OnTheBeach

For the end of the world and the last man

タグ: 終末論

  • 文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    Authored by 円原一夫

    1

    自己批判という言葉がかつてあった。日本の左翼は、その言葉を信じていた。だがそれはいつしか内ゲバと粛清へと変わり、外へ向かうはずの力を内側で燃やし尽くした。そして彼らは、敗北し、分裂し、瓦解し、その言葉も思想も、忘れ去られた。かつての左翼は環境運動などに亡命し、マルクスはエコロジーの文脈で語られることで、どうにか書店に平積みされている。

    自己批判が無意味だったのか。いや、むしろ──足りなかったのかもしれないとしたら、どうだろう? もしその刃を、もっと深く突き立てていたらどうか。組織でも路線でもなく、自分たちが当たり前のように依存していた、文明そのものに対して。産業、進歩、成長、人間中心主義という幻想。

    それを本当に行おうとして、文明を“誤り”と呼び、それごと終わらせようとする者たちがいる。

    Deep Green Resistance――。

    彼らは、もちろんアメリカの運動体なので、自己批判とは言わずに、根源的な自己批判を実行している。

    実に、不気味な連中だ。文明の崩壊を望んでいる。もしそれが起きれば、私も、あなたも、AIもスマートフォンも使えなくなる。だが、だからこそ、私たちが無力なのだとしたら? 労働組合が経営者に恐れられるのは、ストライキができるからだ。医療・介護の労働者がなめられているのは、ストライキができないからだ。

    では、もっと根源的になめられているとしたら? 文明そのものに、「お前らにはストライキなんかできない」と、そう思われているとしたら?

    クーラーが欲しいから。洗濯機が欲しいから。スマートフォンも、車も、インターネットも。それが欲しいから、文明には逆らえない。だから何も壊せない。だから、なめられている。誰がこの文明の経営者なのか──それは今、私は言わない。それを考えるのはまた別の人間だ。私はただ、こう言っておく。

    Deep Green Resistanceを見てみろ。

    自己批判を本当に徹底するとはどういうことか。文明にストライキするとは、どういうことか。

    言うなれば、この文章は自己批判ということの、論理的徹底の、一つの帰結のサンプルの分析とその結果である。

    2

    今日、環境運動は数多くある。ペンキを美術館に投げつける者。街を封鎖し、政府に気候政策を迫る者。グレタ・トゥーンベリのように、世界中でメッセージを発信する者。

    だが、それらの運動が注目されるようになる以前、2011年にすでに、より過激で、より静かな運動体がいた。

    Deep Green Resistance(DGR)。公式ホームページ

    地球を守るために文明を終わらせようとする運動体である。

    産業文明そのものを終わらせること──それが彼らの目標である。

    DGRの公式サイトには、さまざまな表向きの活動が紹介されている。オンラインや対面での講座、環境保護キャンペーン、フェミニズムやエコ哲学の理論構築、地域生態系の学習支援。
    「抵抗の文化」を育てる活動としては、ごく常識的な範囲にも見える。

    YouTubeチャンネルの登録を促し、メーリングリストを配信し、著作の図書館への推薦を呼びかける。販売しているTシャツやパーカーは意外に可愛らしい。

    年次カンファレンス(Annual Conference)は、公式ホームページのポスターによると戦略や思想を語り合い、焚き火を囲んで詩を朗読するとのことである。自然の中で暮らしを語り直す、どこか牧歌的な空気すらただよう。そして、自らの思想書を“other radical titles”と呼び、図書館や書店に置かせようとする。自分たちの思想を公共空間に浸透させようとする。

    だが、同じ公式サイトに、別の層がある。

    DGRは明言する。「抵抗運動の各部門は連携しなければならない」と。

    “The different branches of a resistance movement must work in tandem: the aboveground and belowground, the militants and the nonviolent, the frontline activists and the cultural workers.”
    —— Deep Green Resistance, About Us

    地上と地下、武闘派と非暴力、前線の活動家と文化的労働者。
    それらは分断されるべきではない。すべてが連動してこそ、抵抗運動は成り立つ。

    さらにDGRニュースサービスには、「Underground Action Calendar」という特異なページが存在する(DGR News Service)。

    そこでは、世界各地で行われた環境インフラへのサボタージュ行動が記録されている。GMO作物の破壊、パイプライン、変電所、送電網への攻撃など。

    DGR本体は「これらを必ずしも支持するものではない」と記すが、同時にこう書いている。

    “The Underground Action Calendar exists to publicize and normalize the use of militant and underground tactics in the fight for justice and sustainability.”

    訳するとすれば、こうである。

    The Underground Action Calendar exists to
    「地下アクション・カレンダーは、~するために存在している」

    publicize
    「 公にする、広く伝える」

    and normalize
    「正常なものと見なす、一般化する、日常化する」

    the use of militant and underground tactics
    「戦闘的(militant)かつ地下的(underground)な戦術の使用」

    in the fight for justice and sustainability
    「正義と持続可能性のための闘争において」

    すなわち、“正義と持続可能性のために、戦闘的で地下的な戦術を公開し、正当化する”。

    以上は、Deep Green Resistanceという運動体の思想的な二重構造=地上と地下の戦略的分業を物語っている。

    地上活動(aboveground)と地下活動(underground)という“二重戦略”。

    地上では教育や啓発を行い、地下では直接行動や破壊活動を担う。

    DGRはこの区分を明確に意識しており、FAQページでは次のように説明されている:

    “In DGR we use these terms to distinguish between different parts of a movement. ‘Aboveground’ refers to those parts of a resistance movement which work in the open and operate more-or-less within the boundaries of the laws of the state. This means that aboveground activism and resistance is usually limited to nonviolence. DGR is an aboveground organization; we are public and don’t try to hide who we are or what we desire, because openness and broad membership is what makes aboveground organizations effective.”
    Deep Green Resistance, FAQ

    すなわち、DGR自身はあくまで“地上の非暴力的な公開組織”であることを繰り返し強調している。

    しかしその一方で、地下活動とは何かについても、明瞭に定義している:

    “‘Underground’ or ‘belowground’ refers to those parts of a resistance movement which operate in secret… Generally, these groups use more militant or violent tactics like property destruction and sabotage to achieve their goals.”
    — 同上

    DGRはこうした地下組織に関わらないと明言しつつ、その存在と機能を否定していない。

    “DGR is strictly an aboveground organization. We will not answer questions regarding anyone’s personal desire to be in or form an underground… We do this for the security of everyone involved with Deep Green Resistance.”
    — 同上

