、「ヒミ」は(恐らくは)塔の中の循環の維持のために連れてこられ、致し方なく「わらわら」を食べているペリカンを火炎で追い払い、火傷で殺すような労働に従事している。そして夏子は家庭を放棄して、塔の中に入り、やがて訪れた義理の息子を危険に曝す。

    安心してください。私はまだ主人公と彼女たちの決定的な差異について解き明かしてませんよ。

    彼女たちと眞人の差異は何だろうか? 私たちが想起すべきは、眞人は「予め」次代の創造者だったわけではないということである。そうだとすれば、映画が1時間で終わってしまう。彼は「大叔父」に案内を依頼された「アオサギ」に連れられて、あの世界を冒険しなければならない。冒険して、最も危険な場所である「夏子」のいる部屋に入る。彼は彼女を「夏子母さん」と呼ぶ。主人公の父親の再婚相手である夏子を、複合名詞である「『夏子』『母さん』」と呼んで、母の喪失を彼なりに乗り越えようとする。

    これこそ、主人公と彼女たちの差異が明白になった瞬間であった。冒険は継承者の選定に必要な過程であった。主人公だけが自分のためにではなく、誰かのために塔の中の世界に入ったことが明らかになった。彼は「悪意のない」積み木を渡され、塔の世界の継承者になることを求められる。

    しかし彼はそれを拒否する。「この傷は自分でつけました」。彼は疎開先の学校で喧嘩をした帰り道、自分で自分の頭を石で殴り、大きな傷を作る。その傷のことを、「大叔父」に伝えて、オファーを断る。

    この傷が「大叔父」からのオファーを断る理由になるのは、次のような状況のためである。実に宮崎駿は細部にまで「無垢」というテーマを徹底した。この映画は戦時中が舞台であり、そして眞人の父親は軍需工場のオーナーなのである。木村拓哉演じる彼は、眞人を心配して(勤労奉仕という意味のないことをしている)学校には行かなくていいと言ったり、日本軍が苦戦していることを正確に認識しているような、実に物分りのいい、頼りになる、良き父であるのだが、しかしまた、たしかに軍需工場のオーナーであり、日本軍の苦戦による需要の増大を喜びもし、そして「父」らしく、妻の死による家庭の混乱を直ちに妻の妹との結婚で平定するような人間でもある。眞人が喧嘩をしたのは明らかに、軍需工場のオーナーの家族とは生活水準で差があり、自分たちの農地から労働力を奪い去る戦争の最中にあっても、軍需工場で労働するか、農地を耕すしかない人々の子弟であった。

    つまり「この傷は自分でつけました」という台詞は、また、「私は自分を罰しました」と言っていることに等しい。「無垢な者などいない」と言っていることに等しい。自分の利益のために何かをしないなど、無垢であることの証明にはなりはしない。ましてや、少年であることなど。眞人は既にペリカンを埋葬しているのであり、この台詞で、オファーの拒否で、無垢な者が世界を構築すれば世界は良くなるという大叔父の発想があまりにも無邪気であることを指摘したのである。大叔父も、静かに、眞人のオファーの拒否を肯定するより他にはなく、ひいては無垢な者が世界を構築するという自分のプロジェクトの崩壊を理解するより他にはない。だから彼はあの世界と運命をともにした。

    さて、私は、この映画の最大のテーマが「無垢な者」であることを明らかにした。だから今では、あの塔の世界の禁忌が赤児との接触であるのは、赤児が無垢な者であるからだと、今、ここに書くことができ、そしてまた、そこから循環的に、あの世界にいる者は「ヒミ」ですらが赤児との接触を禁じられているからには、無垢な者ではないと言うことができるだろう。

    そして赤児による統治も現実的ではない。私は行政学的、政治学的な統治行為の研究を引くつもりはない。この映画がそう言っているのだ。禁忌は破られたではないか。それも、「悪意のない積み木」の継承者に選ばれた者によって。そして赤児を崩壊する世界から外の世界に連れて出すのは、もちろん、「悪意のない積み木」の継承者には選ばれなかった女たちであった。

    そう、世界は無垢な者たちが作るものではない。「ヒミ」は火の中に身を投じ、眞人と夏子は火で焼かれた後の東京へ帰る。世界は無垢な者たちのものではない。「この傷は自分でつけました」と言える者のものである。

    啓蒙主義のプロジェクトは「蒙」を「啓」かれた者たちが良き世界のためには必要であると宣言したが、出現したのは「蒙」を「啓」かれた(と自称する)者たちによる地獄であった。現実に、ペリカンではなく人間が世界の維持のために必要だとして焼かれたのであり、焼かれている。

    善き世界の構想ではなく、悪しき世界の継承。

    言い換えれば、火の中に身を投じること、あるいは焼け跡に帰ること。

    だがそれは映画の中で描かれたように、無垢であると観念されているような世界の大規模な崩壊なしには、現れないような人々によってだけ、可能なことだろう。

  • 金の力とは生産と流通の過程を忘却させる力のことである:マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

    金の力とは生産と流通の過程を忘却させる力のことである:マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

    Authored by 円原一夫

    金の力とは何であるのか、そのことが本書を読めばわかる。この本は金の力をなくした男の本だからだ。我々が金の力のある状態と金の力のない状態を比較することを、この本は可能にする。とはいえ、あまり悲壮感はない。金の力を欲しながら金の力をなくした男の話ではなく、金の力を意識的に自分から切り離そうとした男の話だからだ。この悲壮感の欠如が、何よりも重要である。これは、あくまで金の力なしで「生活」しようとした本だ。例えば予め一年分の食料を買い込んで、意識の喪失している時間を増やそうと睡眠薬を飲み続けるとか、そういう話の本ではない。

