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カテゴリー: ラディカルランドからこんにちは

  • 文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    Authored by 円原一夫

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    自己批判という言葉がかつてあった。日本の左翼は、その言葉を信じていた。だがそれはいつしか内ゲバと粛清へと変わり、外へ向かうはずの力を内側で燃やし尽くした。そして彼らは、敗北し、分裂し、瓦解し、その言葉も思想も、忘れ去られた。かつての左翼は環境運動などに亡命し、マルクスはエコロジーの文脈で語られることで、どうにか書店に平積みされている。

    自己批判が無意味だったのか。いや、むしろ──足りなかったのかもしれないとしたら、どうだろう? もしその刃を、もっと深く突き立てていたらどうか。組織でも路線でもなく、自分たちが当たり前のように依存していた、文明そのものに対して。産業、進歩、成長、人間中心主義という幻想。

    それを本当に行おうとして、文明を“誤り”と呼び、それごと終わらせようとする者たちがいる。

    Deep Green Resistance――。

    彼らは、もちろんアメリカの運動体なので、自己批判とは言わずに、根源的な自己批判を実行している。

    実に、不気味な連中だ。文明の崩壊を望んでいる。もしそれが起きれば、私も、あなたも、AIもスマートフォンも使えなくなる。だが、だからこそ、私たちが無力なのだとしたら? 労働組合が経営者に恐れられるのは、ストライキができるからだ。医療・介護の労働者がなめられているのは、ストライキができないからだ。

    では、もっと根源的になめられているとしたら? 文明そのものに、「お前らにはストライキなんかできない」と、そう思われているとしたら?

    クーラーが欲しいから。洗濯機が欲しいから。スマートフォンも、車も、インターネットも。それが欲しいから、文明には逆らえない。だから何も壊せない。だから、なめられている。誰がこの文明の経営者なのか──それは今、私は言わない。それを考えるのはまた別の人間だ。私はただ、こう言っておく。

    Deep Green Resistanceを見てみろ。

    自己批判を本当に徹底するとはどういうことか。文明にストライキするとは、どういうことか。

    言うなれば、この文章は自己批判ということの、論理的徹底の、一つの帰結のサンプルの分析とその結果である。

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    今日、環境運動は数多くある。ペンキを美術館に投げつける者。街を封鎖し、政府に気候政策を迫る者。グレタ・トゥーンベリのように、世界中でメッセージを発信する者。

    だが、それらの運動が注目されるようになる以前、2011年にすでに、より過激で、より静かな運動体がいた。

    Deep Green Resistance(DGR)。公式ホームページ

    地球を守るために文明を終わらせようとする運動体である。

    産業文明そのものを終わらせること──それが彼らの目標である。

    DGRの公式サイトには、さまざまな表向きの活動が紹介されている。オンラインや対面での講座、環境保護キャンペーン、フェミニズムやエコ哲学の理論構築、地域生態系の学習支援。
    「抵抗の文化」を育てる活動としては、ごく常識的な範囲にも見える。

    YouTubeチャンネルの登録を促し、メーリングリストを配信し、著作の図書館への推薦を呼びかける。販売しているTシャツやパーカーは意外に可愛らしい。

    年次カンファレンス(Annual Conference)は、公式ホームページのポスターによると戦略や思想を語り合い、焚き火を囲んで詩を朗読するとのことである。自然の中で暮らしを語り直す、どこか牧歌的な空気すらただよう。そして、自らの思想書を“other radical titles”と呼び、図書館や書店に置かせようとする。自分たちの思想を公共空間に浸透させようとする。

    だが、同じ公式サイトに、別の層がある。

    DGRは明言する。「抵抗運動の各部門は連携しなければならない」と。

    “The different branches of a resistance movement must work in tandem: the aboveground and belowground, the militants and the nonviolent, the frontline activists and the cultural workers.”
    —— Deep Green Resistance, About Us

    地上と地下、武闘派と非暴力、前線の活動家と文化的労働者。
    それらは分断されるべきではない。すべてが連動してこそ、抵抗運動は成り立つ。

    さらにDGRニュースサービスには、「Underground Action Calendar」という特異なページが存在する(DGR News Service)。

    そこでは、世界各地で行われた環境インフラへのサボタージュ行動が記録されている。GMO作物の破壊、パイプライン、変電所、送電網への攻撃など。

    DGR本体は「これらを必ずしも支持するものではない」と記すが、同時にこう書いている。

    “The Underground Action Calendar exists to publicize and normalize the use of militant and underground tactics in the fight for justice and sustainability.”