    すなわち、違法行為を推奨しないとしつつも、「誰かがやらねばならない」と黙示する。

    Underground Action Calendarまで用意して、それを「日常の抵抗戦術」として記録・共有している。

    これはもはや否定ではなく、別の形式による肯定と見るべきだろう。

    地上の活動だけでは足りないという認識。誰かが、インフラを、構造を、文化を破壊しなければならないという認識。そこにあるのは、文明の自壊を志向するほどの自己批判である。

    その深さは、ある一節に凝縮されている。

    “The authors of this book are not blithely asking who will die.
    In at least one of our cases, the answer is ‘I will.’
    I have Crohn’s disease, and I am reliant for my life on high tech medicines.
    Without these medicines, I will die.
    But my individual life is not what matters.
    The survival of the planet is more important than the life of any single human being, including my own.”
    — Deep Green Resistance, FAQs

    クローン病という、現代医療に支えられて生きている人間が、それでも文明の崩壊を肯定する。

    「自分の命が絶たれる未来を予測しつつ、なお文明の終焉を求める」

    もちろん、著者が実際にクローン病であるかどうか、文明が崩壊したときに本当に命を差し出すのか──それは検証のしようがない。だが重要なのは、「文明を崩壊させろと言うが病気の人はどうするのか?」という問いに、こう答える世界観があるという事実だ。

    3

    DGRが共有しているこのような世界観は、どのような内的構造に支えられているのだろうか?

    その鍵となるのが、DGRの共同創設者Derrick Jensenによる著書『Endgame, Volume I: The Problem of Civilization』(2006)に提示された「20の前提(20 Premises)」である。


    1|文明は持続可能ではなく、暴力に依存している

    “Civilization is not and can never be sustainable.”
    — Premise One
    出典:DGR Seattle支部著者公式サイト

    第一の前提でJensenは断言する。文明は持続可能ではない。文明は、自然資源を消費し、環境を破壊し、他の文化を侵略することによってしか存続できないとされる。

    “Our way of living—industrial civilization—is based on, requires, and would collapse very quickly without persistent and widespread violence.”
    — Premise Three

    現代の生活そのものが、暴力に依存しているという主張。これは直接的な戦争に限らない。資源の採掘、水の汚染、動物の絶滅、植民地主義、気候崩壊。これらすべてが、見えづらい形で日常に組み込まれている。


    2|この文明は変わらない。ならば止めるしかない

    “This culture will not undergo any sort of voluntary transformation to a sane and sustainable way of living.”
    — Premise Six

    この文明は、自発的に正気や持続可能性の方向へ進まない。小手先のエコ活動や政策修正では、システム全体の暴力性は残り続ける。

    “The longer we wait for civilization to crash—or the longer we wait before we ourselves bring it down—the messier will be the crash…”
    — Premise Seven

    だから彼らは語る。待つのではなく、終わらせた方が傷が浅くて済む。これが、DGRの思想の根幹にあるロジックだ。


    3|「愛」があるなら、破壊を否定しない

    “Love does not imply pacifism.”
    — Premise Fifteen

    愛は非暴力を意味しない。むしろ、真に愛しているなら、破壊という選択肢をも取らねばならない時がある。この前提は、従来の倫理体系を反転させる。

    「優しさ」や「平和」といった語が、本当に守るべきものを守っていないとき、その語の意味そのものが、疑われるべきだと彼らは言う。

    『Endgame』の20の前提は、単なる問題提起ではない。
    それは、“人類が常識としてきたものすべて”を再審査させるための爆薬である。

    • 文明は善なのか?
    • 進歩は進歩なのか?
    • 成長は誰のためなのか?
    • 自然は、誰かに従属すべき存在なのか?

    DGRの思想はここから始まり、現実の行動(教育、地下戦略、サボタージュの肯定)へと展開していく。

    彼らの自己批判は、もはや自分たちの組織や文化を対象にするものではない。文明という“全体”に向けられた、徹底的な否定の形式である。彼らは、産業文明に対する不満を言っているのではない。それを支える世界観そのものに対して、“やめよう”と言っている暴力の連鎖、依存の連鎖、そして希望の連鎖すらも、断ち切ろうとしている。

    これが徹底的された自己批判が到達した、冷静な絶望である。

    4

    以上が、文明の自壊を志向するほどの自己批判のロジックである。私たちはそれを、DGRというサンプルを通して確認した。

    彼らのロジックは、よくできている。

    しかし反論は簡単なはずだ。

    人類は進歩している。テクノロジーの発展で、病気も減った。
    生活は豊かになり、寿命も延びている。産業革命からの数百年で、私たちは世界を変え、自然を克服し、より自由で、より素晴らしい社会を築いてきた。

    過ちもあるが、それでも前に進んでいる。まだ道半ばだが、少しずつ良くなっている。──そう言えばいいだけの話だ。

    だが、それが私には、どうにも言えない。喉まで出かかったその言葉が、なぜか口をついて出てこない。

    ちょうど、純粋な革命主体を求めて物理的な暴力すら用いた自己批判を続ける同志に、何も言えなかった左翼の活動家たちのようなものであるか?

    純粋さに棹さす言葉が出てこない。

    それでもあえて、反論してみせようか? 左翼の小グループの活動家の一人ではなく、文明が自己批判を要求されているのだから。私が庇ってやるべきではないか?

    こんな反論はどうだ?

    希望がある。計画がある。

    国連は、2030年までに貧困と飢餓をゼロにすると決めた。気候変動も、生物多様性の崩壊も、ジェンダー不平等も、克服する予定だ。

    もちろん今は少し遅れている。貧困は増え、飢餓は広がり、気温は上昇し続けている。だが、それはただの一時的な乱れにすぎない。むしろそれは、計画の柔軟性と人類の挑戦心を示している。

    我々はどんな困難にも打ち勝てる。

    国連には、世界中の優秀な頭脳が集まっている。わが国も、多額の資金を拠出しているではないか。彼らが、ちゃんと考えてくれている。そうに違いない。そうでなければ、何故、金を出す必要がある?