    金の力など、もう、知り尽くしているとあなたは言う。あなたは金で苦労したり、金で快楽を味わったり、政府は信用できないが金融庁は信用して米国株インデックスをつみたてNISAで購入したりしている。しかしそれは金の力の一面に過ぎない。やはり、あなたは金の力を知るために、この本を読むべきだ。あなたは空気の力を知っていて、換気したり、深呼吸をしたりするかも知れないが、あなたは空気の力を私の言うような意味で知らないから、夕食の残りを入れたジップロックやUSBの差込口に息を吹き込む。

    では金の力とは何か。金の力は望むものを手に入れる力ではない。そのような力は他に幾らでもある。それは金の力の本質ではない。本書が示しているのは、まずはそのことである。あなたも、もうそれは薄々、理解している。だからあなたは自国通貨が毀損されて家計簿アプリの米国株インデックスの名目価格が上がった表示を見ると嬉しくて仕方ない。

    既に私は本書が「意識的に」金なし男となり、なお「生活」を試みる男の話と書いたが、そのおかげで、金の本当の力が明らかになる。彼はありとあらゆる手段を使って、金なしに食料を獲得し、トレーラーハウスを獲得し、トレーラーハウスを置くための土地を獲得し、金なし生活を開始する。さらにまた、金なし生活中にクリスマスに両親の実家へ訪れたり、海を渡ったりもする。具体的な手段の詳細については、あなたはこの本を図書館で借りて読むことで知ることができる。大まかには、あなたはここで読むことができる。大まかには、膨大なコミュニケーションによって、である。彼は実は本書執筆時点でフリーエコノミー運動という、自分の持っている有形無形の物をシェアするための運動の活動家なのだが、まずはそのコネクションがあり、食べられる野草の知識を得たり、必要とされなくなったトレーラーハウスにアクセスできる。また、巨大な農場を営む人々と繋がりがあり、彼は自分の労働を提供する代わりに農場の片隅にトレーラーを置かせてもらうように交渉し、成功し、家賃から解放される。実家には徒歩、ヒッチハイクなどを用いる。

    本書の記述の半分以上は、これである。つまり金なしに必要なもの、望むものを手に入れるための膨大なコミュニケーション、交渉、試行錯誤である。だから、私とあなたはこう言ってよい。金の力とはコミュニケーションの圧縮である、と。ある人とある人がお互いの有形無形の所有物を交換するという、この極めてありそうもない、マーク・ボイルがそれ自体で一冊の本を書くことができるほどに膨大なプロセスを、しかし明日も明後日も継続されるはずだと誰もが信じられるもの――すなわち経済システムへと転換させることができる、猛烈なコミュニケーションの圧縮、捨象である。あなたが金にうんざりしているが、金が欲しくて欲しくてたまらないのも、このためである。あなたはスーパーマーケットの店員(の実際は雇用主と株主)が、あなたがスーパーマーケットに行った時に欲しがるものを知らない。そこで、あなたは、九時から十七時(またはそれ以上)の時間帯にあなたの雇用主と株主が欲しがる労働に従事し、代わりに金をもらう。そして、この金を持っていくと、スーパーマーケットの店員(実際は雇用主と株主)もそれを欲しがり、店内の商品との交換を持ちかけてくる。だから、あなたはマーク・ボイルがしたような、スーパーのマネージャーや地元NPO団体と交渉したり、ゴミ箱を漁ったりすることなしに、なんだったらAirPodsを耳につけてSpotifyのストリーミングをする音楽を聞いてスーパーの店員など会話するに値しないという態度を示しながらも、スーパーの店員に殴られたりせずに商品を手に入れることができる。

    しかし、どんな力も常に両義的なものである。金の力とは、コミュニケーションを圧縮する力なのであるが、そのことが問題を引き起こす。この本が、今や自国通貨の価値を毀損するしか経済政策を持たないどこかの国の書店に平置きされている、どこかの国の輩が書いた節約本と違うのは、そのことを直視しているからだ。そもそも、マーク・ボイルが金なし生活を始めたのが、その問題のためであった。マーク・ボイルはもうビジネスマン生活に疲れたとか、家族や地元の人と助け合ってくらしたいとか、金なし生活を始めた理由を幾つか書いているが、その中の一つを引用しておこう。

    お金は、富を簡単に、しかも長期間しまっておくことを可能にする。この便利な貯蔵手段がなくなったとしたら、地球とそこに住むあらゆる動植物の収奪を続けようと思うだろうか。必要以上の量を取っても利潤を簡単に長期保管できる方法がなければ、おのずと、そのときどきに必要なだけの資源を消費するようになるだろう。熱帯雨林の木々を誰かの銀行預金残高に変えることもできなくなるから、毎秒一ヘクタールの熱帯雨林を伐採する理由自体がなくなる。木が必要になるまでは地面に植わったままにしておくほうが、ずっと理にかなっている。(p.26)

    これはつまり、金の力すなわちコミュニケーションを圧縮する力の、別側面、別の視点からの描写である。あなたがランチの時に入る、駅ビルの珈琲チェーンのことを考えてみてもよいし、あなたが退勤後に買う死んだ動物の一部や、衣服のことを考えてみてもよい。あなたが金の力なしに、そこで売られていたものを手に入れようとすれば、あなたはそれを作っている過程について考えなくてはならない。マーク・ボイルはそうしている。これはマーク・ボイルが環境活動家だから、という、ただそれだけの理由ではない。彼は、自分が環境問題を意識しており、またビジネスに疲れ果てて金なし生活をしている身であるから、こうして交渉してあなたに所有物を渡して欲しいと頼んでいると交渉せざるをえない。だから彼は地元のNPO団体や有機農家に接触するのである。だから、彼は、金の力によってコミュニケーションを圧縮し、イデオロギーを問われないあなたのように、フェルキッシュな入植政策を続ける国に献金して標章されたCEOのために稼働する珈琲チェーンの珈琲を飲み、病原菌だらけの現場で移民に解体作業をさせたあと、繁忙期が終わったので移民局に通報して解雇の手間を省く食肉業者の供給する死肉を食べ、自動小銃を突きつけられながら裁縫する児童労働者の指紋のなくなった指から生まれた衣服を着ることになるならば、血の臭いや血の味や血の色を無視することができない。逆に言えば、金の力があれば、それを無視することができる。そして富と問題が蓄積されていく。