    訳するとすれば、こうである。

    The Underground Action Calendar exists to
    「地下アクション・カレンダーは、~するために存在している」

    publicize
    「 公にする、広く伝える」

    and normalize
    「正常なものと見なす、一般化する、日常化する」

    the use of militant and underground tactics
    「戦闘的(militant)かつ地下的(underground)な戦術の使用」

    in the fight for justice and sustainability
    「正義と持続可能性のための闘争において」

    すなわち、“正義と持続可能性のために、戦闘的で地下的な戦術を公開し、正当化する”。

    以上は、Deep Green Resistanceという運動体の思想的な二重構造=地上と地下の戦略的分業を物語っている。

    地上活動(aboveground)と地下活動(underground)という“二重戦略”。

    地上では教育や啓発を行い、地下では直接行動や破壊活動を担う。

    DGRはこの区分を明確に意識しており、FAQページでは次のように説明されている:

    “In DGR we use these terms to distinguish between different parts of a movement. ‘Aboveground’ refers to those parts of a resistance movement which work in the open and operate more-or-less within the boundaries of the laws of the state. This means that aboveground activism and resistance is usually limited to nonviolence. DGR is an aboveground organization; we are public and don’t try to hide who we are or what we desire, because openness and broad membership is what makes aboveground organizations effective.”
    Deep Green Resistance, FAQ

    すなわち、DGR自身はあくまで“地上の非暴力的な公開組織”であることを繰り返し強調している。

    しかしその一方で、地下活動とは何かについても、明瞭に定義している:

    “‘Underground’ or ‘belowground’ refers to those parts of a resistance movement which operate in secret… Generally, these groups use more militant or violent tactics like property destruction and sabotage to achieve their goals.”
    — 同上

    DGRはこうした地下組織に関わらないと明言しつつ、その存在と機能を否定していない。

    “DGR is strictly an aboveground organization. We will not answer questions regarding anyone’s personal desire to be in or form an underground… We do this for the security of everyone involved with Deep Green Resistance.”
    — 同上

    すなわち、違法行為を推奨しないとしつつも、「誰かがやらねばならない」と黙示する。

    Underground Action Calendarまで用意して、それを「日常の抵抗戦術」として記録・共有している。

    これはもはや否定ではなく、別の形式による肯定と見るべきだろう。

    地上の活動だけでは足りないという認識。誰かが、インフラを、構造を、文化を破壊しなければならないという認識。そこにあるのは、文明の自壊を志向するほどの自己批判である。

    その深さは、ある一節に凝縮されている。

    “The authors of this book are not blithely asking who will die.
    In at least one of our cases, the answer is ‘I will.’
    I have Crohn’s disease, and I am reliant for my life on high tech medicines.
    Without these medicines, I will die.
    But my individual life is not what matters.
    The survival of the planet is more important than the life of any single human being, including my own.”
    — Deep Green Resistance, FAQs

    クローン病という、現代医療に支えられて生きている人間が、それでも文明の崩壊を肯定する。

    「自分の命が絶たれる未来を予測しつつ、なお文明の終焉を求める」

    もちろん、著者が実際にクローン病であるかどうか、文明が崩壊したときに本当に命を差し出すのか──それは検証のしようがない。だが重要なのは、「文明を崩壊させろと言うが病気の人はどうするのか?」という問いに、こう答える世界観があるという事実だ。

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    DGRが共有しているこのような世界観は、どのような内的構造に支えられているのだろうか?

    その鍵となるのが、DGRの共同創設者Derrick Jensenによる著書『Endgame, Volume I: The Problem of Civilization』(2006)に提示された「20の前提(20 Premises)」である。


    1|文明は持続可能ではなく、暴力に依存している

    “Civilization is not and can never be sustainable.”
    — Premise One
    出典:DGR Seattle支部著者公式サイト

    第一の前提でJensenは断言する。文明は持続可能ではない。文明は、自然資源を消費し、環境を破壊し、他の文化を侵略することによってしか存続できないとされる。

    “Our way of living—industrial civilization—is based on, requires, and would collapse very quickly without persistent and widespread violence.”
    — Premise Three

    現代の生活そのものが、暴力に依存しているという主張。これは直接的な戦争に限らない。資源の採掘、水の汚染、動物の絶滅、植民地主義、気候崩壊。これらすべてが、見えづらい形で日常に組み込まれている。


    2|この文明は変わらない。ならば止めるしかない

    “This culture will not undergo any sort of voluntary transformation to a sane and sustainable way of living.”
    — Premise Six

    この文明は、自発的に正気や持続可能性の方向へ進まない。小手先のエコ活動や政策修正では、システム全体の暴力性は残り続ける。

    “The longer we wait for civilization to crash—or the longer we wait before we ourselves bring it down—the messier will be the crash…”
    — Premise Seven

    だから彼らは語る。待つのではなく、終わらせた方が傷が浅くて済む。これが、DGRの思想の根幹にあるロジックだ。


    3|「愛」があるなら、破壊を否定しない

    “Love does not imply pacifism.”
    — Premise Fifteen

    愛は非暴力を意味しない。むしろ、真に愛しているなら、破壊という選択肢をも取らねばならない時がある。この前提は、従来の倫理体系を反転させる。

    「優しさ」や「平和」といった語が、本当に守るべきものを守っていないとき、その語の意味そのものが、疑われるべきだと彼らは言う。

    『Endgame』の20の前提は、単なる問題提起ではない。
    それは、“人類が常識としてきたものすべて”を再審査させるための爆薬である。

    • 文明は善なのか?
    • 進歩は進歩なのか?
    • 成長は誰のためなのか?
    • 自然は、誰かに従属すべき存在なのか?

