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For the end of the world and the last man

月: 2025年4月

  • プロパガンダの分裂と“国民”というフィクションの終焉――トランプ政権下のメディア再編と生成AIによる語りの断片化の加速

    プロパガンダの分裂と“国民”というフィクションの終焉――トランプ政権下のメディア再編と生成AIによる語りの断片化の加速

    Authored by 円原一夫

    本稿は、NHK記事「トランプ政権で存在感増す新興メディア なぜ?」(2025年4月18日)への応答として書かれたものである。

    1. はじめに

    2025年に復帰したトランプ政権のもと、アメリカではSNS発の新興メディアが急速に台頭している。NHKの特集「トランプ政権で存在感増す新興メディア なぜ?」は、こうした新興勢力が政権と親密な関係を築き、報道の「不偏不党」や「中立性」といった理想を積極的に放棄していると批判的に描いている。だが、その批判は果たして正当なものだろうか? 本稿では、そのような報道の理想が成立していた社会的前提を再検証しながら、メディアをめぐる幻想の終焉を読み解いていく。

    2. メディア環境の変化と制度疲労

    トランプ政権はホワイトハウス記者会見室の一部を、従来の大手メディアではなく、ポッドキャスターやインフルエンサーなどの“新興”記者に開放した。AP通信など批判的なメディアを排除する動きも見られる。これは従来の報道制度──大手メディアによる「国民向け」の情報選別と発信という構造──の変質を意味する。もはや“全体に向けて語る”という仮定は制度的にも破綻しつつある。

    3. 理想モデルの崩壊と「中立性」の変質

    新興メディアは、自らの政治的立場を明示することで、「中立を装った伝統メディアよりも誠実だ」と主張する。これを問題視するのが旧メディアだが、そもそもその「中立性」なるものはどれほど実在していただろうか? “不偏不党”は理念として掲げられてはいたが、それは制度によって支えられた語りの形式にすぎなかった。むしろ、報道が自己の立場を明示するのは自然な変化であり、その変化を批判すること自体が、「誰が語る資格を持つか」というヒエラルキーの再生産にほかならない。

    4. 「国民」向けという(メディアのターゲット設定の)フィクションは終焉

    中立性や公共性は、もともと“国民”という一枚岩の想像の共同体が存在するというフィクションによって支えられていた。だがその基盤は、グローバル化、格差の拡大、雇用の流動化によってすでに崩壊している。いま存在しているのは、分断された属性グループ、同質的な情報空間、忠誠心でつながれた政治的部族だ。報道は、いや誰であれ、もはや“社会全体に向けて語る”ことができ(るように擬制でき)ない。新興メディアは、それを正直に引き受けただけである。

    5. なぜ“新興”は批判されるのか

    新興メディアは偏っている。中立性がない。危うい。──伝統的メディアはそう批判するが、伝統メディアと新興メディアに本質的にどれほどの差異があるのだろうか。構造的に見れば、どちらも自分たちの属するクラスタに向けて物語を語っているにすぎない。ただそのクラスタがあまりにも大きいか、あまりにも小さいかというだけの話なのである。

    にもかかわらず、「新興」と名指しされるメディアが批判されやすいのはなぜか。それは、語る資格の再分配が進んでいるからだ。語る資格の革命だ。つまり、「語ってよい人間」と「語るべきでない人間」のあいだに、かつて存在していた制度的境界がいまや曖昧になっている。そしてそれを旧制度の側は“秩序の崩壊”と呼ぶ。クソみたいなブログのごときが、俺たちエリートと同じ土俵で話しているつもりになるなと言うわけだ。

    しかし、そんな伝統メディアが可能だったのは、あるいは「国民に向けて語る」ことが可能だったのは、情報の同時流通と受け手の共有文化が前提にあったからだ。だがその想像の共同体=“国民”は、すでにグローバル化と分断のなかで解体されている。今、存在しているのは、属性グループと忠誠心で結ばれた政治的部族、そしてアルゴリズムによって仕分けられた情報空間だけだ。

    その状況を、さらに急速に露呈させているのが生成AIの登場である。語りはもはや編集部や記者の手を介さず、誰でも、いつでも、自動で生み出すことができる。しかもそれは、一人一人の嗜好や関心にあわせて、“あなた専用の物語”として量産される。こうして「不特定多数に語る」という公共言説の前提は、速度と粒度の両面から崩壊を始めた。

    6. 結論

    新興メディアは、突如現れた異物ではない。それはすでに崩壊した制度の後に立ち現れたメディアの形態のひとつにすぎない。新興などではない。ただ依拠する現実が変わったのである。生成AIはその語りをさらに加速し、「誰が語るべきか」という伝統メディアの問いそのものを陳腐化させようとしている。

    つまり「新興メディアの台頭」など、存在しない。ただメディアだけがある。お望みなら、金があり、社史が長いメディアと、そうでないメディアに分けてもよいだろう。単に、語り手の、語り手の内部での交代劇なのである。人間の夜は物語なしに、天井をじっと見つめているだけではあまりにも長過ぎるから、呼び出された語り手。

    かつて印刷メディアを中心とした伝統的メディアは「公共」の顔をしていた。だがそれは、語る者の資格を独占したい者たちの、夜郎自大であった。いま、生成 AIのざわめきがついにその不快な独り言を掻き消し、声はひとりひとりの耳元で無数にささやかれるようになる。それぞれが信じた囁きを抱いて、私たちは伝統メディアと新興メディアの差異などないような地点に辿り着いた。伝統メディアが「国民」の聞きたい物語を語っていたように、今度は生成AIが「個人」の聞きたい物語を用意する。その先に何があるかは私の知り及ぶところではない。

  • 叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    Authored by 円原一夫

    谷川流、著。来年で刊行されてから二十年になる。二十年もあれば、一人の人間が成人になったり、経済先進国の地位が入れ替わったり、「キョン! 何々をするわよ!」とアニメを踏まえたジョークをSNSに書いても、若い人に「この『キョン』って何ですか、叫び声ですか?」というメッセージを貰ったりするのには十分な時間である。

    それでは、あなたとこの作品の関係はどのように変化しただろうか。あなたはもう、この作品を少々オールドだと感じている。何故なら、あなたはトラックに轢かれて別の世界に行き、そこで暮らしたいと思っている。あなたは既に確立された、諸々の身分「悪役令嬢」「負けヒロイン」「最強だった魔王」「追放された勇者」「実力を隠したエスパー」になり、そしてその身分に微修正を加えることのできる世界へ行き、ここへ、帰ってきたくないと思っている。

    つまり、『涼宮ハルヒの憂鬱』は極めてオールドなタイプの啓蒙主義小説になってしまったと、私はそう言いたいのである。オールドなタイプであることには、何の否定的な価値も含まれていない。反時代的であることは、場合によってはむしろ良いことだ。

    オールドなタイプの啓蒙について説明する前に、私は以下のような問に取り組むことにしよう。ハルヒは何故、キョンと接吻することによって、あの青白い巨人が街を破壊し、巨人の他にはハルヒとキョンしかいない世界から帰ってきたのかということである。そう、あなたはまだちゃんと『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでいないのである。この疑問を、私は、奇異なものだとは思わない。オールドなタイプの疑問だと思っている。それはあなたがハルヒの舌の味、キョンの舌の味を想像してよいからである。あるいは、あのまま、巨人に見下ろされながら、接吻以上の何かを試みる二人を想像してよいからである。つまり、性愛によって彼女が救われたということを、スニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層にあわせてマイルドにしたのだということでは、説明にならないと、私は言っているのである。