    あなたはまだ金の力を理解していない。だから、この本を読むべきだ。忙しく、また繊細なあなたはこの記事を読むことで金の力を知ったつもりになり、この本を読む時間を圧縮し、金の力をいつまでも享受できるように証券会社のアプリに指紋認証でログインする。または節約して、確定拠出年金の拠出額を増やそうとする。だが、あなたはまだ金の力を理解していない。何故って、あなた――あなた方の老後の二千万円のために、今日も株主たちはあなたの人件費を圧縮するように経営者を怒鳴りつけているからである。

    このあと、マーク・ボイルはいよいよ「テクノロジーを使わずに生きることに」なり、その成果を一冊にまとめることになる。それについては、別の機会に書くことにしよう。とにかく、この本は金の力のメリット・デメリットがともにわかる傑作なので、読んで損はない。どちらかだけを強調する人間が多すぎる世の中にあっては。

  • 飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    この「飢餓ゲーム批評宣言」シリーズまたはインデックスの説明

    物語を創作することは夢に似ている。両方とも、嘘である。そしてまた、もう一つ似ているのが、規制である。夢には規制がある。とはいえ、謎だらけの規制である。フロイトやユング、それから現代でも精神医学や大脳生理学がその実態を暴こうと挑んできた。物語にも規制がある。小説は作家の夢ではない。言語や編集者、出版、流通という規制が入る。映画も同様である。巨大な資本が使われるのでさらに厳しい。このように、物語は規制の、言い換えれば制御の産物であり、多くの人の手を経て、齟齬や誤解、偶然のノイズを極限まで取り除いた“滑らかな夢”として形を成す。

    しかし、いくら制御されていようと、完全にコントロールされた物語など存在しない。これも夢と同じである。奇妙な場面が現れる。筋の通らない展開、唐突な感情の変化、不自然な構図、説明のつかない選択、馬鹿げた台詞。それらは多くの場合、「作者の意図」や「制作の都合」として“答え合わせ”され、解釈の対象から外されていく。SNS全盛の時代であれば、なおのことである。

    だがここでは、この一連の記事では、そのような答え合わせを拒否する。むしろ、そこで間違っているのは作品全体ではないのか。コントロールされているように見えないところこそがコントロールされているとしたら?

    それをコントロールする“別の現実”が、背後に現れるであろう。

    この批評手法を、私は「飢餓ゲーム批評」と名付けよう。物語という夢の中に忍び込んだ、支配の影、資本の声、そして現実の重みを読み取るために。飢餓のゲームの時代、人々が歓喜とともに互いに互いを攻撃し、歓喜とともに凄惨な滅亡を積極的に選ぶ現実を読み取るために。ゲームのような、喜びに満ちた地獄。

    この記事はその方法論を宣言するものであり、すべての奇妙な場面に、新たな現実の射影として光を当てることを試みた記事へのインデックスである。

    つまりあなたは、以下の一連の記事を読むことで、作品を三度楽しむことができる。作品が、作品そのもの、作品の別の可能性、そしてあなたの周囲に拡がる現実という作品に分岐するのだから。

    2025年4月11日

    円原一夫

    プルードンとマルクスの思想の差異より世界の終わりについて想像するほうが容易い:映画『オッペンハイマー』

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  • ラディカルランドからこんにちは:シリーズ記事のインデックス

    ラディカルランドからこんにちは:シリーズ記事のインデックス

    この「ラディカルランドからこんにちは」シリーズまたはインデックスの説明

    「現実を見ろ」。それは、甘い情勢認識に対して、保有する資源や能力の限界を思い出させるための言葉である。現実を見ることは、しばしば苦しい。病理をもたらすことさえあるような、過酷な行為だ。このシリーズでは、そうした過酷な現実に向き合ってしまった者たち、語らずをえなかった者たちの言葉を取り上げ、そのロジックを検証する。彼らの語りは、物笑いの種となり、嘲笑され、しばしば「狂気」として忘れられる。だが、それは凄惨な事件を目撃した者が、それでもなお証言しようとしたときに立ち上がる言葉に似てはいないか? 破綻した言葉こそが、別の現実を見てしまった者の、唯一の証言であるかもしれない。だから傾聴してみようではないか。別の現実に触れられるかもしれない。

    ここで言う「傾聴」とは、支離滅裂に聞こえる語りを、それが真実であるような別の現実を仮定して聞くことである。刑事ならきっとそうするだろう。だから私は、刑事のような者になろう。突飛な供述を真顔で記録し、混乱した語りの中に隠された筋道を探る者に。語り手自身がその現実に耐えきれず、記憶がねじれ、説明が破綻していたとしてもいい。あなた方はそれを、「フォーマットが整っていない」「意味不明だ」と言って笑っていればいい。しかし私は刑事のようなものであるから、刑事が「会社の鞄を落とした孫」について、詐欺のショックで吃る被害者から根気強く聞き取り、なりすまし犯を特定しようとするように、私は、爬虫類型異星人という語りが、別の現実の記述においていかに“必要”だったのかを捜査しようと思う。

    だから、彼らの言葉を、証言として扱うことを拒まない態度が必要だ。そうでなければ、何一つ、事件の全貌には近づけない。これは、思想における捜査である。語られた“異常”が、ただ現実を否定するのではなく、もう一つの世界を語ろうとした痕跡である可能性に賭ける。

    このように、別の現実を記述すること、これを我々はラディカリズムと呼ぼう。この現実に対して、全く異なる現実を提案すること。だからこそ、それは異常に見える。だからラディカリズムとは、より効率的な年金制度の提案ではない。軍隊の再編成の構想でも、教育制度の改善でも、税制の見直しでもない。それらはラディカルではない、と定義上言えるだろう。