    データが遅れているだけで、現実はきっともっと良くなっている。

    それに、私たちにはテクノロジーがある。ドローンで植林し、AIが配給を管理し、再生可能エネルギーが世界を救う。

    すべてはうまくいく。

    明日は今日よりも、絶対に良い。SNSで誰かがそう言っていた。結構なことじゃないか。

    Good luck、人類。未来には希望しかない。おめでとう。

  • 道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    Authored by 円原一夫

    僕たちは世界を変えてしまった。劇中、冒頭と結末の2回繰り返される台詞。では何故、「僕『たち』は世界を変えてしまった」というように、主語が複数形なのか。「僕」でもなく、「あなた」や「あなた方」でもなく、「僕たち」。さらに言えば「私」や「私たち」ですらありえたであろうに。

    結論から書くと、これは帆高くんが超人になろうとしてなりきれない、その苦しみのために吐き出した言葉だ。彼が超人ならば「僕は世界を変えてしまった」と言うであろうし、超人でなければ「あなた(がた)が世界を変えてしまった」と言うであろう。この(普通、男性が使う)複数形は、ちょうどその中間、重すぎるものを引き受けようとするが引き受けきれないところに生じた。

    重すぎるものを引き受けようとするとは、どういうことだろうか。そのために一つ想起して欲しいのが、劇中、「天気の子」である陽菜さんを生贄とすることを拒否した結果、「世界」がどうなったかということだ。雨が降り続けて、ついに東京が沈んだ。そう、しかし、あなたはさらに想起するべきである。東京が沈むプロセスはどのようなものであったか。あなたは何も思い出せない。当然だ。そんな場面はなかったのだから。水没が常態化したことを示すようにして、ついに水上バスのようなものが生活に使われている東京が一瞬描かれる他には、何も、ない。

    東京が連続する豪雨によって水中へ没する過程は完全に「吹き飛ばれた」。「途中は全て消し飛んだ」。残るのは結果だけだ。あなたはプロセスを想像するべきである。いや、やはり想像するべきではない。それはあなたのトラウマを喚起することがありえる。大量発生する避難民、残された住宅ローン、中小小売商工業者の職住の喪失、疫病、首都における甚大な被害による東アジアにおけるパワーバランスの変化、金融機能の停止と企業の国外移転の加速化、教育期間の短縮による児童発達の不健全化、自殺者の増大、飢餓ゲーム、親殺し、ホームレスの大量発生、第二次就職氷河期、社会保障費の膨張、金融緩和と建設国債発行に伴うインフレの深化、スタグフレーション、飢餓ゲーム、カブトムシ、秘密の皇帝、飢餓ゲーム。

    帆高くんは、上記の景色を超人としての力でもって、吹き飛ばしたのである。このことは、彼の物語上の「敵」の立場のために、明らかである。というのは、それが主人公とは負の方向に自己実現した者のことであり、つまり帆高くんの「敵」の分析が帆高くんの立場を明瞭なものにするから。

    そこで私は「敵」を2人、挙げよう。第一に高井刑事である。梶裕貴が声優を務めた、若い方の刑事、ラストシーン近く、帆高くんを止めるために銃口を向けた刑事。この映画は(警官が超法規的に事件を解決するドラマが人気で、警察に拘束された時点で推定「有罪」となって「容疑者」の実名が報道される国においては)面白いことに、警察組織がしばしば主人公の目的達成の障害として描かれるが、その内の最大の者が彼だ。彼は法秩序の守護者であり、法秩序を守護することを行動の目的としている。

    もう一人はオカルトライターの須賀である。彼は必ずしも物語上の「障害」ではないが、「敵」ではある。彼は初め、援助者として現れ、最後にまた援助者となるが、その間に、本物のオカルトに触れてしまった帆高くんから身を守るために、彼を遠ざけ、さらに追い詰める。彼は喘息持ちの娘のために、二重に帆高くんと敵対する。陽菜さんを人身御供にして晴れを作り出すこと、帆高くんを遠ざけて娘を養育できる生活力を確保することが、彼の目的であるから。

    これらの目的と対立するがゆえに、彼は超人とならざるをえない。法秩序すなわち社会、あるいは娘すなわち家族、もしくは生活すなわち経済、あらゆる「目的」と彼は既に敵対しているのである。そもそも、彼の生きている世界とは、オカルト(隠されたもの)がそれに言及することで生計を立てている人々においてすら信じられていないような世界であり、そして何よりも、天気を操作するために人身御供を捧げるという儀式をすら忘却しているような世界である。だから彼は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と宣言する。ここで、ついに、私たちは帆高くんが解釈の闘争の現場としての世界を発見したことを知る。彼は、まさに超人の概念を提唱したニーチェのごとく、「道徳的な天気などというものは存在しない。天気の道徳的な解釈が存在するだけだ」と言ったのである。儀式が忘却されたのならば、儀式によって示される正しさもまた、忘れ去られなくてはならない。正しい(とされる)社会も家族も経済も、それどころか正しさそのものが失効した。あるのはただ、解釈同士の闘争だけである。全ての闘争を終わらせる超人が誕生する。彼は自ら目的を作り出す。彼は一つの都市を一人の女のために滅ぼすことすら、肯定できる。その過程で起きることなど、彼の意識に上ることすら、ない。彼は社会のため、家族のため、経済のためという目的を全てを放棄し、それを通して自分の行動を正当化することを断念し、自分の行動を自分自身で肯定する。超人が誕生する。

    だが超人への道は、あまりにも険しい。超人である帆高くんは、高井刑事や須賀のように、社会や家族や経済を自己の正当化のために使用することができない。その使用を断念することで、彼はあらゆる葛藤を予め封殺し、一人の女のために一つの都市を滅ぼすという、それを正当化する一切の公共的な理屈を必要としない、純粋な力が使用できるようになった。しかし、大きな力には大きな義務が伴う。彼は自らを都市の滅亡の原因とし、自らを都市の滅亡の責任としなければならない。「(社会や家族や経済ではなく、この)僕が世界を変えてしまった」と言わなければならない。

    それでも、私たちは、この映画の最初と最後の台詞が「僕たちは世界を変えてしまった」という(主に男性が用いる)一人称複数形の台詞であることを知っている。ここで複数になるのは、まさに超人として引き受けなければならないものの重さのためである。帆高くんは、超人の耐え難き重さを陽菜さんに分有させようとしたのである。

    しかし、この映画の恐ろしさ、言い換えれば素晴らしさは少しも減じることがないだろう。もしも陽菜さんが帆高くんと超人の耐え難き重さを分有するならば、誰もが忘れているが確かに今も「正しい」世界を維持するために犠牲となっている者たちが、一つの巨大な超人の集団となって、我々を大洪水や大地震で滅ぼしてくれるのだから。

  • 粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    Authored by 円原一夫

    父子がソウル発釜山行きの高速鉄道に乗る。時期を同じくして、韓国の北部でゾンビが発生し、南下を始める。鉄道にも乗り込んでくる。父子を含めた乗客は車内でゾンビに抵抗しつつ、南を目指す。