    DGRの思想はここから始まり、現実の行動(教育、地下戦略、サボタージュの肯定)へと展開していく。

    彼らの自己批判は、もはや自分たちの組織や文化を対象にするものではない。文明という“全体”に向けられた、徹底的な否定の形式である。彼らは、産業文明に対する不満を言っているのではない。それを支える世界観そのものに対して、“やめよう”と言っている暴力の連鎖、依存の連鎖、そして希望の連鎖すらも、断ち切ろうとしている。

    これが徹底的された自己批判が到達した、冷静な絶望である。

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    以上が、文明の自壊を志向するほどの自己批判のロジックである。私たちはそれを、DGRというサンプルを通して確認した。

    彼らのロジックは、よくできている。

    しかし反論は簡単なはずだ。

    人類は進歩している。テクノロジーの発展で、病気も減った。
    生活は豊かになり、寿命も延びている。産業革命からの数百年で、私たちは世界を変え、自然を克服し、より自由で、より素晴らしい社会を築いてきた。

    過ちもあるが、それでも前に進んでいる。まだ道半ばだが、少しずつ良くなっている。──そう言えばいいだけの話だ。

    だが、それが私には、どうにも言えない。喉まで出かかったその言葉が、なぜか口をついて出てこない。

    ちょうど、純粋な革命主体を求めて物理的な暴力すら用いた自己批判を続ける同志に、何も言えなかった左翼の活動家たちのようなものであるか?

    純粋さに棹さす言葉が出てこない。

    それでもあえて、反論してみせようか? 左翼の小グループの活動家の一人ではなく、文明が自己批判を要求されているのだから。私が庇ってやるべきではないか?

    こんな反論はどうだ?

    希望がある。計画がある。

    国連は、2030年までに貧困と飢餓をゼロにすると決めた。気候変動も、生物多様性の崩壊も、ジェンダー不平等も、克服する予定だ。

    もちろん今は少し遅れている。貧困は増え、飢餓は広がり、気温は上昇し続けている。だが、それはただの一時的な乱れにすぎない。むしろそれは、計画の柔軟性と人類の挑戦心を示している。

    我々はどんな困難にも打ち勝てる。

    国連には、世界中の優秀な頭脳が集まっている。わが国も、多額の資金を拠出しているではないか。彼らが、ちゃんと考えてくれている。そうに違いない。そうでなければ、何故、金を出す必要がある?

    データが遅れているだけで、現実はきっともっと良くなっている。

    それに、私たちにはテクノロジーがある。ドローンで植林し、AIが配給を管理し、再生可能エネルギーが世界を救う。

    すべてはうまくいく。

    明日は今日よりも、絶対に良い。SNSで誰かがそう言っていた。結構なことじゃないか。

    Good luck、人類。未来には希望しかない。おめでとう。

  • 宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    Authored by 円原一夫

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    「宇宙人は共産主義者である。そして彼らは、すでに来ている。」

    この言葉は、アルゼンチンの革命家フアン・ポサダス(1912–1981)の思想を象徴するものとして知られている。第四インターナショナルの分派「ポサダス派」を率いた彼は、ラテンアメリカ各地で革命運動に関与し、トロツキスト理論の普及に努めた。だが今日では、彼の名はしばしば奇矯なイメージと共に語られる。

    1968年に発表された論文『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』において、ポサダスは次のように述べている。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    宇宙人は来ている――だが、それは、ただの空想やロマンではない。ポサダスにとってそれは、ある必然的な論理の帰結だった。そして、その論理が今や奇矯にしか見えないというところに、この地球が絶望の星である理由がある。

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    ポサダスにとって、共産主義とは単なる理想ではない。 それは歴史の必然であり、理性の帰結である。ところが、彼が生きた現実の地球にはそのような理性がどこにも見出せなかった。

    労働者国家は堕落し、左派は分裂し、社会主義は資本の網の中で失われつつあった。 そして今日においても、社会を変える力は制度と想像力の両面から封じ込められたままだ。

    だとすれば――理性は実在しないのか? それを否定することは、共産主義のみならず人間の理性的可能性そのものを否定することになる。

    ポサダスはこう述べている。

    We accept that extra-terrestrial beings exist, as a conclusion of dialectical thought. This gives us confidence that we can master no matter what other phenomena that exist, without being caught off-guard.

    ポサダスにとってこれは、信仰ではない。理性を擁護するための、理性自身による“跳躍”だった。その跳躍の先にあるのが、宇宙人は存在する、そして彼らはすでに「来ている」という確信だった。

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    ポサダスは、宇宙人が観察者として来ており、地球のようなくだらない星の矛盾に巻き込まれていないことを何度も強調している。

    They have shown no interest in attacking, violating, stealing, possessing: they have come to observe.

    そして、彼らが非暴力的かつ穏やかな存在であることを、目撃者たちの証言から導いている。

    All the people who say that they have seen them, say that none of them were of an aggressive disposition or inspired fear in them.

    このような素晴らしい存在が地球を訪れているという仮説は、ポサダスにとって、地球外に、つまり世界に理性的な社会秩序が存在しているという思想的確信を支えるものだった。

    だからこれは当然のことながら、他方では恒星間飛行を実現していないような「地球人批判」でもある。ちょうど北欧のデモクラシーを例にあげて、その欠如としての日本のデモクラシーを批判的に検証するようなロジックと同じである。彼は、地球社会の支配階級が科学や知識を利潤や権力のために制限していることを批判し、次のように述べている。

    What does that give him? Power over others? And what then? … It does not give him any capacity to raise and develop his intelligence. On the contrary, it limits it.