    実際、あの世界から戻った後のハルヒとキョンの間に、例えば(それこそスニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層に合わせた男女の関係性である)「カップル」になったとか、「恋人同士」になったという描写はないのである。僅かに、ハルヒが短い髪でポニーテールを作ろうとしていたことが描かれるだけである(だが、後で書くがこれはオールドなタイプの啓蒙のための髪型である)。

    まず、あの世界がどのように作られたのか、どのようなものか、それを確認することにしよう。

    『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公が亀有公園前派出所ではないように、『涼宮ハルヒの憂鬱』も涼宮ハルヒが主人公ではない。これは、キョンという、その本名が明かされない男子高校生が主人公であり、彼の一人称視点で物語は進行する。谷川流は極めて優秀な作家であって、この点にもオールドなタイプの啓蒙のための必然性があるのだが、そのことは今は置いておこう。ともかく、その彼のクラスメイトが涼宮ハルヒという少女であり、彼女には彼女自身理解していない、ある能力がある。それは、彼女が自分の望んだことを全て実現することができるという能力である(「これ? ただ望んだだけなんだが」「これは数値マックスの大魔導士しか使えないスキルですよ!」)。ところで、この力にはある重大な制限がある。彼女は神ではないということである。神は、世界の外部に存在しなければならない。倫理がそうであるように。これが重大な制限である。どういうことか? 彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはないのである。

    物語は、この矛盾において生じる。ハルヒは高校入学直後、キョンを含めたクラスメイトたちの前で、このように述べる。「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人・未来人・異世界人・超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上!」。さらに彼女は宇宙人、異世界人、超能力者と接近遭遇するための部活動「SOS団」を作る。しかし、既に書いた通り、彼女には願望を実現する能力がある。そう、もう宇宙人、異世界人、超能力者は、ハルヒとキョンの通う高校に、いるのである。ところが、やはりこれも既述の重大な制限のために、ハルヒと彼らは会うことがない。彼女は彼らと出会うことを望んでいるが、しかしまた、そんなものは存在しないという意識のために、出会うことがないのである。語り部であるキョンだけが、彼らと会い、そして願望を実現する能力を持つ少女に対応しようとする彼らの(宇宙人、異世界人、超能力者の世界における)政治的抗争や工作に巻き込まれる。

    さて、以上のあらすじと設定を踏まえて、ようやく、あの青白い巨人が暴れまわる世界は何だったのかを確認することができる。その後で、私はあの世界から接吻によって帰ることが、なぜ、オールドなタイプの啓蒙と言えるのかを書くことにしよう。

    あの世界は何故、できたのか? これは簡単である。タイトルに書いてある。涼宮ハルヒの「憂鬱」。憂鬱のために、できたのである。憂鬱は、日常的用法では、歯医者に行くことを想像するだけでもなることのできる精神状態ではある。ここでは、もっと深刻なものを想定すべきだ。例えば、この作品の英訳されたタイトルは「melancholy of haruhi suzumiya」であるが、これは涼宮ハルヒの鬱病と訳しても、内容を精査する前であれば、許されるだろう。そう、彼女は鬱病となって、キョンと心中しようとしたのである。そも、自殺とは、最も簡単な(少なくとも主観的に)世界を滅ぼす方法の一つであった。

    この読み方は、こじつけではなく、最も率直な読み方であると、私はここに書こう。彼女が「ただの人間には興味ありません」と言ったのは、ただの人間とは二十四時間、常に出会っているからである。彼女自身が「ただの人間」なのだ。実際、作中で、ハルヒはキョンに「野球場の思い出」を語っている。

    「それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、何よりも、自分の通う学校の自分のクラスは、世界のどこよりもおもしろい人間が集まっていると思ってたのよ。でも、そうじゃないんだってそのとき気づいた。私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの、日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国の全ての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に、私の周りの世界が、色あせたみたいに感じた」

    そうして、彼女は高校入学後、宇宙人、異世界人、超能力者を探す部活動を始めることになるのだが、彼女の望みは実現しない。彼女は彼女が思っている通りに、「ただの人間」となる。野球場に野球の観戦に来ている膨大な数の人間の誰とでも交換可能な、彼女が興味のない「ただの人間」になる。それなら、もう、その力があるのならば、世界を破壊するしかないではないか。

    しかし、ここで再確認しなければならないのは、彼女の力が実現しているものは何かということである。私はこう書いた。「彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはない」と。

    つまり、あの青白い巨人が街を破壊する世界は、彼女の望んだ世界でありながら、しかしまた彼女が真に望んだ世界ではないのである。

    キョンが彼女とキスをすることで教えたのは、そのことである。実現した欲望はくだらない、それほど面白くないということだ。

    「あのなあ、ハルヒ、俺はここ数日で、かなり面白いめにあってたんだ。お前は知らないだろうけど、世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

    ハルヒとキョンの接吻も、また欲望の「十全に叶えられた」ものではない。あの接吻は、さらに深く、鋭く、強く、素晴らしい性愛の欲望の実現の可能性の示唆であって、性愛そのものの実現ではない。実現した性愛は、ハルヒを満たさない。実現した世界の終わりが彼女を満たさなかったのと、これはパラレルである。彼女はそれらを一夜の夢として処理してしまう。

    彼女はもう、世界は「確実に面白い方向に進んで」おり、実現された欲望よりも、まだ実現されていない欲望のほうが常に面白いということを知っている。彼女は「ただの人間」であることに耐える力を得る。しかもそれは、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めることが日常の肯定だと、あなたが言うのであれば、この作品が描かれているのは決して、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めるのではなく、実現されていない欲望が「ただの人間」に、世界の終わりを拒否する力を与える。欲望を諦めてはならない。それが無限の彼方において実現するものであればこそ、実現されていないからこそ、素晴らしい。だからハルヒは一日だけ、短い髪で、キョンに夢の中で褒められたポニーテールを作って登校する。それは、まだ実現されていないがゆえに接吻以上に素晴らしい何かの、可能性である。

    いよいよ私は「啓蒙」とは何かを書くことにしよう。啓蒙とは、これである。「実現された欲望よりも実現されていない欲望の方が常に素晴らしい」という教えのことだ。

    あなたに、あらためて、この教えの内容を詳らかにする必要があるようには、私には思えない。あなたはもう、散々、進化心理学を齧った者たちに、幼少期に長くマシュマロを食べることを我慢できた子どもは、その後も社会的に成功する蓋然性が高いなどといった話を聞かされてきたではないか。

    あるいは、偉大なる社会学の祖マックス・ヴェーバーは初期の資本形成において、カルヴィニズムの予定説が影響を及ぼしたと言っていたではないか(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。カルヴァン派は、まさにまだ実現されていない欲望の方が常に素晴らしいというテーゼの忠実な実行者だった。最後の審判で自分がどのように裁かれるかは既に予定されていて、天国行きを希望しても実現するかは不明であるが、現世では既に天国行きが決まったかのように、その他の欲望の達成はくだらないと切り捨て禁欲すること、ただ働くことが肯定されたのである。(「ハルヒ、お前が知らないだけで、世界は確実に最後の審判の方向に進んでいたんだよ」)