    そして、別の現実を知ることは、この現実を相対化することでもある。詐欺対策に本当に必要な認識とは、「馬鹿な被害者がいる」という安直な判断ではない。我々の社会と同じ場所に、“孫”や“警官”になりすましてでも他人の財産をかすめとろうとする人間が存在しているという、勤労者の道徳とは異なる水準の道徳があるという現実の直視、言い換えれば、考えたくもない現実の直視である。この「ラディカルランドからこんにちは」シリーズは、ラディカリズムの論理を内在的に把握し、分析し、提示し、あなた方に、それを可能にするための記事のシリーズであり、このインデックスはそのまとめである。あるいは私が記事を書く前に初心に立ち帰るためのメモ。

    とはいえ、そんなことが可能になっても、幸福がもたらされるとは思えない。場合によっては、悪い人などいないと思っている子どものほうが、幸福かもしれない。だから、もしかすると、あなたがこのシリーズに載るかもしれないが、それは決して不名誉なことではないと、ここに書き記しておく。

    2025年4月10日

    円原一夫

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    1

    「宇宙人は共産主義者である。そして彼らは、すでに来ている。」

    この言葉は、アルゼンチンの革命家フアン・ポサダス(1912–1981)の思想を象徴するものとして知られている。第四インターナショナルの分派「ポサダス派」を率いた彼は、ラテンアメリカ各地で革命運動に関与し、トロツキスト理論の普及に努めた。だが今日では、彼の名はしばしば奇矯なイメージと共に語られる。

    1968年に発表された論文『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』において、ポサダスは次のように述べている。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    宇宙人は来ている――だが、それは、ただの空想やロマンではない。ポサダスにとってそれは、ある必然的な論理の帰結だった。そして、その論理が今や奇矯にしか見えないというところに、この地球が絶望の星である理由がある。

    2

    ポサダスにとって、共産主義とは単なる理想ではない。 それは歴史の必然であり、理性の帰結である。ところが、彼が生きた現実の地球にはそのような理性がどこにも見出せなかった。

    労働者国家は堕落し、左派は分裂し、社会主義は資本の網の中で失われつつあった。 そして今日においても、社会を変える力は制度と想像力の両面から封じ込められたままだ。

    だとすれば――理性は実在しないのか? それを否定することは、共産主義のみならず人間の理性的可能性そのものを否定することになる。

    ポサダスはこう述べている。

    We accept that extra-terrestrial beings exist, as a conclusion of dialectical thought. This gives us confidence that we can master no matter what other phenomena that exist, without being caught off-guard.

    ポサダスにとってこれは、信仰ではない。理性を擁護するための、理性自身による“跳躍”だった。その跳躍の先にあるのが、宇宙人は存在する、そして彼らはすでに「来ている」という確信だった。

    3

    ポサダスは、宇宙人が観察者として来ており、地球のようなくだらない星の矛盾に巻き込まれていないことを何度も強調している。

    They have shown no interest in attacking, violating, stealing, possessing: they have come to observe.

    そして、彼らが非暴力的かつ穏やかな存在であることを、目撃者たちの証言から導いている。

    All the people who say that they have seen them, say that none of them were of an aggressive disposition or inspired fear in them.

    このような素晴らしい存在が地球を訪れているという仮説は、ポサダスにとって、地球外に、つまり世界に理性的な社会秩序が存在しているという思想的確信を支えるものだった。

    だからこれは当然のことながら、他方では恒星間飛行を実現していないような「地球人批判」でもある。ちょうど北欧のデモクラシーを例にあげて、その欠如としての日本のデモクラシーを批判的に検証するようなロジックと同じである。彼は、地球社会の支配階級が科学や知識を利潤や権力のために制限していることを批判し、次のように述べている。

    What does that give him? Power over others? And what then? … It does not give him any capacity to raise and develop his intelligence. On the contrary, it limits it.

    ここで言う「それ」とは、工場や軍事的地位などの財産・権力を指している。ポサダスは、富や権力が知性の発展を阻害していると主張する。恒星間飛行を実現し、穏やかに地球を見守る共産主義の宇宙人との、なんという差であろうか?

    4

    現代において、ポサダスの名前はミームの一部として再浮上している。「UFOを信じたトロツキスト」「宇宙人は共産主義者」「核戦争を肯定したマルクス主義者」といったラベルが、RedditのスレッドやTシャツ、ステッカー、ファンアートの中で再生産されている。

    だが、それは決して真面目な再評価ではない。 それは笑いであり、そしてしばしば不安に対する防衛反応である。ジョークというのは、しばしば恐怖に対する反応なのだ。

    つまり我々は、理性のないこの地球、そして理性のないこの銀河に住んでいることを、おそらく無意識のうちに理解している。そしてそれを直視するかわりに、「宇宙人なんているわけがない」と笑ってやり過ごすのだ。笑いの中にあるのは、理性の敗北を受け入れるという諦念である。

    我々が彼を笑えるのは、理性の実現をどこにも、銀河の果てまで探そうとも見出さないという社会的合意との差においてなのだ。

    ポサダスはこう述べた。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    これは、未来への希望ではなく、地上の理性の不在を埋め合わせようとする必死の跳躍だった。

    理性が地球にないのなら、せめてどこかにはあるはずだ——そして来ていてほしい。 そうでなければ、我々の惨状には終わりがない。理想社会、彼の言葉で言えば共産主義は実現不可能なものになる。

    だが、もし我々が彼をただの冗談として処理してしまうならば、それはこう言っているに等しい。

    「理性は、銀河のどこにもない。ポサダスが描いた地球の惨状は、永遠に続く」

    そしてそのとき、地球人にとってもっとも悲惨な結論が訪れる。

    ポサダスはやはり、完璧に間違っていた思想家だったのだ。


    参考文献

    J. Posadas, Flying Saucers, the Process of Matter and Energy, Science, the Revolutionary and Working-Class Struggle and the Socialist Future of Mankind, June 1968.
    https://www.marxists.org/archive/posadas/1968/06/flyingsaucers.html