    このゾンビは災害ではない。このゾンビは抵抗し、打倒しなければならない絶対の敵だ。この映画全体を貫く強い緊張感はそのためである。単純なパニック物ではない。ヨン・サンホは危険なゾンビが存在するのではなく、ゾンビが危険であるという解釈だけが存在するということ、ゾンビの思想性こそがゾンビ映画を面白くするということを理解していたいに違いない。ゾンビがただそこにあるだけでは恐怖はない。

    まず釜山を目指すという設定が、このゾンビに敵対性を付与している。目指す場所が釜山であることは、極めて重要な意味を持っている。そもそも、この映画の原題は「釜山行」だ。そして台詞、「釜山だけが初期防衛に成功した」。

    ここまで繰り返されれば――あるいは既にゾンビが南下しているという設定によって――誰でも察しはつく。この韓国で作られた韓国人俳優が出てくる韓国が舞台の韓国映画はまずは観客の少なくない部分である韓国人に対し、朝鮮戦争の記憶をフラッシュバックさせようとしている。朝鮮戦争では、北朝鮮軍の南侵によって韓国軍は南へと追い詰められた。米軍主体の国連軍の介入によって南下が止まり、反転攻勢の始点となったのが釜山だった。

    しかし、このゾンビは単純に北朝鮮軍の戯画化ではありえない。恐怖の対象あるいは敵を愚かなものとして描くような知性の欠如は、この映画にはない。むしろ、彼らは既にユートピアを実現しており、死すら克服したユートピアには「党」はもはや必要ない。朝鮮社会主義を超えた社会主義者の集団。彼らの内部には搾取も支配も差別もない。それは危険な魅力を備えている。そして魅力ある敵ほど危険なものはない。映画全編のこれほどの緊張感はそのためである。このユートピアからの使者に抗い、防衛するほどの何かが我々の側にあるだろうか? という問いが繰り返される。答えを求められる。

    高齢のインギルとジョンギル姉妹の一連のエピソードは、そのことを示している。彼女たちは高齢になって、初めての旅行に出る。高齢の夫妻や男性ではなく、姉妹。その初めての高速鉄道での長距離旅行。背後にあって、彼女たちから旅行を奪ってきたのは恐らくは家父長制と労働者階級の貧しい生活であろう。そしてゾンビ・パンデミックに巻き込まれる。インギルがゾンビになる。ジョンギルは生存者たちとともにおり、ゾンビの集団の中にいるインギルをドアを隔てて見ることになる。彼女はついにドアを開けるのだが、彼女がドアを開けるまでの間にしつこく描かれるのは「生存者たち」の醜さである。

    最後に生き残って釜山へと辿り着くのが妊婦と子ども――まだ十全に実現されていない命であるのは、ゾンビのユートピアのプロパガンダに対するカウンター・プロパガンダだ。しかし、これほどの恐怖を味わった後では頼りのないカウンターではある。私たちの希望はもう、妊婦(の中の赤子)と(赤子でも大人でもないという意味での)子どもしかないのだろうか。私たちはジョンギルのようにドアを開けなくてはならないだろうか。

  • 飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    この「飢餓ゲーム批評宣言」シリーズまたはインデックスの説明

    物語を創作することは夢に似ている。両方とも、嘘である。そしてまた、もう一つ似ているのが、規制である。夢には規制がある。とはいえ、謎だらけの規制である。フロイトやユング、それから現代でも精神医学や大脳生理学がその実態を暴こうと挑んできた。物語にも規制がある。小説は作家の夢ではない。言語や編集者、出版、流通という規制が入る。映画も同様である。巨大な資本が使われるのでさらに厳しい。このように、物語は規制の、言い換えれば制御の産物であり、多くの人の手を経て、齟齬や誤解、偶然のノイズを極限まで取り除いた“滑らかな夢”として形を成す。

    しかし、いくら制御されていようと、完全にコントロールされた物語など存在しない。これも夢と同じである。奇妙な場面が現れる。筋の通らない展開、唐突な感情の変化、不自然な構図、説明のつかない選択、馬鹿げた台詞。それらは多くの場合、「作者の意図」や「制作の都合」として“答え合わせ”され、解釈の対象から外されていく。SNS全盛の時代であれば、なおのことである。

    だがここでは、この一連の記事では、そのような答え合わせを拒否する。むしろ、そこで間違っているのは作品全体ではないのか。コントロールされているように見えないところこそがコントロールされているとしたら?

    それをコントロールする“別の現実”が、背後に現れるであろう。

    この批評手法を、私は「飢餓ゲーム批評」と名付けよう。物語という夢の中に忍び込んだ、支配の影、資本の声、そして現実の重みを読み取るために。飢餓のゲームの時代、人々が歓喜とともに互いに互いを攻撃し、歓喜とともに凄惨な滅亡を積極的に選ぶ現実を読み取るために。ゲームのような、喜びに満ちた地獄。

    この記事はその方法論を宣言するものであり、すべての奇妙な場面に、新たな現実の射影として光を当てることを試みた記事へのインデックスである。

    つまりあなたは、以下の一連の記事を読むことで、作品を三度楽しむことができる。作品が、作品そのもの、作品の別の可能性、そしてあなたの周囲に拡がる現実という作品に分岐するのだから。

    2025年4月11日

    円原一夫

    プルードンとマルクスの思想の差異より世界の終わりについて想像するほうが容易い:映画『オッペンハイマー』

    Authored by 円原一夫  クリストファー・ノーラン監督作品『オッペンハイマー』は、マンハッタン計画を強力に推進したロバート・オッペンハイマーの伝記映画である。『イミテーション・ゲーム』や『ビューティフル・マイン […]

    きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    Authored by 円原一夫 ようやく『君たちはどう生きるか』を観ることができた。およそ、粗筋やキャスト、舞台について何も知らずに映画を観ることがなかったため、まずその点で新鮮な体験だった。とはいえ、とにかく私はこれ […]

    粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    Authored by 円原一夫 父子がソウル発釜山行きの高速鉄道に乗る。時期を同じくして、韓国の北部でゾンビが発生し、南下を始める。鉄道にも乗り込んでくる。父子を含めた乗客は車内でゾンビに抵抗しつつ、南を目指す。 この […]

    過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    Authored by 円原一夫 ポン・ジュノの『殺人の追憶』は傑作映画だ。遥かに残虐で残酷、特殊効果もたっぷり使った映画を観ているにも関わらず、観終わった後は暗闇が怖くなった。それはあの、パク刑事の顔がアップになるラス […]