    そも、我々の文明は、快感原則を現実原則で編成し(フロイト)、欲望の充足を延期すること(あなたが望むなら、延期ではなく抑圧と言ってよい)で成立したのだし、それは今でも常に奨励されている。先進諸国の教育期間は伸びるばかりである。

    この文明が、その初期に――場合によっては今でも――自己を存続するために人々に実行を促してきたテーゼと合致するがゆえに、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』を啓蒙主義小説と呼ぶ。

    ここまで読んで、あなたはそんな「啓蒙」は古臭い、オールドなタイプの啓蒙であると感じているはずである。あなたが感じていることは常に正しい。感じることは自然だからだ。反時代の私も、実は密かにそう感じている。私はあなたのその「感じ」が生じた理由を説明することで、この「啓蒙」がもはや古くなってしまったことの証明としよう。

    それは、あなたの国が新興工業地域よりも一人当たりGDPが低くなるからである。

    それは、あなたの年金受給額があなたの支払額より低くなるからである。

    それは、あなたの租税負担が新興国との軍拡競争で増えていくからである。

    それは、あなたの家族とあなたを介護をする労働者が足りなくなるからである。

    それは、あなたの故郷が人口減少で消滅するからである。

    それは、あなたの持っている現金の価値が毎年減少するからである。

    それは、あなたの所属する会社が管理職の椅子を増やせないからである。

    それは――、あなたが最後の審判を信じていないからである。

    それは、あなたがトラックに轢かれて悪役令嬢に転生したいからである。

    それは、あなたが親世代の資産とインフラを食い潰して生きているからである。

    しかし、あなたが荒野に一人立ち、また何かを始めなくてはならないとなったのならば、二十年前のライトノベルを開いてみることも、良いだろう。そこでは、まだ実現されていない欲望は素晴らしいと書かれており、あなたが暗闇を進むときに、自分をひき殺してくれるトラックを待つよりはまだしも「啓蒙的」なメッセージが書かれているからである。

    「キョン! 次はもっとうまく失敗しなさい!」

  • 狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    Authored by 円原一夫

    下記の文章は、私の記憶では十年近く前に書いたものであるが、私がある作品を批評するという時に(現在時点で)最も重視していることを先取りしているため、私がいつでも自分の基準点を思い出すことができるように、あえて、ここに掲載するものである。

    私が重視しているのは、対象となる作品をプロパガンダの叩き台にするのではなく、その作品がその内部に持つ、ある決定の不可能性、解決不可能な矛盾を発見し、スポットライトを当てることであり、言い換えれば、ある作品を二重、三重に味わうことができるようにすることである。

    この論考で私は、細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』にメロドラマとメロドラマへの抵抗の両方が同時に見て取れることを明らかにしよう。「同時に」。そうしたメッセージの二重性、複数性が映画の豊穣さ、「映画」をプロパガンダから区別するものだと思うが、そうした議論はここではしない。

    映画のタイトルからわかるとおり、この映画は「おおかみこども」の雨と雪を巡る物語であるが、それにしても、「おおかみこども」というものについては絶対に説明が必要であるし、その説明を兼ねて、この映画の粗筋をまず書くことにしよう。

    後に雨と雪を産む、その母であり、つまり主人公の一人である「花」は東京の外れにある国立大学に通う大学生である。これは明示されないが、その建築物などから、東京大学であることが黙示されている。これは重要なことだ。彼女は、いわばそこらの普通の男性よりも、相対的に高位な階層にアクセスする権利を有しているということだからである。さて彼女は講義に潜り込んでいた男性の「彼」と出会い、恋に落ちる。ここまでは我々の現実の延長であるが、しかし実は「彼」はニホンオオカミの末裔であり、人間の姿と四足歩行する自然主義的に描かれる狼の姿の二つを自由にとることができる存在であることが明かされる。それでもなお花は「彼」を受け入れ、ついに花は「彼」の子どもを姙娠することになる。その子どもこそ雨と雪であって、この二人もまたその父と同じ特性を有しており、それゆえ父が「狼男」であるのに対し彼らは「おおかみこども」となる。しかし物語が欠如と欠如の回復、混沌と秩序の構築によって構成されているからには、この家庭にも影が忍び寄ってくる。ある日、「彼」がいつまでたっても帰ってこないという事態が起きる。花は「彼」を探しに行くが、「彼」は狼の姿になって河の中で死んでいる。その直接の原因は明確にされない。とにかく「彼」は狼であるから、その「死骸」はゴミ収集車のような物で運び去られてしまう。かくして花と雨と雪は「父」を喪失することになる。物語が駆動し始める。

    この「父」を喪失した、ファンタジックな家族がいかに父無き後に秩序を構築するか、ということがこの映画の主題になるわけであるから、まさしくこれはメロドラマということになるだろう。ここで私はあえて、誰か一人にフォーカスするのではなく、この家族の成員全員の、「父」の喪失の処理の仕方を分析していく。それは花と雪と雨ということになるが、まさに三者三様の仕方によってこの事態を乗り越えるのであって、それこそ細田がやりたかったことであるはずであるから、私はそれぞれを比較しつつ、分析しよう。

    まず花を視てみよう。花は恐るべき人間である。狼とのハーフである「おおかみこども」よりも、花こそよほど人間らしくない。というのは、花は父子家庭の出身であり、さらにその父が死んでいるために、両親という一種の財産的余力を全く持たないにも関わらず、「彼」を受け入れ、その子どもを姙娠し、何の屈託も葛藤もなく、「母」となる。さらに「彼」が死んだ後にも、この花が「母」という役そのものを放棄したいと願うとか、その重責に悶え、「母」ではない自己を探究し始めるということは全くないのである。花の「父」なき混沌の乗り越えは単純である。それは花がひたすら「母」という役割を、相対化し意識の対象とするような「役割」としてではなく、自然なものとして受け入れ、奮闘するという内容である。これは完全に肯定的なものとして描かれ、ついに全て報われる。花は子どもたちのために(東京大学であることが黙示されている)大学を中退し、過剰に元気な「おおかみこども」が暮らすのは難しい都会から田舎へ引っ越し、都会よりむしろ異質な他者に不寛容でありそうな田舎で彼女は地域住民の信頼を獲得していく。ここにあるのは吐き気を催すほど、「男」にとって好都合な「女」であるが、花には「母」であることの葛藤が存在しないので、視聴者はそういうことを意識しないで済む。だが「おおかみこども」の二人の「父」なき混沌の乗り越えはこれほど単純ではない。特に雪は雄の身体を持つ「おおかみこども」であり、花の新しいロマンスの相手となるキャラクタが不在であるから、彼は「父」となることが宿命づけられている。この映画がメロドラマの文法に忠実であることによって。

    この映画は三人の成熟の過程を描くことで一見して複雑そうな物語構造をとっているが、極めてメロドラマの文法に忠実である。その点で面白いのは、狼男の成熟した男性である「彼」がいかに成熟までを、その狼と人間の中間足る身体でありながらやり抜けたのかという知識の継承に失敗しているという点である。そのため劇中には「(狼と人間の中間の存在が)どうやって成長してきたのかちゃんと聞いておけば良かった」といった内容の台詞さえある。まさにここに父の不在による混沌がある。さて雨と雪はいかに父の不在を乗り越え、成熟するのか。こうしてメロドラマが、いかにジェンダー規範を身につけるのか、というドラマが作動することになる。実際、雨と雪が物語中で苦悶するのは、ジェンダー規範の獲得という課題のためである。しかし後に詳述することになるが、雨はジェンダー規範の獲得に失敗し、その失敗と「おおかみこども」という特性が組み合わさることで、一種のアクロバティックな「成熟」を成し遂げることになる。さて、それでは雨と雪はどのようにその課題と戦うのか。