  • 獅子のように立ち上がれ:デヴィッド・アイク

    獅子のように立ち上がれ:デヴィッド・アイク

    Authored by 円原一夫

    1

    「レプティリアン」という言葉を聞いたとき、多くの人は反射的に笑ってしまうかもしれない。爬虫類型の異星人が人類に擬態し、王族や政治家、巨大企業の経営者になりすまして世界を支配している——そんな話は、荒唐無稽な都市伝説にしか聞こえないだろう。

    しかし、こうした物語が広く流布し、時には真剣に信じられているという事実は、単なる妄想や騙されやすさだけでは説明できない。それはむしろ、現代において「社会について語ること」それ自体が困難になっている、という事態の表れではないか。そして、困難であるがゆえに、レプティリアンのような極端で滑稽な語りが、ある種の必要性を帯びて現れてくるのではないか。

    本稿で扱うのは、陰謀論そのものの真偽ではない。むしろ、問いたいのはこうだ——なぜ人は、レプティリアンのような“象徴”を必要とするのか?

    この問いを出発点として、本稿は「全体社会を記述する」という問題系と、いわゆる「陰謀論的言説」の構造的役割とを接続しようとするものである。

    人類を支配する見えざる構造の象徴として、そしてその支配から「目覚める」ための裂け目として、レプティリアンは語られる。つまりレプティリアンとは、社会の全体性を語るために必要とされた装置なのだ。

    その装置を発明したのが、デヴィッド・アイクである。もちろん、人口に膾炙する別の装置を用いることも可能だったはずだ。たとえば、「資本主義」や「多国籍企業」、「新自由主義」、「超自我」や「アルゴリズム」――いずれも社会の力を象徴する“敵”として通用する記号である。

    だが、アイクはそれらではなく、レプティリアンを選んだ。いや、選ばざるをえなかった。彼にとってはそれが、語りを可能にするための“本気の外部”だった。

    滑稽な語り。そのなかに潜む倫理。

    本稿の主題はそこにある。

    2

    社会について語るという行為は、表面的には単純な営みのように見える。だが、そこに本気で踏み込もうとするなら、すぐにひとつの矛盾に突き当たる。すなわち、「社会を批判する」という行為は、その語り手が社会の“外部”に立っていることを前提とするにもかかわらず、語り手自身もまた、まさにその社会の内部にいるという事実である。

    近代以降の思想は、この構造的な矛盾に様々なグランドセオリーで挑んできた。マルクス主義では、言語や意識を含む上部構造は経済的な下部構造に従属している云々。フロイト的視点では、主体の行動や語りは無意識に支配されており、自律的とは言いがたい云々。あるいはフーコー以降の権力論では、主体そのものが社会的な力学の産物として構築されている云々。

    しかし、このように、どの理論的枠組みに立とうとも、語る主体は社会の構造の中に組み込まれており、真に“外部”から語ることは不可能である。理論的枠組みそのものを理論的枠組みの射程に入れることは基本的に捨象されてきた。にもかかわらず、知識人――いや、私たちは日常的に社会を語り、批判し、分析する。そこでは常に、存在しない“外部”に立っているかのように語るという演技が必要とされる。

    演技。そう、演技だ。その演技を成立させるために用いられるのが、「敵」という装置である。語り手は、社会のなかの特定の勢力や構造を“敵”として設定することで、あたかもその敵から自由であるかのように、自らの語りの立場を仮構する。資本家、官僚、国家、アルゴリズム、メディア、父権、新自由主義、そして技術システム——それらは、語り手が“巻き込まれていない者”として語るために必要な“外部の代理”として機能する。

    敵は、単に語りの対象であるだけでなく、語りを可能にする条件でもある。構造の全体を象徴化し、それに抗する主体を位置づけるために、敵は“発明されねばならない”。この構造において、語りとはつねに「私だけはそれに気づいている」という前提の上に成り立っている。気づいた者として、語り手は構造を超越しているかのように振る舞うことができる。そうでなければ、語る資格がないことになるからだ。

    デヴィッド・アイクの語りにおけるレプティリアンは、この構造を極端なかたちで体現している。彼にとって、象徴としての敵では不十分だった。「資本とは自己増殖する価値の運動体である」。こんな敵では不十分だったのだ。彼は、文字通り「社会の外部」から来た存在として、レプティリアンを設定した。比喩ではなく、実在する異形の存在として。

    それによってアイクの語りは、「外からの告発」として遂行される。レプティリアンが物理的に“外部にいる者”であることによって、彼の語りは、その立場を保証することができるのだ。それも、強力に。

    この一見すると滑稽な構造のなかに、むしろ語りの成り立ちの深層が露呈している。社会の構造を記述し、批判するという営為は、常に自らの語りの位置を「演出」することによって成り立っている。レプティリアンは、その演出をあらかさまなかたちで遂行した、過剰で露骨な装置である。

    だが、過剰であるからこそ、そこにこそ語りの構造がむき出しになる。だから、我々は我々の社会を支配する力が「自己増殖する価値の運動体」であるとインテリが言う時には黙っているが、レプティリアンが社会を支配しているという時には、爆笑するのである。

    つまりレプティリアンとは、社会の全体性を語るために必要とされた“外部の形象”であり、同時に、その語りの(困難さがゆえに必然的に生じる)滑稽さを引き受けた者の誠実さの徴でもある。

    3

    では、レプティリアンはどのように語りを成立させているのか。

    デヴィッド・アイクの語りにおいて、レプティリアンは単なる“敵役”ではない。むしろ彼らは、語りの構造を成立させるために必要な、象徴的な条件である。語り手が「社会の全体構造」を把握し、それに対して語るためには、その全体をひとつの像として集約し、象徴化する必要がある。

    現代社会を構成する諸要素――経済、政治、制度、メディア、テクノロジー、無意識など――は、あまりに複雑で拡散的であり、それらをひとつの視点から語ることは困難である。語りが成立するには、こうした複雑な力の網を一つの核に“収束”させる必要がある。レプティリアンは、その象徴的な核として機能している。