    道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    Authored by 円原一夫 僕たちは世界を変えてしまった。劇中、冒頭と結末の2回繰り返される台詞。では何故、「僕『たち』は世界を変えてしまった」というように、主語が複数形なのか。「僕」でもなく、「あなた」や「あなた […]

    狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    Authored by 円原一夫 下記の文章は、私の記憶では十年近く前に書いたものであるが、私がある作品を批評するという時に(現在時点で)最も重視していることを先取りしているため、私がいつでも自分の基準点を思い出すことが […]

    叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    Authored by 円原一夫 谷川流、著。来年で刊行されてから二十年になる。二十年もあれば、一人の人間が成人になったり、経済先進国の地位が入れ替わったり、「キョン! 何々をするわよ!」とアニメを踏まえたジョークをSN […]

  • ラディカルランドからこんにちは:シリーズ記事のインデックス

    ラディカルランドからこんにちは:シリーズ記事のインデックス

    この「ラディカルランドからこんにちは」シリーズまたはインデックスの説明

    「現実を見ろ」。それは、甘い情勢認識に対して、保有する資源や能力の限界を思い出させるための言葉である。現実を見ることは、しばしば苦しい。病理をもたらすことさえあるような、過酷な行為だ。このシリーズでは、そうした過酷な現実に向き合ってしまった者たち、語らずをえなかった者たちの言葉を取り上げ、そのロジックを検証する。彼らの語りは、物笑いの種となり、嘲笑され、しばしば「狂気」として忘れられる。だが、それは凄惨な事件を目撃した者が、それでもなお証言しようとしたときに立ち上がる言葉に似てはいないか? 破綻した言葉こそが、別の現実を見てしまった者の、唯一の証言であるかもしれない。だから傾聴してみようではないか。別の現実に触れられるかもしれない。

    ここで言う「傾聴」とは、支離滅裂に聞こえる語りを、それが真実であるような別の現実を仮定して聞くことである。刑事ならきっとそうするだろう。だから私は、刑事のような者になろう。突飛な供述を真顔で記録し、混乱した語りの中に隠された筋道を探る者に。語り手自身がその現実に耐えきれず、記憶がねじれ、説明が破綻していたとしてもいい。あなた方はそれを、「フォーマットが整っていない」「意味不明だ」と言って笑っていればいい。しかし私は刑事のようなものであるから、刑事が「会社の鞄を落とした孫」について、詐欺のショックで吃る被害者から根気強く聞き取り、なりすまし犯を特定しようとするように、私は、爬虫類型異星人という語りが、別の現実の記述においていかに“必要”だったのかを捜査しようと思う。

    だから、彼らの言葉を、証言として扱うことを拒まない態度が必要だ。そうでなければ、何一つ、事件の全貌には近づけない。これは、思想における捜査である。語られた“異常”が、ただ現実を否定するのではなく、もう一つの世界を語ろうとした痕跡である可能性に賭ける。

    このように、別の現実を記述すること、これを我々はラディカリズムと呼ぼう。この現実に対して、全く異なる現実を提案すること。だからこそ、それは異常に見える。だからラディカリズムとは、より効率的な年金制度の提案ではない。軍隊の再編成の構想でも、教育制度の改善でも、税制の見直しでもない。それらはラディカルではない、と定義上言えるだろう。

    そして、別の現実を知ることは、この現実を相対化することでもある。詐欺対策に本当に必要な認識とは、「馬鹿な被害者がいる」という安直な判断ではない。我々の社会と同じ場所に、“孫”や“警官”になりすましてでも他人の財産をかすめとろうとする人間が存在しているという、勤労者の道徳とは異なる水準の道徳があるという現実の直視、言い換えれば、考えたくもない現実の直視である。この「ラディカルランドからこんにちは」シリーズは、ラディカリズムの論理を内在的に把握し、分析し、提示し、あなた方に、それを可能にするための記事のシリーズであり、このインデックスはそのまとめである。あるいは私が記事を書く前に初心に立ち帰るためのメモ。

    とはいえ、そんなことが可能になっても、幸福がもたらされるとは思えない。場合によっては、悪い人などいないと思っている子どものほうが、幸福かもしれない。だから、もしかすると、あなたがこのシリーズに載るかもしれないが、それは決して不名誉なことではないと、ここに書き記しておく。

    2025年4月10日

    円原一夫

    記事一覧

    社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    Authored by 円原一夫 1 スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。 アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべ […]

    獅子のように立ち上がれ:デヴィッド・アイク

    Authored by 円原一夫 1 「レプティリアン」という言葉を聞いたとき、多くの人は反射的に笑ってしまうかもしれない。爬虫類型の異星人が人類に擬態し、王族や政治家、巨大企業の経営者になりすまして世界を支配している— […]

    宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    Authored by 円原一夫 1 「宇宙人は共産主義者である。そして彼らは、すでに来ている。」 この言葉は、アルゼンチンの革命家フアン・ポサダス(1912–1981)の思想を象徴するものとして知られている。第四インタ […]

    文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    Authored by 円原一夫 1 自己批判という言葉がかつてあった。日本の左翼は、その言葉を信じていた。だがそれはいつしか内ゲバと粛清へと変わり、外へ向かうはずの力を内側で燃やし尽くした。そして彼らは、敗北し、分裂し […]

  • 宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    Authored by 円原一夫

    1

    「宇宙人は共産主義者である。そして彼らは、すでに来ている。」

    この言葉は、アルゼンチンの革命家フアン・ポサダス(1912–1981)の思想を象徴するものとして知られている。第四インターナショナルの分派「ポサダス派」を率いた彼は、ラテンアメリカ各地で革命運動に関与し、トロツキスト理論の普及に努めた。だが今日では、彼の名はしばしば奇矯なイメージと共に語られる。

    1968年に発表された論文『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』において、ポサダスは次のように述べている。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    宇宙人は来ている――だが、それは、ただの空想やロマンではない。ポサダスにとってそれは、ある必然的な論理の帰結だった。そして、その論理が今や奇矯にしか見えないというところに、この地球が絶望の星である理由がある。

    2

    ポサダスにとって、共産主義とは単なる理想ではない。 それは歴史の必然であり、理性の帰結である。ところが、彼が生きた現実の地球にはそのような理性がどこにも見出せなかった。

    労働者国家は堕落し、左派は分裂し、社会主義は資本の網の中で失われつつあった。 そして今日においても、社会を変える力は制度と想像力の両面から封じ込められたままだ。

    だとすれば――理性は実在しないのか? それを否定することは、共産主義のみならず人間の理性的可能性そのものを否定することになる。

    ポサダスはこう述べている。

    We accept that extra-terrestrial beings exist, as a conclusion of dialectical thought. This gives us confidence that we can master no matter what other phenomena that exist, without being caught off-guard.