    雪は人間の雌の身体を持つ「おおかみこども」であり、非常に活動的な子どもである。彼女は家の周りを狼の姿で駆けまわり、猪や野良猫と喧嘩をする。彼女もやがて小学校に通うことになる。そこで低学年の内こそ運動ができることによって人気者となるが、彼女の狼性は(「男は狼なのよ」という歌もあるように)本能の壊れた動物としての人間の中では男性性と解釈されてしまう。例えば彼女の「宝物」は動物の骨やトカゲの干物であるが、当然、それは同級生の少女たちの間では受け入れられない。そこで彼女は「女の子」らしくあるために、ほとんど恐ろしいほどに「良き母」である花に「青いワンピース」を作ってもらい、同級生たちに「可愛い」と言われ、その輪に再び入ることに成功し、「これに本当に助けられ」る。彼女は狼性を隠匿することで、一度、女性性を獲得する。しかし、それを脅かす存在が現れる。転校生の「草平くん」だ。彼は彼女に「犬でも飼っているのか」「けものくさい」と、特に告発するつもりもなく言うが、それは彼女にとってあの隠匿した狼性、男性性を指摘されることに等しいのであって、彼女は「狼」狽し、ついに彼にその年頃の少女にはありえないほど強い暴力を行使し、草平を沈黙させる。彼女にとって、それは男性性の隠匿の失敗に他ならないために、彼女は人間の中で生活すること、女性性を獲得することに失敗したと思い込み、一時的に不登校になる、だが草平は彼女の隠匿しているものを理解し、受け入れ、彼女と彼女が「おおかみこども」であるという秘密を共有する。彼女はこの「男」と秘密を共有し、帰属するジェンダーを安定させ、物語の終わりには「良き母」足る花のもとを離れて、都会の寮がある中学校に進学する。彼女は社会の中でいかに振る舞うべきかという規範、特にジェンダー規範の内面化に成功したのだ。これは勿論、肯定的に描かれる。中学校の校門の前、笑顔の花と彼女のツーショット、そしてナレーション。映画が終わる。だが、私の文章は終わらず、雨と「課題」の抗争を見ていくことになる。あるいは、雨の戦いこそ、この映画をメロドラマによる支配から救済しているということを。

    雨の成長過程はメロドラマの枠内における一種のアクロバットになっている。どういうことか。雨は雪とは違って、人間の雄の身体を持つ「おおかみこども」である。しかし彼は雪とは反対に、大人しい性格であって、雪に「狼らしくない」といったことを言われるような性格である。狼らしくない、というのは、人間社会においては「男らしくない」ことに翻訳されうる特性であって、雪は、雨が後に女性性との間で葛藤を生むことになるほど活発な子どもであるのに対し、授業中は教室の後ろでじっとしていて、授業時間外は廊下で他の子どもに「いじめ」の類と思しき行為を受ける短いシーンが挿入されるような子どもであって、その時には雪に助けられてさえいる。雨は人間社会に溶け込むこと、言い換えれば男性性の獲得に失敗していることが強調され、ついに不登校になる。雪もまた不登校になっているが、彼女は草平との間で「秘密を共有し」、彼に受容されることで、安定した女性性を獲得するのに対し、雨はついに人間社会に溶け込むこと、男性性を獲得することを完全に断念する。この断念は雨が「おおかみこども」であるという設定によって、端的なものとして、つまり雨が小学校ではなく、山の主である狐のもとに通い、狼の何たるかを教わり、ついに人間ではなく、狼として生活するようになる、という形で現れることになる。いわば雨は男性性の獲得に断念し、その代わりに、狼である自己に目覚め、動物というジェンダーの未分化である地点へ移行するのである。これが、この移行こそが、メロドラマへの抗いなのだ。しかしここで注意したいのは、雨は山の主である狐の役割を継承し、山に秩序をもたらす存在つまり、人間社会の「父」に相当するものになったとも解釈可能であるということだ。ただし、その解釈は、我々が動物の世界に我々自身を投影する時にだけ成立可能なものである。

    まとめよう。『おおかみこどもの雨と雪』は、直接の父を喪うことで、象徴の「父」をも喪った「おおかみこども」たちとその母の混沌に陥った世界がジェンダー化という劇中で徹底的に祝福される過程を経ることで再びその眼前の世界に秩序をもたらし、特に人間の雄の身体を持つ雨は山の主の地位を継承することで山に秩序をもたらす者すなわち「父」となる。これは完全にメロドラマの文法に従ったものであって、典型的であるということができる。しかし、我々が動物の世界に我々を投影しなければ、雨はジェンダーの未分化な地点に移動したのであると解釈することができるのであり、この映画にメロドラマと同時にメロドラマとの闘争を見て取ることができるようになる。

  • 文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    Authored by 円原一夫

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    自己批判という言葉がかつてあった。日本の左翼は、その言葉を信じていた。だがそれはいつしか内ゲバと粛清へと変わり、外へ向かうはずの力を内側で燃やし尽くした。そして彼らは、敗北し、分裂し、瓦解し、その言葉も思想も、忘れ去られた。かつての左翼は環境運動などに亡命し、マルクスはエコロジーの文脈で語られることで、どうにか書店に平積みされている。

    自己批判が無意味だったのか。いや、むしろ──足りなかったのかもしれないとしたら、どうだろう? もしその刃を、もっと深く突き立てていたらどうか。組織でも路線でもなく、自分たちが当たり前のように依存していた、文明そのものに対して。産業、進歩、成長、人間中心主義という幻想。

    それを本当に行おうとして、文明を“誤り”と呼び、それごと終わらせようとする者たちがいる。

    Deep Green Resistance――。

    彼らは、もちろんアメリカの運動体なので、自己批判とは言わずに、根源的な自己批判を実行している。

    実に、不気味な連中だ。文明の崩壊を望んでいる。もしそれが起きれば、私も、あなたも、AIもスマートフォンも使えなくなる。だが、だからこそ、私たちが無力なのだとしたら? 労働組合が経営者に恐れられるのは、ストライキができるからだ。医療・介護の労働者がなめられているのは、ストライキができないからだ。

    では、もっと根源的になめられているとしたら? 文明そのものに、「お前らにはストライキなんかできない」と、そう思われているとしたら?