    彼らは、社会を覆う見えざる支配構造を「人格化された外部」として引き受けることによって、語り手がそれを“語りうる対象”として扱うことを可能にする。つまり、語りが成立するためには、語られるべき社会が一度“敵”として整理されなければならないのである。

    だが、それだけでは語りは閉じた構造に終わってしまう。語りが語りであるためには、単に「構造を明らかにする」だけでなく、そこに抗い得る可能性、あるいは脱出可能な裂け目を示す必要がある。例えば「自己増殖する価値の運動体」の力について論じる気鋭のマルクス学者の言説は「自己増殖する価値の運動体」の影響下にはない云々。

    レプティリアンの重要な特徴は、まさにそこにある。彼らは、完全に見えない支配者ではない。むしろ、「気づくこと」が可能な存在として語られる。アイクの語りでは、人々がレプティリアンの存在に“気づく”ことで、初めて支配から目覚めることができるとされている。すなわち、レプティリアンは全体構造の象徴であると同時に、その構造を突破するための“裂け目”でもある。

    この両義性――全体性の象徴化と、そこからの脱出可能性の保証――を担っていることにおいて、レプティリアンは語りの装置として非常に高機能である。彼らは、支配構造の「像」でありながら、それを乗り越える契機でもある。語り手は、彼らに「気づいた者」として、構造の外側に立って語ることができる。レプティリアンという装置は、語り手の位置と語りの駆動力の両方を同時に提供しているのである。アイクの著作の自己啓発的側面はここに由来している。お望みなら、陰謀論の自己啓発的側面はここに由来していると、あなたは言ってもよい。

    レプティリアンとは、語りの論理に従った結果として出現した象徴である。言い換えれば、社会を語ることが困難になった時代において、語りを成立させるためにどうしても必要になってしまった装置なのである。滑稽で過剰で、荒唐無稽であるように見えるその語りのなかに、実は現代の語りが抱える構造的な問題のすべてが凝縮されている。

    そして、アイクはこの装置を、象徴としてではなく“現実”として信じてしまった。いや、語るためには信じるしかなかったのだ。だからこそレプティリアンは、社会を語ることを不可能にする力ではなく、むしろ語ることを可能にするために発明された、誠実なフィクションだったのである。

    4

    語ることが困難になった時代において、それでも語ろうとする者は、しばしば過剰に見える。過剰であること、滑稽であること、異様であること――それは、もはや語りそのものが成立しがたい状況において、それでも語るために必要な“強度”の現れである。

    現代の知識人の多くは、この困難を巧みに回避する。彼らは、自らの語りが構造の内部で成立していることを知りつつも、それを直接には引き受けず、皮肉や留保、相対化の技法によって語ることを可能にしている。語るとは言っても、あくまで“語りすぎない”ことを倫理とする態度。どこか冷静で、どこか距離をとっている。それが、語ることに対するひとつの処世術であり、生き残りの戦略でもある。

    例えば、もはや私がここまで散々言及してきたようなマルクス主義やフロイト理論のようなグランドセオリーを、明示的に利用するような知識人は稀である。言及せずに利用するか、あるいは、今の流行りは全体の理論なき連辞符の社会学である。

    だが、デヴィッド・アイクはその道を選ばなかった。彼は、語りの構造に自覚的でありながら、それを回避する術を持たず、あるいは拒絶し、語ることそのものに身を投じていった。

    アイクの語りには、皮肉も留保もない。彼は比喩として語っているのではない。彼にとってレプティリアンは、単なる象徴ではなく、本当に存在する支配者たちなのである。つまり彼は、「語りの構造を徹底的に遂行した結果として、信じてしまった者」だった。

    その語りは、もちろん暴走する。過剰であり、破綻寸前であり、論理としても破綻しているように見える。学問的意義もないとされているし、Googleでは検索から排除されている。だが、その過剰さは、何かを信じようとした語りの衝動の副産物である。

    語らずにはいられないという衝動。構造の中に巻き込まれながら、それでも語らなければならないという切迫。アイクの語りは、語ることを手放さなかった者の姿として、ひとつの極北に位置している。

    レプティリアンは、あまりに荒唐無稽な象徴である。だがその幼稚さ、神話的な誇張、世界観の大仰さは、語りを可能にするための“必要な滑稽さ”でもある。社会を語ることができなくなった時代において、語るためには、ここまで逸脱しなければならなかった――その逸脱の軌跡として、アイクの語りは存在している。

    私たちは多くの場合、語りの中に自分の安全地帯を確保し、語りすぎないことを知恵とみなしている。構造に巻き込まれたまま、巻き込まれていないふりをして語る。それもまた一つの生き方であり、知的な生存戦略だろう。

    だが、アイクは語ることを引き受けた。処世術を選ばず、構造の外部を、物理的な意味で設定するという荒技を用いてまで語ろうとした。

    滑稽さとは、そうした語りの誠実さが、構造の中で浮いてしまった結果として現れるものなのかもしれない。彼の語りが笑われるとき、その笑いのなかに、語ることそれ自体の倫理的な負荷が見え隠れしている。

    5

    レプティリアンという存在は、荒唐無稽で、過剰で、滑稽ですらある。だが、それでもなお、彼らは語りを成立させるために必要とされた。複雑に絡み合った社会の力学をひとつの像に象徴化し、同時に、そこから「目覚める」ための裂け目を提供する。レプティリアンは、語り手が全体構造を把握し、語るために“発明されねばならなかった装置”である。

    デヴィッド・アイクは、それを信じてしまった。いや、信じずには語れなかった。彼は、語りの構造に留保や皮肉を差し挟むことなく、「外部に立っている者」として語りきった。現代の語り手たちが皮肉と相対化で“安全地帯”を確保する一方で、彼は真正面から語り、過剰なまでに“信じた”。だからこそ、その語りは滑稽であり、破綻しているようにすら見える。

    しかし、その滑稽さは、語ることをあきらめなかった者の証でもある。語る資格を喪失した時代において、語ることそれ自体がすでに倫理的な選択となっている。皮肉ること、黙ること、笑うこと――それが賢明とされるこの時代に、語るという行為はすでにリスクであり、愚かさであり、孤立を意味する。

    では、アイクを笑うことは正当か? 彼の語りを滑稽だと笑う私たちは、本当に語ることができているのか? 冷笑と相対化の彼方で、語り手としての資格を私たちは保持しているのだろうか?