    ここで言う「それ」とは、工場や軍事的地位などの財産・権力を指している。ポサダスは、富や権力が知性の発展を阻害していると主張する。恒星間飛行を実現し、穏やかに地球を見守る共産主義の宇宙人との、なんという差であろうか?

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    現代において、ポサダスの名前はミームの一部として再浮上している。「UFOを信じたトロツキスト」「宇宙人は共産主義者」「核戦争を肯定したマルクス主義者」といったラベルが、RedditのスレッドやTシャツ、ステッカー、ファンアートの中で再生産されている。

    だが、それは決して真面目な再評価ではない。 それは笑いであり、そしてしばしば不安に対する防衛反応である。ジョークというのは、しばしば恐怖に対する反応なのだ。

    つまり我々は、理性のないこの地球、そして理性のないこの銀河に住んでいることを、おそらく無意識のうちに理解している。そしてそれを直視するかわりに、「宇宙人なんているわけがない」と笑ってやり過ごすのだ。笑いの中にあるのは、理性の敗北を受け入れるという諦念である。

    我々が彼を笑えるのは、理性の実現をどこにも、銀河の果てまで探そうとも見出さないという社会的合意との差においてなのだ。

    ポサダスはこう述べた。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    これは、未来への希望ではなく、地上の理性の不在を埋め合わせようとする必死の跳躍だった。

    理性が地球にないのなら、せめてどこかにはあるはずだ——そして来ていてほしい。 そうでなければ、我々の惨状には終わりがない。理想社会、彼の言葉で言えば共産主義は実現不可能なものになる。

    だが、もし我々が彼をただの冗談として処理してしまうならば、それはこう言っているに等しい。

    「理性は、銀河のどこにもない。ポサダスが描いた地球の惨状は、永遠に続く」

    そしてそのとき、地球人にとってもっとも悲惨な結論が訪れる。

    ポサダスはやはり、完璧に間違っていた思想家だったのだ。


    参考文献

    J. Posadas, Flying Saucers, the Process of Matter and Energy, Science, the Revolutionary and Working-Class Struggle and the Socialist Future of Mankind, June 1968.
    https://www.marxists.org/archive/posadas/1968/06/flyingsaucers.html

  • 獅子のように立ち上がれ:デヴィッド・アイク

    獅子のように立ち上がれ:デヴィッド・アイク

    Authored by 円原一夫

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    「レプティリアン」という言葉を聞いたとき、多くの人は反射的に笑ってしまうかもしれない。爬虫類型の異星人が人類に擬態し、王族や政治家、巨大企業の経営者になりすまして世界を支配している——そんな話は、荒唐無稽な都市伝説にしか聞こえないだろう。

    しかし、こうした物語が広く流布し、時には真剣に信じられているという事実は、単なる妄想や騙されやすさだけでは説明できない。それはむしろ、現代において「社会について語ること」それ自体が困難になっている、という事態の表れではないか。そして、困難であるがゆえに、レプティリアンのような極端で滑稽な語りが、ある種の必要性を帯びて現れてくるのではないか。

    本稿で扱うのは、陰謀論そのものの真偽ではない。むしろ、問いたいのはこうだ——なぜ人は、レプティリアンのような“象徴”を必要とするのか?

    この問いを出発点として、本稿は「全体社会を記述する」という問題系と、いわゆる「陰謀論的言説」の構造的役割とを接続しようとするものである。

    人類を支配する見えざる構造の象徴として、そしてその支配から「目覚める」ための裂け目として、レプティリアンは語られる。つまりレプティリアンとは、社会の全体性を語るために必要とされた装置なのだ。

    その装置を発明したのが、デヴィッド・アイクである。もちろん、人口に膾炙する別の装置を用いることも可能だったはずだ。たとえば、「資本主義」や「多国籍企業」、「新自由主義」、「超自我」や「アルゴリズム」――いずれも社会の力を象徴する“敵”として通用する記号である。

    だが、アイクはそれらではなく、レプティリアンを選んだ。いや、選ばざるをえなかった。彼にとってはそれが、語りを可能にするための“本気の外部”だった。

    滑稽な語り。そのなかに潜む倫理。

    本稿の主題はそこにある。

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    社会について語るという行為は、表面的には単純な営みのように見える。だが、そこに本気で踏み込もうとするなら、すぐにひとつの矛盾に突き当たる。すなわち、「社会を批判する」という行為は、その語り手が社会の“外部”に立っていることを前提とするにもかかわらず、語り手自身もまた、まさにその社会の内部にいるという事実である。

    近代以降の思想は、この構造的な矛盾に様々なグランドセオリーで挑んできた。マルクス主義では、言語や意識を含む上部構造は経済的な下部構造に従属している云々。フロイト的視点では、主体の行動や語りは無意識に支配されており、自律的とは言いがたい云々。あるいはフーコー以降の権力論では、主体そのものが社会的な力学の産物として構築されている云々。

    しかし、このように、どの理論的枠組みに立とうとも、語る主体は社会の構造の中に組み込まれており、真に“外部”から語ることは不可能である。理論的枠組みそのものを理論的枠組みの射程に入れることは基本的に捨象されてきた。にもかかわらず、知識人――いや、私たちは日常的に社会を語り、批判し、分析する。そこでは常に、存在しない“外部”に立っているかのように語るという演技が必要とされる。