    クーラーが欲しいから。洗濯機が欲しいから。スマートフォンも、車も、インターネットも。それが欲しいから、文明には逆らえない。だから何も壊せない。だから、なめられている。誰がこの文明の経営者なのか──それは今、私は言わない。それを考えるのはまた別の人間だ。私はただ、こう言っておく。

    Deep Green Resistanceを見てみろ。

    自己批判を本当に徹底するとはどういうことか。文明にストライキするとは、どういうことか。

    言うなれば、この文章は自己批判ということの、論理的徹底の、一つの帰結のサンプルの分析とその結果である。

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    今日、環境運動は数多くある。ペンキを美術館に投げつける者。街を封鎖し、政府に気候政策を迫る者。グレタ・トゥーンベリのように、世界中でメッセージを発信する者。

    だが、それらの運動が注目されるようになる以前、2011年にすでに、より過激で、より静かな運動体がいた。

    Deep Green Resistance(DGR)。公式ホームページ

    地球を守るために文明を終わらせようとする運動体である。

    産業文明そのものを終わらせること──それが彼らの目標である。

    DGRの公式サイトには、さまざまな表向きの活動が紹介されている。オンラインや対面での講座、環境保護キャンペーン、フェミニズムやエコ哲学の理論構築、地域生態系の学習支援。
    「抵抗の文化」を育てる活動としては、ごく常識的な範囲にも見える。

    YouTubeチャンネルの登録を促し、メーリングリストを配信し、著作の図書館への推薦を呼びかける。販売しているTシャツやパーカーは意外に可愛らしい。

    年次カンファレンス(Annual Conference)は、公式ホームページのポスターによると戦略や思想を語り合い、焚き火を囲んで詩を朗読するとのことである。自然の中で暮らしを語り直す、どこか牧歌的な空気すらただよう。そして、自らの思想書を“other radical titles”と呼び、図書館や書店に置かせようとする。自分たちの思想を公共空間に浸透させようとする。

    だが、同じ公式サイトに、別の層がある。

    DGRは明言する。「抵抗運動の各部門は連携しなければならない」と。

    “The different branches of a resistance movement must work in tandem: the aboveground and belowground, the militants and the nonviolent, the frontline activists and the cultural workers.”
    —— Deep Green Resistance, About Us

    地上と地下、武闘派と非暴力、前線の活動家と文化的労働者。
    それらは分断されるべきではない。すべてが連動してこそ、抵抗運動は成り立つ。

    さらにDGRニュースサービスには、「Underground Action Calendar」という特異なページが存在する(DGR News Service)。

    そこでは、世界各地で行われた環境インフラへのサボタージュ行動が記録されている。GMO作物の破壊、パイプライン、変電所、送電網への攻撃など。

    DGR本体は「これらを必ずしも支持するものではない」と記すが、同時にこう書いている。

    “The Underground Action Calendar exists to publicize and normalize the use of militant and underground tactics in the fight for justice and sustainability.”

    訳するとすれば、こうである。

    The Underground Action Calendar exists to
    「地下アクション・カレンダーは、~するために存在している」

    publicize
    「 公にする、広く伝える」

    and normalize
    「正常なものと見なす、一般化する、日常化する」

    the use of militant and underground tactics
    「戦闘的(militant)かつ地下的(underground)な戦術の使用」

    in the fight for justice and sustainability
    「正義と持続可能性のための闘争において」

    すなわち、“正義と持続可能性のために、戦闘的で地下的な戦術を公開し、正当化する”。

    以上は、Deep Green Resistanceという運動体の思想的な二重構造=地上と地下の戦略的分業を物語っている。

    地上活動(aboveground)と地下活動(underground)という“二重戦略”。

    地上では教育や啓発を行い、地下では直接行動や破壊活動を担う。

    DGRはこの区分を明確に意識しており、FAQページでは次のように説明されている:

    “In DGR we use these terms to distinguish between different parts of a movement. ‘Aboveground’ refers to those parts of a resistance movement which work in the open and operate more-or-less within the boundaries of the laws of the state. This means that aboveground activism and resistance is usually limited to nonviolence. DGR is an aboveground organization; we are public and don’t try to hide who we are or what we desire, because openness and broad membership is what makes aboveground organizations effective.”
    Deep Green Resistance, FAQ

    すなわち、DGR自身はあくまで“地上の非暴力的な公開組織”であることを繰り返し強調している。

    しかしその一方で、地下活動とは何かについても、明瞭に定義している:

    “‘Underground’ or ‘belowground’ refers to those parts of a resistance movement which operate in secret… Generally, these groups use more militant or violent tactics like property destruction and sabotage to achieve their goals.”
    — 同上

    DGRはこうした地下組織に関わらないと明言しつつ、その存在と機能を否定していない。

    “DGR is strictly an aboveground organization. We will not answer questions regarding anyone’s personal desire to be in or form an underground… We do this for the security of everyone involved with Deep Green Resistance.”
    — 同上

    すなわち、違法行為を推奨しないとしつつも、「誰かがやらねばならない」と黙示する。

    Underground Action Calendarまで用意して、それを「日常の抵抗戦術」として記録・共有している。

    これはもはや否定ではなく、別の形式による肯定と見るべきだろう。

    地上の活動だけでは足りないという認識。誰かが、インフラを、構造を、文化を破壊しなければならないという認識。そこにあるのは、文明の自壊を志向するほどの自己批判である。

    その深さは、ある一節に凝縮されている。

    “The authors of this book are not blithely asking who will die.
    In at least one of our cases, the answer is ‘I will.’
    I have Crohn’s disease, and I am reliant for my life on high tech medicines.
    Without these medicines, I will die.
    But my individual life is not what matters.
    The survival of the planet is more important than the life of any single human being, including my own.”
    — Deep Green Resistance, FAQs

    クローン病という、現代医療に支えられて生きている人間が、それでも文明の崩壊を肯定する。

    「自分の命が絶たれる未来を予測しつつ、なお文明の終焉を求める」

    もちろん、著者が実際にクローン病であるかどうか、文明が崩壊したときに本当に命を差し出すのか──それは検証のしようがない。だが重要なのは、「文明を崩壊させろと言うが病気の人はどうするのか?」という問いに、こう答える世界観があるという事実だ。

    3

    DGRが共有しているこのような世界観は、どのような内的構造に支えられているのだろうか?

    その鍵となるのが、DGRの共同創設者Derrick Jensenによる著書『Endgame, Volume I: The Problem of Civilization』(2006)に提示された「20の前提(20 Premises)」である。


    1|文明は持続可能ではなく、暴力に依存している

    “Civilization is not and can never be sustainable.”
    — Premise One
    出典:DGR Seattle支部著者公式サイト

    第一の前提でJensenは断言する。文明は持続可能ではない。文明は、自然資源を消費し、環境を破壊し、他の文化を侵略することによってしか存続できないとされる。

    “Our way of living—industrial civilization—is based on, requires, and would collapse very quickly without persistent and widespread violence.”
    — Premise Three

    現代の生活そのものが、暴力に依存しているという主張。これは直接的な戦争に限らない。資源の採掘、水の汚染、動物の絶滅、植民地主義、気候崩壊。これらすべてが、見えづらい形で日常に組み込まれている。


    2|この文明は変わらない。ならば止めるしかない

    “This culture will not undergo any sort of voluntary transformation to a sane and sustainable way of living.”
    — Premise Six

    この文明は、自発的に正気や持続可能性の方向へ進まない。小手先のエコ活動や政策修正では、システム全体の暴力性は残り続ける。

    “The longer we wait for civilization to crash—or the longer we wait before we ourselves bring it down—the messier will be the crash…”
    — Premise Seven

    だから彼らは語る。待つのではなく、終わらせた方が傷が浅くて済む。これが、DGRの思想の根幹にあるロジックだ。


    3|「愛」があるなら、破壊を否定しない

    “Love does not imply pacifism.”
    — Premise Fifteen

    愛は非暴力を意味しない。むしろ、真に愛しているなら、破壊という選択肢をも取らねばならない時がある。この前提は、従来の倫理体系を反転させる。

    「優しさ」や「平和」といった語が、本当に守るべきものを守っていないとき、その語の意味そのものが、疑われるべきだと彼らは言う。

    『Endgame』の20の前提は、単なる問題提起ではない。
    それは、“人類が常識としてきたものすべて”を再審査させるための爆薬である。

    • 文明は善なのか?
    • 進歩は進歩なのか?
    • 成長は誰のためなのか?
    • 自然は、誰かに従属すべき存在なのか?