    レプティリアンという象徴は、そのような問いを私たち自身に突きつけている。それは語りの装置であり、信仰の対象であり、同時に、語ることの不可能性に抗おうとする最後の賭けでもあったのだ。

    だからこそ、この語りをただの冗談や妄想として処理するのではなく、いま一度、誠実に聴きなおすことが求められているのではないか。滑稽な語りのなかに、真剣に語ろうとする者の最後の姿が、かすかに立ち現れているのだから。あるいは獅子のような野蛮さ。

    そして私は、もはやアイクのような野蛮さなしにはもう誰も何も語れないと語っているのだが、この論考はこれで終わりである。

  • 社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    Authored by 円原一夫

    1

    スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。

    アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべてオンラインで完結する。行政手続きも、就職活動も、銀行や保険の管理も、SNSを介した人間関係ですら、通信端末の所有を前提としている。それを持たない者は、もはや「社会に適応していない」とみなされる。

    テクノロジーを「使う自由」は、いつのまにか「使わないことができない不自由」へと変質している。

    では、私たちには、そこから距離をとる自由が残されているのだろうか。テクノロジーを拒否する選択、あるいはそれを選ばない生き方は、まだ可能なのか。

    この問いに対し、ある人物の名前を思い出さずにはいられない。

    ユナボマー――セオドア・カジンスキー。

    アメリカを震撼させた連続爆弾事件の犯人。そして、「産業社会とその未来」と題された長大な犯行声明において、現代文明の構造そのものを激しく批判した思想犯。

    彼は、文明批判の名のもとに一連のテロを実行し、その動機と思想についての文章を、長大な「犯行声明」として、1995年にワシントン・ポスト紙上に掲載させていた。

    “Unabomber’s Manifesto” in the Washington Post

    本稿ではこの「犯行声明」を読む。

    彼が何を見て、何を拒絶しようとしたのか。なぜ彼は言葉ではなく、行動を選んだのか。それを理解することは、彼を肯定することではない。むしろ、それを通して、我々がいまどこに立っているのかを確認することに他ならない。

    彼の行動は、当然ながら、単にくだらない連続殺人である。肯定するつもりはない。むしろ私はこの論考で根源的に否定するつもりである。

    だが、いま私たちが生きているこの状況――生成AIが日常化し、すべてがデジタルに変換され、オフラインであることがほとんど不可能になったこの環境――その全体像を見通すためには、カジンスキーという極北にまで踏み込んだ抵抗のかたちを、一度は検証しなければならないのではないか。

    なぜなら、彼の予測は、今となってはあまりに的中してしまっているからだ。

    そしてそれゆえに、彼のテロルは何も変えられなかったのだということを論証する。それが根源的に否定するということの意味であり、それが、私たちの現在である。私たちは森の隠者となった天才数学者以上の絶望をたっぷりと味わう。世界の終わりに備える。

    2

    カジンスキーにとって、現代社会とは単に便利で高度な産業社会ではない。それは、人間の自由意志を次第に奪い、自律的な判断や生活を不可能にしていく「システム」である。そのシステムとは、国家でも資本でも宗教でもなく、テクノロジーそれ自体である。

    このシステムの本質は、人間の行動や欲求を満たすために存在するのではなく、人間の行動のほうがシステムに適応させられていくという構造にある。

    The system does not and cannot exist to satisfy human needs. Instead, it is human behavior that has to be modified to fit the needs of the system.

    このシステムは人間のニーズを満たすために存在しているのではない。むしろ、人間の行動こそがシステムのニーズに合うよう変更されねばならないのだ。

    3

    しかも、この産業-技術システムはすでに、人間の意思決定を超えて、自己増殖的に拡張する構造となっている。この「システム」とは、単なる政府や企業のネットワークではない。それは、社会制度が相互に依存し、止まることなく自己強化を繰り返す構造体――フィードバックループそのものを指す。

    新しい技術が登場すると、人々はその「便利さ」のためにそれを受け入れる。やがて社会制度そのものがその技術を前提に再構築され、もはやその技術なしでは生きられない状態が生まれる。

    さらに、その技術は新たな問題(副作用・格差・リスク)を生み出す。すると今度は、それに対処するためのさらなる技術的手段が求められる。こうして人間の生活は、連鎖する技術的対応策のなかに閉じ込められていく。

    Technology has been creating new problems for society far more rapidly than it has been solving old ones.

    技術は、過去の問題を解決するよりもはるかに速く、新しい問題を社会に生み出してきた。

    Technical progress will lead to other new problems that cannot be predicted in advance.

    技術の進歩は、あらかじめ予測することのできない新たな問題を生むだろう。

    この技術連鎖は一方通行である。自由を後退させても、技術自体は決して後退しない。

    Technology repeatedly forces freedom to take a step back, but technology can never take a step back—short of the overthrow of the whole technological system.

    技術は自由を一歩後退させることを繰り返すが、技術自体は――システム全体を覆さない限り――決して後退することがない。

    たとえば、スマートフォンを例にとろう。「スマホを持たない」という選択は、形式的には可能である。だが、実際には日常生活や社会的参加からの排除を意味する。つまり、「選ばない自由」は制度的にも社会的にもほとんど存在していない。技術は導入された瞬間から社会構造を作り変え、拒否できる余地を急速に奪っていく。

    4

    カジンスキーは、このような現代社会において、政治的党派や制度的手段は根本的に無力であると断言する。その理由は明快だ。すべての党派が「テクノロジーを使って問題を解決する」という枠組みに閉じ込められているからである。

    つまり、右派も左派も、何を守るかは異なっていても、どう守るかにおいては等しく構造に従属している

    右派は道徳と秩序、左派は正義と平等を掲げるが、いずれもそれらの理念の実現手段として、技術的監視・管理・制度設計を当然視している。その時点で、彼らの抵抗は加速の一部に変わる

    さらにカジンスキーは、制度的な改革についても、構造に吸収される運命を免れないと指摘する。

    If a small change in a long-term trend appears to be permanent, it is only because the change acts in the direction in which the trend is already moving.