    演技。そう、演技だ。その演技を成立させるために用いられるのが、「敵」という装置である。語り手は、社会のなかの特定の勢力や構造を“敵”として設定することで、あたかもその敵から自由であるかのように、自らの語りの立場を仮構する。資本家、官僚、国家、アルゴリズム、メディア、父権、新自由主義、そして技術システム——それらは、語り手が“巻き込まれていない者”として語るために必要な“外部の代理”として機能する。

    敵は、単に語りの対象であるだけでなく、語りを可能にする条件でもある。構造の全体を象徴化し、それに抗する主体を位置づけるために、敵は“発明されねばならない”。この構造において、語りとはつねに「私だけはそれに気づいている」という前提の上に成り立っている。気づいた者として、語り手は構造を超越しているかのように振る舞うことができる。そうでなければ、語る資格がないことになるからだ。

    デヴィッド・アイクの語りにおけるレプティリアンは、この構造を極端なかたちで体現している。彼にとって、象徴としての敵では不十分だった。「資本とは自己増殖する価値の運動体である」。こんな敵では不十分だったのだ。彼は、文字通り「社会の外部」から来た存在として、レプティリアンを設定した。比喩ではなく、実在する異形の存在として。

    それによってアイクの語りは、「外からの告発」として遂行される。レプティリアンが物理的に“外部にいる者”であることによって、彼の語りは、その立場を保証することができるのだ。それも、強力に。

    この一見すると滑稽な構造のなかに、むしろ語りの成り立ちの深層が露呈している。社会の構造を記述し、批判するという営為は、常に自らの語りの位置を「演出」することによって成り立っている。レプティリアンは、その演出をあらかさまなかたちで遂行した、過剰で露骨な装置である。

    だが、過剰であるからこそ、そこにこそ語りの構造がむき出しになる。だから、我々は我々の社会を支配する力が「自己増殖する価値の運動体」であるとインテリが言う時には黙っているが、レプティリアンが社会を支配しているという時には、爆笑するのである。

    つまりレプティリアンとは、社会の全体性を語るために必要とされた“外部の形象”であり、同時に、その語りの(困難さがゆえに必然的に生じる)滑稽さを引き受けた者の誠実さの徴でもある。

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    では、レプティリアンはどのように語りを成立させているのか。

    デヴィッド・アイクの語りにおいて、レプティリアンは単なる“敵役”ではない。むしろ彼らは、語りの構造を成立させるために必要な、象徴的な条件である。語り手が「社会の全体構造」を把握し、それに対して語るためには、その全体をひとつの像として集約し、象徴化する必要がある。

    現代社会を構成する諸要素――経済、政治、制度、メディア、テクノロジー、無意識など――は、あまりに複雑で拡散的であり、それらをひとつの視点から語ることは困難である。語りが成立するには、こうした複雑な力の網を一つの核に“収束”させる必要がある。レプティリアンは、その象徴的な核として機能している。

    彼らは、社会を覆う見えざる支配構造を「人格化された外部」として引き受けることによって、語り手がそれを“語りうる対象”として扱うことを可能にする。つまり、語りが成立するためには、語られるべき社会が一度“敵”として整理されなければならないのである。

    だが、それだけでは語りは閉じた構造に終わってしまう。語りが語りであるためには、単に「構造を明らかにする」だけでなく、そこに抗い得る可能性、あるいは脱出可能な裂け目を示す必要がある。例えば「自己増殖する価値の運動体」の力について論じる気鋭のマルクス学者の言説は「自己増殖する価値の運動体」の影響下にはない云々。

    レプティリアンの重要な特徴は、まさにそこにある。彼らは、完全に見えない支配者ではない。むしろ、「気づくこと」が可能な存在として語られる。アイクの語りでは、人々がレプティリアンの存在に“気づく”ことで、初めて支配から目覚めることができるとされている。すなわち、レプティリアンは全体構造の象徴であると同時に、その構造を突破するための“裂け目”でもある。

    この両義性――全体性の象徴化と、そこからの脱出可能性の保証――を担っていることにおいて、レプティリアンは語りの装置として非常に高機能である。彼らは、支配構造の「像」でありながら、それを乗り越える契機でもある。語り手は、彼らに「気づいた者」として、構造の外側に立って語ることができる。レプティリアンという装置は、語り手の位置と語りの駆動力の両方を同時に提供しているのである。アイクの著作の自己啓発的側面はここに由来している。お望みなら、陰謀論の自己啓発的側面はここに由来していると、あなたは言ってもよい。

    レプティリアンとは、語りの論理に従った結果として出現した象徴である。言い換えれば、社会を語ることが困難になった時代において、語りを成立させるためにどうしても必要になってしまった装置なのである。滑稽で過剰で、荒唐無稽であるように見えるその語りのなかに、実は現代の語りが抱える構造的な問題のすべてが凝縮されている。

    そして、アイクはこの装置を、象徴としてではなく“現実”として信じてしまった。いや、語るためには信じるしかなかったのだ。だからこそレプティリアンは、社会を語ることを不可能にする力ではなく、むしろ語ることを可能にするために発明された、誠実なフィクションだったのである。