    DGRの思想はここから始まり、現実の行動(教育、地下戦略、サボタージュの肯定)へと展開していく。

    彼らの自己批判は、もはや自分たちの組織や文化を対象にするものではない。文明という“全体”に向けられた、徹底的な否定の形式である。彼らは、産業文明に対する不満を言っているのではない。それを支える世界観そのものに対して、“やめよう”と言っている暴力の連鎖、依存の連鎖、そして希望の連鎖すらも、断ち切ろうとしている。

    これが徹底的された自己批判が到達した、冷静な絶望である。

    4

    以上が、文明の自壊を志向するほどの自己批判のロジックである。私たちはそれを、DGRというサンプルを通して確認した。

    彼らのロジックは、よくできている。

    しかし反論は簡単なはずだ。

    人類は進歩している。テクノロジーの発展で、病気も減った。
    生活は豊かになり、寿命も延びている。産業革命からの数百年で、私たちは世界を変え、自然を克服し、より自由で、より素晴らしい社会を築いてきた。

    過ちもあるが、それでも前に進んでいる。まだ道半ばだが、少しずつ良くなっている。──そう言えばいいだけの話だ。

    だが、それが私には、どうにも言えない。喉まで出かかったその言葉が、なぜか口をついて出てこない。

    ちょうど、純粋な革命主体を求めて物理的な暴力すら用いた自己批判を続ける同志に、何も言えなかった左翼の活動家たちのようなものであるか?

    純粋さに棹さす言葉が出てこない。

    それでもあえて、反論してみせようか? 左翼の小グループの活動家の一人ではなく、文明が自己批判を要求されているのだから。私が庇ってやるべきではないか?

    こんな反論はどうだ?

    希望がある。計画がある。

    国連は、2030年までに貧困と飢餓をゼロにすると決めた。気候変動も、生物多様性の崩壊も、ジェンダー不平等も、克服する予定だ。

    もちろん今は少し遅れている。貧困は増え、飢餓は広がり、気温は上昇し続けている。だが、それはただの一時的な乱れにすぎない。むしろそれは、計画の柔軟性と人類の挑戦心を示している。

    我々はどんな困難にも打ち勝てる。

    国連には、世界中の優秀な頭脳が集まっている。わが国も、多額の資金を拠出しているではないか。彼らが、ちゃんと考えてくれている。そうに違いない。そうでなければ、何故、金を出す必要がある?

    データが遅れているだけで、現実はきっともっと良くなっている。

    それに、私たちにはテクノロジーがある。ドローンで植林し、AIが配給を管理し、再生可能エネルギーが世界を救う。

    すべてはうまくいく。

    明日は今日よりも、絶対に良い。SNSで誰かがそう言っていた。結構なことじゃないか。

    Good luck、人類。未来には希望しかない。おめでとう。

  • 道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    Authored by 円原一夫

    僕たちは世界を変えてしまった。劇中、冒頭と結末の2回繰り返される台詞。では何故、「僕『たち』は世界を変えてしまった」というように、主語が複数形なのか。「僕」でもなく、「あなた」や「あなた方」でもなく、「僕たち」。さらに言えば「私」や「私たち」ですらありえたであろうに。

    結論から書くと、これは帆高くんが超人になろうとしてなりきれない、その苦しみのために吐き出した言葉だ。彼が超人ならば「僕は世界を変えてしまった」と言うであろうし、超人でなければ「あなた(がた)が世界を変えてしまった」と言うであろう。この(普通、男性が使う)複数形は、ちょうどその中間、重すぎるものを引き受けようとするが引き受けきれないところに生じた。

    重すぎるものを引き受けようとするとは、どういうことだろうか。そのために一つ想起して欲しいのが、劇中、「天気の子」である陽菜さんを生贄とすることを拒否した結果、「世界」がどうなったかということだ。雨が降り続けて、ついに東京が沈んだ。そう、しかし、あなたはさらに想起するべきである。東京が沈むプロセスはどのようなものであったか。あなたは何も思い出せない。当然だ。そんな場面はなかったのだから。水没が常態化したことを示すようにして、ついに水上バスのようなものが生活に使われている東京が一瞬描かれる他には、何も、ない。

    東京が連続する豪雨によって水中へ没する過程は完全に「吹き飛ばれた」。「途中は全て消し飛んだ」。残るのは結果だけだ。あなたはプロセスを想像するべきである。いや、やはり想像するべきではない。それはあなたのトラウマを喚起することがありえる。大量発生する避難民、残された住宅ローン、中小小売商工業者の職住の喪失、疫病、首都における甚大な被害による東アジアにおけるパワーバランスの変化、金融機能の停止と企業の国外移転の加速化、教育期間の短縮による児童発達の不健全化、自殺者の増大、飢餓ゲーム、親殺し、ホームレスの大量発生、第二次就職氷河期、社会保障費の膨張、金融緩和と建設国債発行に伴うインフレの深化、スタグフレーション、飢餓ゲーム、カブトムシ、秘密の皇帝、飢餓ゲーム。

    帆高くんは、上記の景色を超人としての力でもって、吹き飛ばしたのである。このことは、彼の物語上の「敵」の立場のために、明らかである。というのは、それが主人公とは負の方向に自己実現した者のことであり、つまり帆高くんの「敵」の分析が帆高くんの立場を明瞭なものにするから。

    そこで私は「敵」を2人、挙げよう。第一に高井刑事である。梶裕貴が声優を務めた、若い方の刑事、ラストシーン近く、帆高くんを止めるために銃口を向けた刑事。この映画は(警官が超法規的に事件を解決するドラマが人気で、警察に拘束された時点で推定「有罪」となって「容疑者」の実名が報道される国においては)面白いことに、警察組織がしばしば主人公の目的達成の障害として描かれるが、その内の最大の者が彼だ。彼は法秩序の守護者であり、法秩序を守護することを行動の目的としている。

    もう一人はオカルトライターの須賀である。彼は必ずしも物語上の「障害」ではないが、「敵」ではある。彼は初め、援助者として現れ、最後にまた援助者となるが、その間に、本物のオカルトに触れてしまった帆高くんから身を守るために、彼を遠ざけ、さらに追い詰める。彼は喘息持ちの娘のために、二重に帆高くんと敵対する。陽菜さんを人身御供にして晴れを作り出すこと、帆高くんを遠ざけて娘を養育できる生活力を確保することが、彼の目的であるから。

    これらの目的と対立するがゆえに、彼は超人とならざるをえない。法秩序すなわち社会、あるいは娘すなわち家族、もしくは生活すなわち経済、あらゆる「目的」と彼は既に敵対しているのである。そもそも、彼の生きている世界とは、オカルト(隠されたもの)がそれに言及することで生計を立てている人々においてすら信じられていないような世界であり、そして何よりも、天気を操作するために人身御供を捧げるという儀式をすら忘却しているような世界である。だから彼は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と宣言する。ここで、ついに、私たちは帆高くんが解釈の闘争の現場としての世界を発見したことを知る。彼は、まさに超人の概念を提唱したニーチェのごとく、「道徳的な天気などというものは存在しない。天気の道徳的な解釈が存在するだけだ」と言ったのである。儀式が忘却されたのならば、儀式によって示される正しさもまた、忘れ去られなくてはならない。正しい(とされる)社会も家族も経済も、それどころか正しさそのものが失効した。あるのはただ、解釈同士の闘争だけである。全ての闘争を終わらせる超人が誕生する。彼は自ら目的を作り出す。彼は一つの都市を一人の女のために滅ぼすことすら、肯定できる。その過程で起きることなど、彼の意識に上ることすら、ない。彼は社会のため、家族のため、経済のためという目的を全てを放棄し、それを通して自分の行動を正当化することを断念し、自分の行動を自分自身で肯定する。超人が誕生する。