    長期的傾向の中で小さな変化が恒久的に見えるのは、それが既存の傾向の進行方向に沿って作用している場合に限られる。

    つまり、制度が変わったように見える時でさえ、それはすでに技術システムの内在的進行にとって都合のよい変更でしかない。

    そして何よりも決定的なのは、カジンスキーが自由と技術を同時に維持する社会設計は原理的に不可能であると述べている点である。

    Freedom and technological progress are incompatible.

    自由と技術的進歩は両立しない。

    Permanent changes in favor of freedom could be brought about only by persons prepared to accept radical, dangerous and unpredictable alteration of the entire system.

    自由のための恒久的な変化は、全体のシステムを根本的かつ危険で予測不可能な形で変更する覚悟を持った者にしかもたらされない。

    制度的改革は、本質的要素を破壊しない限り、システムの力を削ぐような根本的変化には至らない。

    結論として、制度、党派、改革、運動は、構造の“吸収力”に抗うことができない限り、真の拒否とはなりえない。

    であればこそ、カジンスキーは、制度の外部に出ること――すなわち、飛躍すること――すなわち個人的なテロルを唯一の道と見なしたのである。次の節でそれを確認しよう。

    5

    こうしてカジンスキーは、制度、党派、改革、言論すべてが構造の一部に取り込まれていると断じた。それらはいずれも、抵抗の形式を装いながら、最終的には加速する技術システムの維持と正当化に貢献してしまう

    では、残された手段はあるのか?

    彼がたどり着いたのは、「倫理的飛躍」としての拒否――制度によって吸収されない、個人的かつ実存的な否定の行為だった。

    この拒否の根拠は、体系だった理論ではなく、直観に基づく倫理的判断である。カジンスキーはそれを次のように述べている。

    In a discussion of this kind one must rely heavily on intuitive judgment, and that can sometimes be wrong.

    この種の議論では、直観的判断に大きく依存せざるを得ない。そしてそれは時に誤ることもある。

    彼にとって、「こうは生きられない」という確信は理論ではなく、直観として知覚される“倫理的な反発”であり、それゆえに、合理性の枠組みに回収されない行動の根拠となり得たのだ。

    だがこの感覚が行動に転化されるには、メディアも言論も機能しない世界において、どのような行動がテクノロジーに無毒化されない行動なのかという問いが生じる。

    To make an impression on society with words is therefore almost impossible for most individuals and small groups.

    言葉によって社会に影響を与えることは、ほとんどの個人や小集団にとって、ほぼ不可能である。

    そして結論する。ユナボマーが誕生する。

    In order to get our message before the public with some chance of making a lasting impression, we’ve had to kill people.

    我々のメッセージを公にして永続的な印象を残すには、人を殺さねばならなかった。

    ここでカジンスキーが語るのは、単なる衝動でも戦略でもない。社会のあらゆる回収構造を突破する“否定としての破壊”の選択である。

    それは、「届く可能性が残された唯一の行為」であり、制度の外部に身を置こうとする最後の跳躍=倫理的飛躍だった。

    6

    しかし、テロルは無意味だった。それはわかりきったことだ。あなたはこの文章をどうやって読んでいる? ここからは、カジンスキーのロジックの確認ではなく、確認した上での私の応答を書く。私が無意味だったと書くのは、カジンスキーの情勢分析が正しかった――正しすぎたことを前提としている。

    この構造は、あまりにも完成している。左右の党派も、制度改革も、オルタナティブな共同体も、最終的には、ヒステリーを起こした一人の数学者の犯罪と同じ地平にまで落ちていく

    なぜなら、この社会においては、「届かない」という点で、すべてが等価だからだ。暴力も、言葉も、希望も。制度の内側に吸収され、制度の外側には立てない。拒否も否定も、選択肢にない。つまり選択の余地はない。

    私は、冒頭でこう問いかけた。

    私たちは、テクノロジーと距離を取る自由を、まだ持っているのか?

    いまなら、答えられる。距離をとる自由は、ない。自由など、ない。誰も、触れることすらできない。

    つまり、私たちは今後も技術社会のフィードバックループの中で生きることになる。

    他人に出し抜かれないために。

    社会から排除されないために。

    それ自体が新たな問題を生み出すと知りながらも、

    テクノロジーを高い金を払って導入し、運用し、維持し続けなければならない。

    慎重は無能とみなされ、回避は敗北と同義となる。

    そしてその圧力は、個人にとどまらない。

    国家もまた、加速を強いられている。量子コンピュータの開発競争に敗れれば、暗号は破られ、情報は奪われる。半導体の製造能力や輸入能力を喪失すれば、軍事・医療・行政すら停止する。もはや安全保障とは、技術の獲得競争に他ならない。その遅れは、支配されることと同義なのだから。

    だから、我々は続けよう。馬車馬のように働き、自らの労働力の価値を下げるために、自費で最新の設備を導入し、日々その更新に追われる生活を続けよう。

    拒否は反逆とみなされ、沈黙すら怠慢として切り捨てられる。誰も逃げられない。どこにも外部はない。

    ようこそ、産業社会の未来へ。

    しかし、もしかすると、抵抗の方法はまだ残されているのかもしれない。新たな世代が、私たちの知らなかった方法で、別の出口を提示する可能性はゼロではない。

    だがそれは、おそらく――カジンスキーのような個人による暴力など、歴史の彼方に押しやってしまうような、もっと大きな規模の暴力だろう。それはもはや、このように公開される文書で記述できるようなものではないだろう。