    ポサダスにとってこれは、信仰ではない。理性を擁護するための、理性自身による“跳躍”だった。その跳躍の先にあるのが、宇宙人は存在する、そして彼らはすでに「来ている」という確信だった。

    3

    ポサダスは、宇宙人が観察者として来ており、地球のようなくだらない星の矛盾に巻き込まれていないことを何度も強調している。

    They have shown no interest in attacking, violating, stealing, possessing: they have come to observe.

    そして、彼らが非暴力的かつ穏やかな存在であることを、目撃者たちの証言から導いている。

    All the people who say that they have seen them, say that none of them were of an aggressive disposition or inspired fear in them.

    このような素晴らしい存在が地球を訪れているという仮説は、ポサダスにとって、地球外に、つまり世界に理性的な社会秩序が存在しているという思想的確信を支えるものだった。

    だからこれは当然のことながら、他方では恒星間飛行を実現していないような「地球人批判」でもある。ちょうど北欧のデモクラシーを例にあげて、その欠如としての日本のデモクラシーを批判的に検証するようなロジックと同じである。彼は、地球社会の支配階級が科学や知識を利潤や権力のために制限していることを批判し、次のように述べている。

    What does that give him? Power over others? And what then? … It does not give him any capacity to raise and develop his intelligence. On the contrary, it limits it.

    ここで言う「それ」とは、工場や軍事的地位などの財産・権力を指している。ポサダスは、富や権力が知性の発展を阻害していると主張する。恒星間飛行を実現し、穏やかに地球を見守る共産主義の宇宙人との、なんという差であろうか?

    4

    現代において、ポサダスの名前はミームの一部として再浮上している。「UFOを信じたトロツキスト」「宇宙人は共産主義者」「核戦争を肯定したマルクス主義者」といったラベルが、RedditのスレッドやTシャツ、ステッカー、ファンアートの中で再生産されている。

    だが、それは決して真面目な再評価ではない。 それは笑いであり、そしてしばしば不安に対する防衛反応である。ジョークというのは、しばしば恐怖に対する反応なのだ。

    つまり我々は、理性のないこの地球、そして理性のないこの銀河に住んでいることを、おそらく無意識のうちに理解している。そしてそれを直視するかわりに、「宇宙人なんているわけがない」と笑ってやり過ごすのだ。笑いの中にあるのは、理性の敗北を受け入れるという諦念である。

    我々が彼を笑えるのは、理性の実現をどこにも、銀河の果てまで探そうとも見出さないという社会的合意との差においてなのだ。

    ポサダスはこう述べた。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    これは、未来への希望ではなく、地上の理性の不在を埋め合わせようとする必死の跳躍だった。

    理性が地球にないのなら、せめてどこかにはあるはずだ——そして来ていてほしい。 そうでなければ、我々の惨状には終わりがない。理想社会、彼の言葉で言えば共産主義は実現不可能なものになる。

    だが、もし我々が彼をただの冗談として処理してしまうならば、それはこう言っているに等しい。

    「理性は、銀河のどこにもない。ポサダスが描いた地球の惨状は、永遠に続く」

    そしてそのとき、地球人にとってもっとも悲惨な結論が訪れる。

    ポサダスはやはり、完璧に間違っていた思想家だったのだ。


    参考文献

    J. Posadas, Flying Saucers, the Process of Matter and Energy, Science, the Revolutionary and Working-Class Struggle and the Socialist Future of Mankind, June 1968.
    https://www.marxists.org/archive/posadas/1968/06/flyingsaucers.html

  • 社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    Authored by 円原一夫

    1

    スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。

    アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべてオンラインで完結する。行政手続きも、就職活動も、銀行や保険の管理も、SNSを介した人間関係ですら、通信端末の所有を前提としている。それを持たない者は、もはや「社会に適応していない」とみなされる。

    テクノロジーを「使う自由」は、いつのまにか「使わないことができない不自由」へと変質している。

    では、私たちには、そこから距離をとる自由が残されているのだろうか。テクノロジーを拒否する選択、あるいはそれを選ばない生き方は、まだ可能なのか。

    この問いに対し、ある人物の名前を思い出さずにはいられない。

    ユナボマー――セオドア・カジンスキー。

    アメリカを震撼させた連続爆弾事件の犯人。そして、「産業社会とその未来」と題された長大な犯行声明において、現代文明の構造そのものを激しく批判した思想犯。

    彼は、文明批判の名のもとに一連のテロを実行し、その動機と思想についての文章を、長大な「犯行声明」として、1995年にワシントン・ポスト紙上に掲載させていた。

    “Unabomber’s Manifesto” in the Washington Post

    本稿ではこの「犯行声明」を読む。

    彼が何を見て、何を拒絶しようとしたのか。なぜ彼は言葉ではなく、行動を選んだのか。それを理解することは、彼を肯定することではない。むしろ、それを通して、我々がいまどこに立っているのかを確認することに他ならない。

    彼の行動は、当然ながら、単にくだらない連続殺人である。肯定するつもりはない。むしろ私はこの論考で根源的に否定するつもりである。

    だが、いま私たちが生きているこの状況――生成AIが日常化し、すべてがデジタルに変換され、オフラインであることがほとんど不可能になったこの環境――その全体像を見通すためには、カジンスキーという極北にまで踏み込んだ抵抗のかたちを、一度は検証しなければならないのではないか。

    なぜなら、彼の予測は、今となってはあまりに的中してしまっているからだ。

    そしてそれゆえに、彼のテロルは何も変えられなかったのだということを論証する。それが根源的に否定するということの意味であり、それが、私たちの現在である。私たちは森の隠者となった天才数学者以上の絶望をたっぷりと味わう。世界の終わりに備える。

    2

    カジンスキーにとって、現代社会とは単に便利で高度な産業社会ではない。それは、人間の自由意志を次第に奪い、自律的な判断や生活を不可能にしていく「システム」である。そのシステムとは、国家でも資本でも宗教でもなく、テクノロジーそれ自体である。

    このシステムの本質は、人間の行動や欲求を満たすために存在するのではなく、人間の行動のほうがシステムに適応させられていくという構造にある。

    The system does not and cannot exist to satisfy human needs. Instead, it is human behavior that has to be modified to fit the needs of the system.

