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タグ: 社会の理論

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    獅子のように立ち上がれ:デヴィッド・アイク

    Authored by 円原一夫

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    「レプティリアン」という言葉を聞いたとき、多くの人は反射的に笑ってしまうかもしれない。爬虫類型の異星人が人類に擬態し、王族や政治家、巨大企業の経営者になりすまして世界を支配している——そんな話は、荒唐無稽な都市伝説にしか聞こえないだろう。

    しかし、こうした物語が広く流布し、時には真剣に信じられているという事実は、単なる妄想や騙されやすさだけでは説明できない。それはむしろ、現代において「社会について語ること」それ自体が困難になっている、という事態の表れではないか。そして、困難であるがゆえに、レプティリアンのような極端で滑稽な語りが、ある種の必要性を帯びて現れてくるのではないか。

    本稿で扱うのは、陰謀論そのものの真偽ではない。むしろ、問いたいのはこうだ——なぜ人は、レプティリアンのような“象徴”を必要とするのか?

    この問いを出発点として、本稿は「全体社会を記述する」という問題系と、いわゆる「陰謀論的言説」の構造的役割とを接続しようとするものである。

    人類を支配する見えざる構造の象徴として、そしてその支配から「目覚める」ための裂け目として、レプティリアンは語られる。つまりレプティリアンとは、社会の全体性を語るために必要とされた装置なのだ。

    その装置を発明したのが、デヴィッド・アイクである。もちろん、人口に膾炙する別の装置を用いることも可能だったはずだ。たとえば、「資本主義」や「多国籍企業」、「新自由主義」、「超自我」や「アルゴリズム」――いずれも社会の力を象徴する“敵”として通用する記号である。

    だが、アイクはそれらではなく、レプティリアンを選んだ。いや、選ばざるをえなかった。彼にとってはそれが、語りを可能にするための“本気の外部”だった。

    滑稽な語り。そのなかに潜む倫理。

    本稿の主題はそこにある。

    2

    社会について語るという行為は、表面的には単純な営みのように見える。だが、そこに本気で踏み込もうとするなら、すぐにひとつの矛盾に突き当たる。すなわち、「社会を批判する」という行為は、その語り手が社会の“外部”に立っていることを前提とするにもかかわらず、語り手自身もまた、まさにその社会の内部にいるという事実である。

    近代以降の思想は、この構造的な矛盾に様々なグランドセオリーで挑んできた。マルクス主義では、言語や意識を含む上部構造は経済的な下部構造に従属している云々。フロイト的視点では、主体の行動や語りは無意識に支配されており、自律的とは言いがたい云々。あるいはフーコー以降の権力論では、主体そのものが社会的な力学の産物として構築されている云々。

    しかし、このように、どの理論的枠組みに立とうとも、語る主体は社会の構造の中に組み込まれており、真に“外部”から語ることは不可能である。理論的枠組みそのものを理論的枠組みの射程に入れることは基本的に捨象されてきた。にもかかわらず、知識人――いや、私たちは日常的に社会を語り、批判し、分析する。そこでは常に、存在しない“外部”に立っているかのように語るという演技が必要とされる。

    演技。そう、演技だ。その演技を成立させるために用いられるのが、「敵」という装置である。語り手は、社会のなかの特定の勢力や構造を“敵”として設定することで、あたかもその敵から自由であるかのように、自らの語りの立場を仮構する。資本家、官僚、国家、アルゴリズム、メディア、父権、新自由主義、そして技術システム——それらは、語り手が“巻き込まれていない者”として語るために必要な“外部の代理”として機能する。

    敵は、単に語りの対象であるだけでなく、語りを可能にする条件でもある。構造の全体を象徴化し、それに抗する主体を位置づけるために、敵は“発明されねばならない”。この構造において、語りとはつねに「私だけはそれに気づいている」という前提の上に成り立っている。気づいた者として、語り手は構造を超越しているかのように振る舞うことができる。そうでなければ、語る資格がないことになるからだ。

    デヴィッド・アイクの語りにおけるレプティリアンは、この構造を極端なかたちで体現している。彼にとって、象徴としての敵では不十分だった。「資本とは自己増殖する価値の運動体である」。こんな敵では不十分だったのだ。彼は、文字通り「社会の外部」から来た存在として、レプティリアンを設定した。比喩ではなく、実在する異形の存在として。