    だが超人への道は、あまりにも険しい。超人である帆高くんは、高井刑事や須賀のように、社会や家族や経済を自己の正当化のために使用することができない。その使用を断念することで、彼はあらゆる葛藤を予め封殺し、一人の女のために一つの都市を滅ぼすという、それを正当化する一切の公共的な理屈を必要としない、純粋な力が使用できるようになった。しかし、大きな力には大きな義務が伴う。彼は自らを都市の滅亡の原因とし、自らを都市の滅亡の責任としなければならない。「(社会や家族や経済ではなく、この)僕が世界を変えてしまった」と言わなければならない。

    それでも、私たちは、この映画の最初と最後の台詞が「僕たちは世界を変えてしまった」という(主に男性が用いる)一人称複数形の台詞であることを知っている。ここで複数になるのは、まさに超人として引き受けなければならないものの重さのためである。帆高くんは、超人の耐え難き重さを陽菜さんに分有させようとしたのである。

    しかし、この映画の恐ろしさ、言い換えれば素晴らしさは少しも減じることがないだろう。もしも陽菜さんが帆高くんと超人の耐え難き重さを分有するならば、誰もが忘れているが確かに今も「正しい」世界を維持するために犠牲となっている者たちが、一つの巨大な超人の集団となって、我々を大洪水や大地震で滅ぼしてくれるのだから。

  • 過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    Authored by 円原一夫

    ポン・ジュノの『殺人の追憶』は傑作映画だ。遥かに残虐で残酷、特殊効果もたっぷり使った映画を観ているにも関わらず、観終わった後は暗闇が怖くなった。それはあの、パク刑事の顔がアップになるラストシーンのためだ。パク刑事が何故あのような表情になったのか。その答えが、あの映画の恐怖の源泉だ。

    あれは、パク刑事がパク刑事と社会の罪と罰を思い知らされたがゆえの顔だ。『殺人の追憶』は罪と罰の映画なのだから。あるいは、因果応報の、映画。

    そのことが端的に示されているのが、捜査から外されたチョ刑事の、些か唐突で、冗長とも言えるような挿話だ。彼は捜査から外されたのだ。彼はソウルから来た刑事のスマートさを明確にするための、木偶に過ぎないように見えたし、捜査から外された以上、もうあえて描く必要もないように見える。しかし彼が飲み屋で乱闘騒ぎを起こして、ついに脚を失うことになるまでが丁寧に、執拗に描かれる。これは不可欠なシーンなのだ。彼は因果応報、彼の罪によって、脚を失うことになる。軍事独裁政権下の警官である彼は、取り調べで平然と暴力を行使し、自白を引き出そうとする。彼はそのために、彼が暴行するためにいかんなく発揮してきた身体能力を失う。これが、彼の罪と罰。

    ソウルから来たスマートな刑事であるソ刑事もまた、この映画に通底する因果応報の理から逃げることはできない。彼は捜査の過程でスマートさを失い、彼が嘲笑してきた田舎の刑事と同様の粗野な刑事になり、下がる。これもまた、罪と罰だ。なるほど、キム・サンギョン演じるソ刑事は、パク刑事らの拷問や自白強要に抵抗する良心的な刑事であるように思えなくもない。しかしそれは、彼が単に「スマート」であるからに過ぎないのであって、警察機構そのものの体質に対する疑念からといった類の行動ではない。そして実際、彼は、必要と判断すれば、暴行でも何でも行う。その罰として彼は科学的捜査の結果すら受け入れられないようになる。そして、犯人が捕まえられないという最大の罰を味わう。

    この映画には罪と罰の原則が貫かれている。パク刑事もまた、その理から逃げることはできない。彼は悟り、彼は映画の最後にあの表情を見せる。つまり、あの顔は、まずは自分の罪と罰を理解した顔でもある。

    彼は罰を延期することで、罪を重ねていたのだった。彼は刑事を辞め、営業マンになっている。あの犯人を追っていた時の気迫、葛藤は何処かへ消えて、家族の団欒をすら楽しむ。さらには、まだ彼は罰を受けていないから、家族に対して(元刑事である)自分の人の目を見る目は確かであると言いさえする。

    それが、最後のあの場面で全てひっくり返される。パク(元)刑事の受ける、これが罰であった。ラスト、少女は彼に言った。

    「何処にでもいる、普通の顔」

    彼の受ける罰は、彼の刑事としての能力が完全に疑われることに留まらない。刑事を辞め、今では部下と家族を持つ営業マンになった彼は、彼の隣人の誰か、同僚の誰かが犯人である可能性をも考えざるを得なくなる。何処にでもいる、普通の顔の者が犯人であり、それを見抜く能力はもう、彼にはないと明らかになってしまったのだから。彼は刑事を辞めてなお、未解決事件から逃げることができなくなる。

    ところで、こうなると殺人鬼自体には罪と罰の原則が適用されていないことになる。殺人鬼は捕まらず、罰を受けない。

    私たちは、あの殺人鬼それ自体が「罪と罰」であるということを、スクリーンの向こうのパク刑事とともについに悟る。

    ここで、あの連続殺人が可能になった条件を思い出そう。当時の韓国が軍事独裁政権だったからである。これは、こじつけではない。軍事独裁政権であり、戦時下(今もまだそうなのだが)の国家である韓国では南侵に備えて、消灯訓練を行っており、その時の暗黒に乗じて犯人は殺人を繰り返したのである。このことは映画にも描かれている。また、軍事独裁政権下の官憲の杜撰な捜査についてはこの映画で終始描かれている。

    つまるところ、あの殺人鬼は軍事独裁政権の過ぎ去ろうとしない過去であり、国家それ自体の罪と罰だ。パク刑事は軍事独裁政権下の官憲であったことを「許された」かのように民主化後の韓国でパク営業マンとなったのだが、ラスト、彼は社会そのものの罪と罰を知ることになる。彼にはもう、沈黙し、あのような表情を浮かべるしかない。

    もう私たちには、この日常を維持するために封印した過去が暗黒に不意に現れる瞬間を震えて待つしかない。

  • 粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    Authored by 円原一夫

    父子がソウル発釜山行きの高速鉄道に乗る。時期を同じくして、韓国の北部でゾンビが発生し、南下を始める。鉄道にも乗り込んでくる。父子を含めた乗客は車内でゾンビに抵抗しつつ、南を目指す。

    このゾンビは災害ではない。このゾンビは抵抗し、打倒しなければならない絶対の敵だ。この映画全体を貫く強い緊張感はそのためである。単純なパニック物ではない。ヨン・サンホは危険なゾンビが存在するのではなく、ゾンビが危険であるという解釈だけが存在するということ、ゾンビの思想性こそがゾンビ映画を面白くするということを理解していたいに違いない。ゾンビがただそこにあるだけでは恐怖はない。