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    語ることが困難になった時代において、それでも語ろうとする者は、しばしば過剰に見える。過剰であること、滑稽であること、異様であること――それは、もはや語りそのものが成立しがたい状況において、それでも語るために必要な“強度”の現れである。

    現代の知識人の多くは、この困難を巧みに回避する。彼らは、自らの語りが構造の内部で成立していることを知りつつも、それを直接には引き受けず、皮肉や留保、相対化の技法によって語ることを可能にしている。語るとは言っても、あくまで“語りすぎない”ことを倫理とする態度。どこか冷静で、どこか距離をとっている。それが、語ることに対するひとつの処世術であり、生き残りの戦略でもある。

    例えば、もはや私がここまで散々言及してきたようなマルクス主義やフロイト理論のようなグランドセオリーを、明示的に利用するような知識人は稀である。言及せずに利用するか、あるいは、今の流行りは全体の理論なき連辞符の社会学である。

    だが、デヴィッド・アイクはその道を選ばなかった。彼は、語りの構造に自覚的でありながら、それを回避する術を持たず、あるいは拒絶し、語ることそのものに身を投じていった。

    アイクの語りには、皮肉も留保もない。彼は比喩として語っているのではない。彼にとってレプティリアンは、単なる象徴ではなく、本当に存在する支配者たちなのである。つまり彼は、「語りの構造を徹底的に遂行した結果として、信じてしまった者」だった。

    その語りは、もちろん暴走する。過剰であり、破綻寸前であり、論理としても破綻しているように見える。学問的意義もないとされているし、Googleでは検索から排除されている。だが、その過剰さは、何かを信じようとした語りの衝動の副産物である。

    語らずにはいられないという衝動。構造の中に巻き込まれながら、それでも語らなければならないという切迫。アイクの語りは、語ることを手放さなかった者の姿として、ひとつの極北に位置している。

    レプティリアンは、あまりに荒唐無稽な象徴である。だがその幼稚さ、神話的な誇張、世界観の大仰さは、語りを可能にするための“必要な滑稽さ”でもある。社会を語ることができなくなった時代において、語るためには、ここまで逸脱しなければならなかった――その逸脱の軌跡として、アイクの語りは存在している。

    私たちは多くの場合、語りの中に自分の安全地帯を確保し、語りすぎないことを知恵とみなしている。構造に巻き込まれたまま、巻き込まれていないふりをして語る。それもまた一つの生き方であり、知的な生存戦略だろう。

    だが、アイクは語ることを引き受けた。処世術を選ばず、構造の外部を、物理的な意味で設定するという荒技を用いてまで語ろうとした。

    滑稽さとは、そうした語りの誠実さが、構造の中で浮いてしまった結果として現れるものなのかもしれない。彼の語りが笑われるとき、その笑いのなかに、語ることそれ自体の倫理的な負荷が見え隠れしている。

    5

    レプティリアンという存在は、荒唐無稽で、過剰で、滑稽ですらある。だが、それでもなお、彼らは語りを成立させるために必要とされた。複雑に絡み合った社会の力学をひとつの像に象徴化し、同時に、そこから「目覚める」ための裂け目を提供する。レプティリアンは、語り手が全体構造を把握し、語るために“発明されねばならなかった装置”である。

    デヴィッド・アイクは、それを信じてしまった。いや、信じずには語れなかった。彼は、語りの構造に留保や皮肉を差し挟むことなく、「外部に立っている者」として語りきった。現代の語り手たちが皮肉と相対化で“安全地帯”を確保する一方で、彼は真正面から語り、過剰なまでに“信じた”。だからこそ、その語りは滑稽であり、破綻しているようにすら見える。

    しかし、その滑稽さは、語ることをあきらめなかった者の証でもある。語る資格を喪失した時代において、語ることそれ自体がすでに倫理的な選択となっている。皮肉ること、黙ること、笑うこと――それが賢明とされるこの時代に、語るという行為はすでにリスクであり、愚かさであり、孤立を意味する。

    では、アイクを笑うことは正当か? 彼の語りを滑稽だと笑う私たちは、本当に語ることができているのか? 冷笑と相対化の彼方で、語り手としての資格を私たちは保持しているのだろうか?

    レプティリアンという象徴は、そのような問いを私たち自身に突きつけている。それは語りの装置であり、信仰の対象であり、同時に、語ることの不可能性に抗おうとする最後の賭けでもあったのだ。

    だからこそ、この語りをただの冗談や妄想として処理するのではなく、いま一度、誠実に聴きなおすことが求められているのではないか。滑稽な語りのなかに、真剣に語ろうとする者の最後の姿が、かすかに立ち現れているのだから。あるいは獅子のような野蛮さ。

    そして私は、もはやアイクのような野蛮さなしにはもう誰も何も語れないと語っているのだが、この論考はこれで終わりである。

  • 社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    Authored by 円原一夫

    1

    スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。

    アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべてオンラインで完結する。行政手続きも、就職活動も、銀行や保険の管理も、SNSを介した人間関係ですら、通信端末の所有を前提としている。それを持たない者は、もはや「社会に適応していない」とみなされる。