    それによってアイクの語りは、「外からの告発」として遂行される。レプティリアンが物理的に“外部にいる者”であることによって、彼の語りは、その立場を保証することができるのだ。それも、強力に。

    この一見すると滑稽な構造のなかに、むしろ語りの成り立ちの深層が露呈している。社会の構造を記述し、批判するという営為は、常に自らの語りの位置を「演出」することによって成り立っている。レプティリアンは、その演出をあらかさまなかたちで遂行した、過剰で露骨な装置である。

    だが、過剰であるからこそ、そこにこそ語りの構造がむき出しになる。だから、我々は我々の社会を支配する力が「自己増殖する価値の運動体」であるとインテリが言う時には黙っているが、レプティリアンが社会を支配しているという時には、爆笑するのである。

    つまりレプティリアンとは、社会の全体性を語るために必要とされた“外部の形象”であり、同時に、その語りの(困難さがゆえに必然的に生じる)滑稽さを引き受けた者の誠実さの徴でもある。

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    では、レプティリアンはどのように語りを成立させているのか。

    デヴィッド・アイクの語りにおいて、レプティリアンは単なる“敵役”ではない。むしろ彼らは、語りの構造を成立させるために必要な、象徴的な条件である。語り手が「社会の全体構造」を把握し、それに対して語るためには、その全体をひとつの像として集約し、象徴化する必要がある。

    現代社会を構成する諸要素――経済、政治、制度、メディア、テクノロジー、無意識など――は、あまりに複雑で拡散的であり、それらをひとつの視点から語ることは困難である。語りが成立するには、こうした複雑な力の網を一つの核に“収束”させる必要がある。レプティリアンは、その象徴的な核として機能している。

    彼らは、社会を覆う見えざる支配構造を「人格化された外部」として引き受けることによって、語り手がそれを“語りうる対象”として扱うことを可能にする。つまり、語りが成立するためには、語られるべき社会が一度“敵”として整理されなければならないのである。

    だが、それだけでは語りは閉じた構造に終わってしまう。語りが語りであるためには、単に「構造を明らかにする」だけでなく、そこに抗い得る可能性、あるいは脱出可能な裂け目を示す必要がある。例えば「自己増殖する価値の運動体」の力について論じる気鋭のマルクス学者の言説は「自己増殖する価値の運動体」の影響下にはない云々。

    レプティリアンの重要な特徴は、まさにそこにある。彼らは、完全に見えない支配者ではない。むしろ、「気づくこと」が可能な存在として語られる。アイクの語りでは、人々がレプティリアンの存在に“気づく”ことで、初めて支配から目覚めることができるとされている。すなわち、レプティリアンは全体構造の象徴であると同時に、その構造を突破するための“裂け目”でもある。

    この両義性――全体性の象徴化と、そこからの脱出可能性の保証――を担っていることにおいて、レプティリアンは語りの装置として非常に高機能である。彼らは、支配構造の「像」でありながら、それを乗り越える契機でもある。語り手は、彼らに「気づいた者」として、構造の外側に立って語ることができる。レプティリアンという装置は、語り手の位置と語りの駆動力の両方を同時に提供しているのである。アイクの著作の自己啓発的側面はここに由来している。お望みなら、陰謀論の自己啓発的側面はここに由来していると、あなたは言ってもよい。

    レプティリアンとは、語りの論理に従った結果として出現した象徴である。言い換えれば、社会を語ることが困難になった時代において、語りを成立させるためにどうしても必要になってしまった装置なのである。滑稽で過剰で、荒唐無稽であるように見えるその語りのなかに、実は現代の語りが抱える構造的な問題のすべてが凝縮されている。

    そして、アイクはこの装置を、象徴としてではなく“現実”として信じてしまった。いや、語るためには信じるしかなかったのだ。だからこそレプティリアンは、社会を語ることを不可能にする力ではなく、むしろ語ることを可能にするために発明された、誠実なフィクションだったのである。

    4

    語ることが困難になった時代において、それでも語ろうとする者は、しばしば過剰に見える。過剰であること、滑稽であること、異様であること――それは、もはや語りそのものが成立しがたい状況において、それでも語るために必要な“強度”の現れである。

    現代の知識人の多くは、この困難を巧みに回避する。彼らは、自らの語りが構造の内部で成立していることを知りつつも、それを直接には引き受けず、皮肉や留保、相対化の技法によって語ることを可能にしている。語るとは言っても、あくまで“語りすぎない”ことを倫理とする態度。どこか冷静で、どこか距離をとっている。それが、語ることに対するひとつの処世術であり、生き残りの戦略でもある。