    まず釜山を目指すという設定が、このゾンビに敵対性を付与している。目指す場所が釜山であることは、極めて重要な意味を持っている。そもそも、この映画の原題は「釜山行」だ。そして台詞、「釜山だけが初期防衛に成功した」。

    ここまで繰り返されれば――あるいは既にゾンビが南下しているという設定によって――誰でも察しはつく。この韓国で作られた韓国人俳優が出てくる韓国が舞台の韓国映画はまずは観客の少なくない部分である韓国人に対し、朝鮮戦争の記憶をフラッシュバックさせようとしている。朝鮮戦争では、北朝鮮軍の南侵によって韓国軍は南へと追い詰められた。米軍主体の国連軍の介入によって南下が止まり、反転攻勢の始点となったのが釜山だった。

    しかし、このゾンビは単純に北朝鮮軍の戯画化ではありえない。恐怖の対象あるいは敵を愚かなものとして描くような知性の欠如は、この映画にはない。むしろ、彼らは既にユートピアを実現しており、死すら克服したユートピアには「党」はもはや必要ない。朝鮮社会主義を超えた社会主義者の集団。彼らの内部には搾取も支配も差別もない。それは危険な魅力を備えている。そして魅力ある敵ほど危険なものはない。映画全編のこれほどの緊張感はそのためである。このユートピアからの使者に抗い、防衛するほどの何かが我々の側にあるだろうか? という問いが繰り返される。答えを求められる。

    高齢のインギルとジョンギル姉妹の一連のエピソードは、そのことを示している。彼女たちは高齢になって、初めての旅行に出る。高齢の夫妻や男性ではなく、姉妹。その初めての高速鉄道での長距離旅行。背後にあって、彼女たちから旅行を奪ってきたのは恐らくは家父長制と労働者階級の貧しい生活であろう。そしてゾンビ・パンデミックに巻き込まれる。インギルがゾンビになる。ジョンギルは生存者たちとともにおり、ゾンビの集団の中にいるインギルをドアを隔てて見ることになる。彼女はついにドアを開けるのだが、彼女がドアを開けるまでの間にしつこく描かれるのは「生存者たち」の醜さである。

    最後に生き残って釜山へと辿り着くのが妊婦と子ども――まだ十全に実現されていない命であるのは、ゾンビのユートピアのプロパガンダに対するカウンター・プロパガンダだ。しかし、これほどの恐怖を味わった後では頼りのないカウンターではある。私たちの希望はもう、妊婦(の中の赤子)と(赤子でも大人でもないという意味での)子どもしかないのだろうか。私たちはジョンギルのようにドアを開けなくてはならないだろうか。

  • ドイツ滞在記_202503021711

    ドイツ滞在記_202503021711

    Authored by N4BEK0

    在独日本人労働者

    ドイツに来てから初めてウクライナ人と出会い、彼らの自国批判を聞いて、ウクライナは汚職のひどい国だという印象を持った。その腐敗具合が想像以上で、笑いのネタにしていたこともあった。その後、ロシアの侵略戦争が始まり、難民支援を通じて多くのウクライナ人と接する機会があった。元夫の家に難民として住んでいた女の子とは今もやり取りを続けており、彼女はウクライナに戻った後も、現地のリアルを教えてくれる。

    民間人は常に危険に晒され、定期的な攻撃で多くの死者が出ている。インフラもボロボロで、停電は当たり前だという。それでも彼女はウクライナを離れたくない。同じように、たとえ戦争が続いても自国に留まりたいと考える人は多い。そんな状況を聞くと、いたたまれない気持ちになる。理不尽に民間人が死んでいく。

    しかし、現実は厳しい。ウクライナはアメリカの支援なしでは戦争を続けられない。西側諸国は資金や武器を提供しているが、NATO加盟を認めず、実質的な軍事介入は避けている。ウクライナやモルドバなどの旧ソ連諸国は経済的に貧しく、もともと民族対立が絶えなかった。さらに、ロシアの侵略戦争によって、周辺国から反ロシアのアナキストや武装勢力が流入し、ウクライナ国内には多様な政治思想が混在している。皮肉なことに、こうした勢力が共存できているのは「共通の敵」であるロシアとの戦争があるからだ。

    だが、もしこの戦争が終わったらどうなるのか。外敵を失えば、国内の対立が激化し、シリアのような内戦状態に陥る可能性もある。西側諸国がウクライナを全面的に支援し続ける保証はなく、期待するべきではない。今はトランプとゼレンスキーの会談が決裂して、いたたまれなくなった西側諸国の政治家たちがゼレンスキー支持を表明してるけど、それと具体的な軍事支援は別だ。

    そう考えると、ウクライナの一般市民のためには、今の段階で停戦し、ロシアに一定の譲歩をすることが現実的な選択肢なのかもしれない。これは、もともと汚職や民族・政治的対立が激しかった国が辿る、悲しい運命なのだろう。仮にロシアがウクライナを支配しても、民族主義勢力の抵抗やポーランド・バルト三国の反発によって、しばらくは混乱が続くかもしれない。

    それでも、ウクライナがアメリカの支援なしに今のような戦争を続けることは不可能だ。そもそも、永遠に戦争を続けることなどできないのだから。

    2025年3月21日

  • 絶望することに絶望するための独立したメディア「OnTheBeach」への支援と連帯の呼びかけ:DONATEページの開設のご報告

    絶望することに絶望するための独立したメディア「OnTheBeach」への支援と連帯の呼びかけ:DONATEページの開設のご報告

    この世界には、偽りの希望を売る人たちがたくさんいます。しかし、本当に必要なのは「絶望」と「絶望することへの絶望」ではないでしょうか。

    そして、それを生産できるほどに苛烈な認識は、「OnTheBeach」のように独立したメディアにしか不可能です。どのように飯を食っているかということに、人間の認識能力は強く影響を受けるからです。

    もし、このようなメディアに維持されるべき価値があると感じてくださったなら、ぜひ、ご支援をお願いいたします。

    サーバー代等、ブログ運営費に利用させていただきます。

    円・Bitcoin・Ethereumのいずれでも可能です。

    詳細は「DONATE」ページをご覧ください。

    2025年4月13日
    OnTheBeach管理人・円原一夫

  • 大規模な検閲体制を打ち破るためにご協力ください:OTB Store(渚堂)開店のご報告

    大規模な検閲体制を打ち破るためにご協力ください:OTB Store(渚堂)開店のご報告

    OTB Store(渚堂)を開店いたしました。

    OTB Store(渚堂):https://nagisanite.booth.pm

    OntheBeachの物販部門という位置づけです。

    こちらの商品をご購入いただくことで、あなたの現実にもうひとつの現実がそっと重なります。

    終末を待機する渚で笑う犬のカップやステッカーを通して、「この世界はますます壊れていく」という確信を、友人や同僚、家族へ静かに伝えることができるでしょう。

    時には、嫌な上司、酷薄な同僚やクラスメイトへの「魔除け」にもなるかもしれません。

    また、売上は、偽りの希望を売り歩く者たちばかりのメディア状況のなかで、独立した言論を維持する「OnTheBeach」の諸費用の支援にもなります。

    アポカリプス・ナウ。大丈夫、あの渚で犬は笑っている。

    恋人やパートナー、お子様やご両親へのプレゼントにも、ぜひどうぞ!