    テクノロジーを「使う自由」は、いつのまにか「使わないことができない不自由」へと変質している。

    では、私たちには、そこから距離をとる自由が残されているのだろうか。テクノロジーを拒否する選択、あるいはそれを選ばない生き方は、まだ可能なのか。

    この問いに対し、ある人物の名前を思い出さずにはいられない。

    ユナボマー――セオドア・カジンスキー。

    アメリカを震撼させた連続爆弾事件の犯人。そして、「産業社会とその未来」と題された長大な犯行声明において、現代文明の構造そのものを激しく批判した思想犯。

    彼は、文明批判の名のもとに一連のテロを実行し、その動機と思想についての文章を、長大な「犯行声明」として、1995年にワシントン・ポスト紙上に掲載させていた。

    “Unabomber’s Manifesto” in the Washington Post

    本稿ではこの「犯行声明」を読む。

    彼が何を見て、何を拒絶しようとしたのか。なぜ彼は言葉ではなく、行動を選んだのか。それを理解することは、彼を肯定することではない。むしろ、それを通して、我々がいまどこに立っているのかを確認することに他ならない。

    彼の行動は、当然ながら、単にくだらない連続殺人である。肯定するつもりはない。むしろ私はこの論考で根源的に否定するつもりである。

    だが、いま私たちが生きているこの状況――生成AIが日常化し、すべてがデジタルに変換され、オフラインであることがほとんど不可能になったこの環境――その全体像を見通すためには、カジンスキーという極北にまで踏み込んだ抵抗のかたちを、一度は検証しなければならないのではないか。

    なぜなら、彼の予測は、今となってはあまりに的中してしまっているからだ。

    そしてそれゆえに、彼のテロルは何も変えられなかったのだということを論証する。それが根源的に否定するということの意味であり、それが、私たちの現在である。私たちは森の隠者となった天才数学者以上の絶望をたっぷりと味わう。世界の終わりに備える。

    2

    カジンスキーにとって、現代社会とは単に便利で高度な産業社会ではない。それは、人間の自由意志を次第に奪い、自律的な判断や生活を不可能にしていく「システム」である。そのシステムとは、国家でも資本でも宗教でもなく、テクノロジーそれ自体である。

    このシステムの本質は、人間の行動や欲求を満たすために存在するのではなく、人間の行動のほうがシステムに適応させられていくという構造にある。

    The system does not and cannot exist to satisfy human needs. Instead, it is human behavior that has to be modified to fit the needs of the system.


    このシステムは人間のニーズを満たすために存在しているのではない。むしろ、人間の行動こそがシステムのニーズに合うよう変更されねばならないのだ。

    3

    しかも、この産業-技術システムはすでに、人間の意思決定を超えて、自己増殖的に拡張する構造となっている。この「システム」とは、単なる政府や企業のネットワークではない。それは、社会制度が相互に依存し、止まることなく自己強化を繰り返す構造体――フィードバックループそのものを指す。

    新しい技術が登場すると、人々はその「便利さ」のためにそれを受け入れる。やがて社会制度そのものがその技術を前提に再構築され、もはやその技術なしでは生きられない状態が生まれる。

    さらに、その技術は新たな問題(副作用・格差・リスク)を生み出す。すると今度は、それに対処するためのさらなる技術的手段が求められる。こうして人間の生活は、連鎖する技術的対応策のなかに閉じ込められていく。

    Technology has been creating new problems for society far more rapidly than it has been solving old ones.

    技術は、過去の問題を解決するよりもはるかに速く、新しい問題を社会に生み出してきた。

    Technical progress will lead to other new problems that cannot be predicted in advance.

    技術の進歩は、あらかじめ予測することのできない新たな問題を生むだろう。

    この技術連鎖は一方通行である。自由を後退させても、技術自体は決して後退しない。

    Technology repeatedly forces freedom to take a step back, but technology can never take a step back—short of the overthrow of the whole technological system.


    技術は自由を一歩後退させることを繰り返すが、技術自体は――システム全体を覆さない限り――決して後退することがない。

    たとえば、スマートフォンを例にとろう。「スマホを持たない」という選択は、形式的には可能である。だが、実際には日常生活や社会的参加からの排除を意味する。つまり、「選ばない自由」は制度的にも社会的にもほとんど存在していない。技術は導入された瞬間から社会構造を作り変え、拒否できる余地を急速に奪っていく。

    4

    カジンスキーは、このような現代社会において、政治的党派や制度的手段は根本的に無力であると断言する。その理由は明快だ。すべての党派が「テクノロジーを使って問題を解決する」という枠組みに閉じ込められているからである。

    つまり、右派も左派も、何を守るかは異なっていても、どう守るかにおいては等しく構造に従属している

    右派は道徳と秩序、左派は正義と平等を掲げるが、いずれもそれらの理念の実現手段として、技術的監視・管理・制度設計を当然視している。その時点で、彼らの抵抗は加速の一部に変わる

    さらにカジンスキーは、制度的な改革についても、構造に吸収される運命を免れないと指摘する。

    If a small change in a long-term trend appears to be permanent, it is only because the change acts in the direction in which the trend is already moving.

    長期的傾向の中で小さな変化が恒久的に見えるのは、それが既存の傾向の進行方向に沿って作用している場合に限られる。

    つまり、制度が変わったように見える時でさえ、それはすでに技術システムの内在的進行にとって都合のよい変更でしかない。

    そして何よりも決定的なのは、カジンスキーが自由と技術を同時に維持する社会設計は原理的に不可能であると述べている点である。

    Freedom and technological progress are incompatible.