    このシステムは人間のニーズを満たすために存在しているのではない。むしろ、人間の行動こそがシステムのニーズに合うよう変更されねばならないのだ。

    3

    しかも、この産業-技術システムはすでに、人間の意思決定を超えて、自己増殖的に拡張する構造となっている。この「システム」とは、単なる政府や企業のネットワークではない。それは、社会制度が相互に依存し、止まることなく自己強化を繰り返す構造体――フィードバックループそのものを指す。

    新しい技術が登場すると、人々はその「便利さ」のためにそれを受け入れる。やがて社会制度そのものがその技術を前提に再構築され、もはやその技術なしでは生きられない状態が生まれる。

    さらに、その技術は新たな問題(副作用・格差・リスク)を生み出す。すると今度は、それに対処するためのさらなる技術的手段が求められる。こうして人間の生活は、連鎖する技術的対応策のなかに閉じ込められていく。

    Technology has been creating new problems for society far more rapidly than it has been solving old ones.

    技術は、過去の問題を解決するよりもはるかに速く、新しい問題を社会に生み出してきた。

    Technical progress will lead to other new problems that cannot be predicted in advance.

    技術の進歩は、あらかじめ予測することのできない新たな問題を生むだろう。

    この技術連鎖は一方通行である。自由を後退させても、技術自体は決して後退しない。

    Technology repeatedly forces freedom to take a step back, but technology can never take a step back—short of the overthrow of the whole technological system.

    技術は自由を一歩後退させることを繰り返すが、技術自体は――システム全体を覆さない限り――決して後退することがない。

    たとえば、スマートフォンを例にとろう。「スマホを持たない」という選択は、形式的には可能である。だが、実際には日常生活や社会的参加からの排除を意味する。つまり、「選ばない自由」は制度的にも社会的にもほとんど存在していない。技術は導入された瞬間から社会構造を作り変え、拒否できる余地を急速に奪っていく。

    4

    カジンスキーは、このような現代社会において、政治的党派や制度的手段は根本的に無力であると断言する。その理由は明快だ。すべての党派が「テクノロジーを使って問題を解決する」という枠組みに閉じ込められているからである。

    つまり、右派も左派も、何を守るかは異なっていても、どう守るかにおいては等しく構造に従属している

    右派は道徳と秩序、左派は正義と平等を掲げるが、いずれもそれらの理念の実現手段として、技術的監視・管理・制度設計を当然視している。その時点で、彼らの抵抗は加速の一部に変わる

    さらにカジンスキーは、制度的な改革についても、構造に吸収される運命を免れないと指摘する。

    If a small change in a long-term trend appears to be permanent, it is only because the change acts in the direction in which the trend is already moving.

    長期的傾向の中で小さな変化が恒久的に見えるのは、それが既存の傾向の進行方向に沿って作用している場合に限られる。

    つまり、制度が変わったように見える時でさえ、それはすでに技術システムの内在的進行にとって都合のよい変更でしかない。

    そして何よりも決定的なのは、カジンスキーが自由と技術を同時に維持する社会設計は原理的に不可能であると述べている点である。

    Freedom and technological progress are incompatible.

    自由と技術的進歩は両立しない。

    Permanent changes in favor of freedom could be brought about only by persons prepared to accept radical, dangerous and unpredictable alteration of the entire system.

    自由のための恒久的な変化は、全体のシステムを根本的かつ危険で予測不可能な形で変更する覚悟を持った者にしかもたらされない。

    制度的改革は、本質的要素を破壊しない限り、システムの力を削ぐような根本的変化には至らない。

    結論として、制度、党派、改革、運動は、構造の“吸収力”に抗うことができない限り、真の拒否とはなりえない。

    であればこそ、カジンスキーは、制度の外部に出ること――すなわち、飛躍すること――すなわち個人的なテロルを唯一の道と見なしたのである。次の節でそれを確認しよう。

    5

    こうしてカジンスキーは、制度、党派、改革、言論すべてが構造の一部に取り込まれていると断じた。それらはいずれも、抵抗の形式を装いながら、最終的には加速する技術システムの維持と正当化に貢献してしまう

    では、残された手段はあるのか?

    彼がたどり着いたのは、「倫理的飛躍」としての拒否――制度によって吸収されない、個人的かつ実存的な否定の行為だった。

    この拒否の根拠は、体系だった理論ではなく、直観に基づく倫理的判断である。カジンスキーはそれを次のように述べている。

    In a discussion of this kind one must rely heavily on intuitive judgment, and that can sometimes be wrong.

    この種の議論では、直観的判断に大きく依存せざるを得ない。そしてそれは時に誤ることもある。

    彼にとって、「こうは生きられない」という確信は理論ではなく、直観として知覚される“倫理的な反発”であり、それゆえに、合理性の枠組みに回収されない行動の根拠となり得たのだ。

    だがこの感覚が行動に転化されるには、メディアも言論も機能しない世界において、どのような行動がテクノロジーに無毒化されない行動なのかという問いが生じる。

    To make an impression on society with words is therefore almost impossible for most individuals and small groups.

    言葉によって社会に影響を与えることは、ほとんどの個人や小集団にとって、ほぼ不可能である。

    そして結論する。ユナボマーが誕生する。

    In order to get our message before the public with some chance of making a lasting impression, we’ve had to kill people.

    我々のメッセージを公にして永続的な印象を残すには、人を殺さねばならなかった。

    ここでカジンスキーが語るのは、単なる衝動でも戦略でもない。社会のあらゆる回収構造を突破する“否定としての破壊”の選択である。

    それは、「届く可能性が残された唯一の行為」であり、制度の外部に身を置こうとする最後の跳躍=倫理的飛躍だった。

    6

    しかし、テロルは無意味だった。それはわかりきったことだ。あなたはこの文章をどうやって読んでいる? ここからは、カジンスキーのロジックの確認ではなく、確認した上での私の応答を書く。私が無意味だったと書くのは、カジンスキーの情勢分析が正しかった――正しすぎたことを前提としている。

    この構造は、あまりにも完成している。左右の党派も、制度改革も、オルタナティブな共同体も、最終的には、ヒステリーを起こした一人の数学者の犯罪と同じ地平にまで落ちていく

    なぜなら、この社会においては、「届かない」という点で、すべてが等価だからだ。暴力も、言葉も、希望も。制度の内側に吸収され、制度の外側には立てない。拒否も否定も、選択肢にない。つまり選択の余地はない。

    私は、冒頭でこう問いかけた。

    私たちは、テクノロジーと距離を取る自由を、まだ持っているのか?