    例えば、もはや私がここまで散々言及してきたようなマルクス主義やフロイト理論のようなグランドセオリーを、明示的に利用するような知識人は稀である。言及せずに利用するか、あるいは、今の流行りは全体の理論なき連辞符の社会学である。

    だが、デヴィッド・アイクはその道を選ばなかった。彼は、語りの構造に自覚的でありながら、それを回避する術を持たず、あるいは拒絶し、語ることそのものに身を投じていった。

    アイクの語りには、皮肉も留保もない。彼は比喩として語っているのではない。彼にとってレプティリアンは、単なる象徴ではなく、本当に存在する支配者たちなのである。つまり彼は、「語りの構造を徹底的に遂行した結果として、信じてしまった者」だった。

    その語りは、もちろん暴走する。過剰であり、破綻寸前であり、論理としても破綻しているように見える。学問的意義もないとされているし、Googleでは検索から排除されている。だが、その過剰さは、何かを信じようとした語りの衝動の副産物である。

    語らずにはいられないという衝動。構造の中に巻き込まれながら、それでも語らなければならないという切迫。アイクの語りは、語ることを手放さなかった者の姿として、ひとつの極北に位置している。

    レプティリアンは、あまりに荒唐無稽な象徴である。だがその幼稚さ、神話的な誇張、世界観の大仰さは、語りを可能にするための“必要な滑稽さ”でもある。社会を語ることができなくなった時代において、語るためには、ここまで逸脱しなければならなかった――その逸脱の軌跡として、アイクの語りは存在している。

    私たちは多くの場合、語りの中に自分の安全地帯を確保し、語りすぎないことを知恵とみなしている。構造に巻き込まれたまま、巻き込まれていないふりをして語る。それもまた一つの生き方であり、知的な生存戦略だろう。

    だが、アイクは語ることを引き受けた。処世術を選ばず、構造の外部を、物理的な意味で設定するという荒技を用いてまで語ろうとした。

    滑稽さとは、そうした語りの誠実さが、構造の中で浮いてしまった結果として現れるものなのかもしれない。彼の語りが笑われるとき、その笑いのなかに、語ることそれ自体の倫理的な負荷が見え隠れしている。

    5

    レプティリアンという存在は、荒唐無稽で、過剰で、滑稽ですらある。だが、それでもなお、彼らは語りを成立させるために必要とされた。複雑に絡み合った社会の力学をひとつの像に象徴化し、同時に、そこから「目覚める」ための裂け目を提供する。レプティリアンは、語り手が全体構造を把握し、語るために“発明されねばならなかった装置”である。

    デヴィッド・アイクは、それを信じてしまった。いや、信じずには語れなかった。彼は、語りの構造に留保や皮肉を差し挟むことなく、「外部に立っている者」として語りきった。現代の語り手たちが皮肉と相対化で“安全地帯”を確保する一方で、彼は真正面から語り、過剰なまでに“信じた”。だからこそ、その語りは滑稽であり、破綻しているようにすら見える。

    しかし、その滑稽さは、語ることをあきらめなかった者の証でもある。語る資格を喪失した時代において、語ることそれ自体がすでに倫理的な選択となっている。皮肉ること、黙ること、笑うこと――それが賢明とされるこの時代に、語るという行為はすでにリスクであり、愚かさであり、孤立を意味する。

    では、アイクを笑うことは正当か? 彼の語りを滑稽だと笑う私たちは、本当に語ることができているのか? 冷笑と相対化の彼方で、語り手としての資格を私たちは保持しているのだろうか?

    レプティリアンという象徴は、そのような問いを私たち自身に突きつけている。それは語りの装置であり、信仰の対象であり、同時に、語ることの不可能性に抗おうとする最後の賭けでもあったのだ。

    だからこそ、この語りをただの冗談や妄想として処理するのではなく、いま一度、誠実に聴きなおすことが求められているのではないか。滑稽な語りのなかに、真剣に語ろうとする者の最後の姿が、かすかに立ち現れているのだから。あるいは獅子のような野蛮さ。

    そして私は、もはやアイクのような野蛮さなしにはもう誰も何も語れないと語っているのだが、この論考はこれで終わりである。