    自由と技術的進歩は両立しない。

    Permanent changes in favor of freedom could be brought about only by persons prepared to accept radical, dangerous and unpredictable alteration of the entire system.

    自由のための恒久的な変化は、全体のシステムを根本的かつ危険で予測不可能な形で変更する覚悟を持った者にしかもたらされない。

    制度的改革は、本質的要素を破壊しない限り、システムの力を削ぐような根本的変化には至らない。

    結論として、制度、党派、改革、運動は、構造の“吸収力”に抗うことができない限り、真の拒否とはなりえない。

    であればこそ、カジンスキーは、制度の外部に出ること――すなわち、飛躍すること――すなわち個人的なテロルを唯一の道と見なしたのである。次の節でそれを確認しよう。

    5

    こうしてカジンスキーは、制度、党派、改革、言論すべてが構造の一部に取り込まれていると断じた。それらはいずれも、抵抗の形式を装いながら、最終的には加速する技術システムの維持と正当化に貢献してしまう

    では、残された手段はあるのか?

    彼がたどり着いたのは、「倫理的飛躍」としての拒否――制度によって吸収されない、個人的かつ実存的な否定の行為だった。

    この拒否の根拠は、体系だった理論ではなく、直観に基づく倫理的判断である。カジンスキーはそれを次のように述べている。

    In a discussion of this kind one must rely heavily on intuitive judgment, and that can sometimes be wrong.

    この種の議論では、直観的判断に大きく依存せざるを得ない。そしてそれは時に誤ることもある。

    彼にとって、「こうは生きられない」という確信は理論ではなく、直観として知覚される“倫理的な反発”であり、それゆえに、合理性の枠組みに回収されない行動の根拠となり得たのだ。

    だがこの感覚が行動に転化されるには、メディアも言論も機能しない世界において、どのような行動がテクノロジーに無毒化されない行動なのかという問いが生じる。

    To make an impression on society with words is therefore almost impossible for most individuals and small groups.

    言葉によって社会に影響を与えることは、ほとんどの個人や小集団にとって、ほぼ不可能である。

    そして結論する。ユナボマーが誕生する。

    In order to get our message before the public with some chance of making a lasting impression, we’ve had to kill people.

    我々のメッセージを公にして永続的な印象を残すには、人を殺さねばならなかった。

    ここでカジンスキーが語るのは、単なる衝動でも戦略でもない。社会のあらゆる回収構造を突破する“否定としての破壊”の選択である。

    それは、「届く可能性が残された唯一の行為」であり、制度の外部に身を置こうとする最後の跳躍=倫理的飛躍だった。

    6

    しかし、テロルは無意味だった。それはわかりきったことだ。あなたはこの文章をどうやって読んでいる? ここからは、カジンスキーのロジックの確認ではなく、確認した上での私の応答を書く。私が無意味だったと書くのは、カジンスキーの情勢分析が正しかった――正しすぎたことを前提としている。

    この構造は、あまりにも完成している。左右の党派も、制度改革も、オルタナティブな共同体も、最終的には、ヒステリーを起こした一人の数学者の犯罪と同じ地平にまで落ちていく

    なぜなら、この社会においては、「届かない」という点で、すべてが等価だからだ。暴力も、言葉も、希望も。制度の内側に吸収され、制度の外側には立てない。拒否も否定も、選択肢にない。つまり選択の余地はない。

    私は、冒頭でこう問いかけた。

    私たちは、テクノロジーと距離を取る自由を、まだ持っているのか?

    いまなら、答えられる。距離をとる自由は、ない。自由など、ない。誰も、触れることすらできない。

    つまり、私たちは今後も技術社会のフィードバックループの中で生きることになる。

    他人に出し抜かれないために。

    社会から排除されないために。

    それ自体が新たな問題を生み出すと知りながらも、

    テクノロジーを高い金を払って導入し、運用し、維持し続けなければならない。

    慎重は無能とみなされ、回避は敗北と同義となる。

    そしてその圧力は、個人にとどまらない。

    国家もまた、加速を強いられている。量子コンピュータの開発競争に敗れれば、暗号は破られ、情報は奪われる。半導体の製造能力や輸入能力を喪失すれば、軍事・医療・行政すら停止する。もはや安全保障とは、技術の獲得競争に他ならない。その遅れは、支配されることと同義なのだから。

    だから、我々は続けよう。馬車馬のように働き、自らの労働力の価値を下げるために、自費で最新の設備を導入し、日々その更新に追われる生活を続けよう。

    拒否は反逆とみなされ、沈黙すら怠慢として切り捨てられる。誰も逃げられない。どこにも外部はない。

    ようこそ、産業社会の未来へ。

    しかし、もしかすると、抵抗の方法はまだ残されているのかもしれない。新たな世代が、私たちの知らなかった方法で、別の出口を提示する可能性はゼロではない。

    だがそれは、おそらく――カジンスキーのような個人による暴力など、歴史の彼方に押しやってしまうような、もっと大きな規模の暴力だろう。それはもはや、このように公開される文書で記述できるようなものではないだろう。