    いまなら、答えられる。距離をとる自由は、ない。自由など、ない。誰も、触れることすらできない。

    つまり、私たちは今後も技術社会のフィードバックループの中で生きることになる。

    他人に出し抜かれないために。

    社会から排除されないために。

    それ自体が新たな問題を生み出すと知りながらも、

    テクノロジーを高い金を払って導入し、運用し、維持し続けなければならない。

    慎重は無能とみなされ、回避は敗北と同義となる。

    そしてその圧力は、個人にとどまらない。

    国家もまた、加速を強いられている。量子コンピュータの開発競争に敗れれば、暗号は破られ、情報は奪われる。半導体の製造能力や輸入能力を喪失すれば、軍事・医療・行政すら停止する。もはや安全保障とは、技術の獲得競争に他ならない。その遅れは、支配されることと同義なのだから。

    だから、我々は続けよう。馬車馬のように働き、自らの労働力の価値を下げるために、自費で最新の設備を導入し、日々その更新に追われる生活を続けよう。

    拒否は反逆とみなされ、沈黙すら怠慢として切り捨てられる。誰も逃げられない。どこにも外部はない。

    ようこそ、産業社会の未来へ。

    しかし、もしかすると、抵抗の方法はまだ残されているのかもしれない。新たな世代が、私たちの知らなかった方法で、別の出口を提示する可能性はゼロではない。

    だがそれは、おそらく――カジンスキーのような個人による暴力など、歴史の彼方に押しやってしまうような、もっと大きな規模の暴力だろう。それはもはや、このように公開される文書で記述できるようなものではないだろう。

  • プルードンとマルクスの思想の差異より世界の終わりについて想像するほうが容易い:映画『オッペンハイマー』

    プルードンとマルクスの思想の差異より世界の終わりについて想像するほうが容易い:映画『オッペンハイマー』

    Authored by 円原一夫

     クリストファー・ノーラン監督作品『オッペンハイマー』は、マンハッタン計画を強力に推進したロバート・オッペンハイマーの伝記映画である。『イミテーション・ゲーム』や『ビューティフル・マインド』、『ハンナ・アーレント』のように、学者を主人公にした映画は数多く存在するが、今後、誰かにそのような作品を薦める機会があれば、私は『イミテーション・ゲーム』とこの『オッペンハイマー』を薦めようと思う。伝記映画のカテゴリなら、さらに『マルコムX』を加え、文化人を主人公にした映画も含めるならば『カポーティ』も適しているだろう。

     私がこの映画を高く評価する理由は、この作品が「世界が終わった後の世界」を描いているからだ。そう、世界は既に終わっている。驚いたか? いや、あなたは驚いてなどいない。あなたは、世界が既に終わっていることを知っている。世界はもうどうにもならない。悪化することはあっても、良くなることは決してない。知っているだろ? 知らなかったのか? それでは、あなたは人生を丁寧に生きてきたとは言えないだろう。家を出て、五分もすれば、誰だってわかることだ。人類は今、終末後の世界を生きている。この映画は、オッペンハイマーという人間を通じて、その現実を描き出してしまったのだ。「描いてしまった」という表現は、それがノーラン監督の意図とは異なる可能性があることを示唆するために、そうした。しかし、意図など重要ではない。世界は既に終わっているのだから。

     劇中、オッペンハイマーは左翼の女性「ジーン」との会話の中でこう語る。

    「資本論は読んだ。三巻全部ね。長ったらしかった。こんな言葉があったな──所有は窃盗である」

     これに対し、彼女はこう返す。

    「財産」

    「財産?」

    「財産。所有じゃなくて」

     オッペンハイマーは続けて言う。

    「失礼、ドイツ語の原書で読んだから」

     史実のオッペンハイマーも多言語に秀で、複数の言語を使いこなしていた。この場面は、彼がドイツ語で講義を行う場面と同様に、その才能を示している。また、オッペンハイマーが共産主義に関心を持ち、カール・マルクスを原書で読むほどの関心と知識を有していたことを示す場面でもある。しかし同時に、この場面はオッペンハイマー、あるいはノーランの誤りをも示している。しかし、実はここに、この映画の全ての価値を左右する可能性の中心がある。

    「所有は窃盗である」というテーゼは、一般的にカール・マルクスではなくピエール=ジョゼフ・プルードンに帰せられるものであり、ここでは明らかにカール・マルクスとプルードンの混同が見られる。

     しかし、私はこの場面でジーンのように「財産」と「所有」の違いを指摘したいわけではないし、マルクスとプルードンの差異について語りたいわけではない。また、制作陣の社会主義や無政府主義、左翼思想に対する無知を批判するつもりもない。むしろ、逆である。この否定性が肯定されるとすれば、どのように肯定されうるのかを考えたいのである。それこそが、クリストファー・ノーランの意図を超えた、映画の可能性の中心だからである。

     この謎を解き明かすために、もう一つの場面を思い出してみよう。

     映画の終盤にオッペンハイマーとアインシュタインの会話が描かれる。かつてオッペンハイマーは、「核爆弾を炸裂させた場合に地球の空気全てが発火する可能性」についてアインシュタインに相談していた。もちろん、世界は滅亡しなかった(地球の空気全てが発火することなしに核実験は成功し、核爆弾が実用化された)。しかし、オッペンハイマーはアインシュタインに「我々は(世界の滅亡を)引き起こした」とアインシュタインに伝える。この言葉には、核兵器の実現によって世界は既に滅亡を先取りしてしまっているという彼の絶望が込められている。彼は無数の弾道ミサイルが発射されるイメージを幻視する。

     既に死刑が決まった死刑囚にとって残りの日々はただの消化試合である。これは比喩ではない。死刑囚の残りの日々は死刑を待つためにある。彼は更生可能性がないから死刑囚になったのだ。彼は死刑になるために、健康であること、自殺せずに生きることすら、義務である。核兵器の開発は、ちょうど世界を死刑囚にしたのである。世界は死刑の日をただ、待っているのだ。オッペンハイマーはそれを理解してしまった。世界の滅亡のビジョンを見ない者には、彼は戦前と戦後で主張の一貫性を失い、支離滅裂な言動をしているようにしか思えない。しかし、懲役囚と死刑囚とで、死生観が同じであることを期待するのは誤りである。

     マルクスも、プルードンも、その他のオルタナティブも、既に滅んだ世界には何の意味もないのではないかという問い。この映画の可能性の中心とはそれである。人類は一線を超えている。財産と所有、マルクスとプルードン、原本か邦訳か。そんなことに、今や何の意味があるというのか。死刑が確定したのだから。何もかもが無意味になる時は、既に。アポカリプス・ナウ。