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For the end of the world and the last man

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  • 叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    Authored by 円原一夫

    谷川流、著。来年で刊行されてから二十年になる。二十年もあれば、一人の人間が成人になったり、経済先進国の地位が入れ替わったり、「キョン! 何々をするわよ!」とアニメを踏まえたジョークをSNSに書いても、若い人に「この『キョン』って何ですか、叫び声ですか?」というメッセージを貰ったりするのには十分な時間である。

    それでは、あなたとこの作品の関係はどのように変化しただろうか。あなたはもう、この作品を少々オールドだと感じている。何故なら、あなたはトラックに轢かれて別の世界に行き、そこで暮らしたいと思っている。あなたは既に確立された、諸々の身分「悪役令嬢」「負けヒロイン」「最強だった魔王」「追放された勇者」「実力を隠したエスパー」になり、そしてその身分に微修正を加えることのできる世界へ行き、ここへ、帰ってきたくないと思っている。

    つまり、『涼宮ハルヒの憂鬱』は極めてオールドなタイプの啓蒙主義小説になってしまったと、私はそう言いたいのである。オールドなタイプであることには、何の否定的な価値も含まれていない。反時代的であることは、場合によってはむしろ良いことだ。

    オールドなタイプの啓蒙について説明する前に、私は以下のような問に取り組むことにしよう。ハルヒは何故、キョンと接吻することによって、あの青白い巨人が街を破壊し、巨人の他にはハルヒとキョンしかいない世界から帰ってきたのかということである。そう、あなたはまだちゃんと『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでいないのである。この疑問を、私は、奇異なものだとは思わない。オールドなタイプの疑問だと思っている。それはあなたがハルヒの舌の味、キョンの舌の味を想像してよいからである。あるいは、あのまま、巨人に見下ろされながら、接吻以上の何かを試みる二人を想像してよいからである。つまり、性愛によって彼女が救われたということを、スニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層にあわせてマイルドにしたのだということでは、説明にならないと、私は言っているのである。

    実際、あの世界から戻った後のハルヒとキョンの間に、例えば(それこそスニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層に合わせた男女の関係性である)「カップル」になったとか、「恋人同士」になったという描写はないのである。僅かに、ハルヒが短い髪でポニーテールを作ろうとしていたことが描かれるだけである(だが、後で書くがこれはオールドなタイプの啓蒙のための髪型である)。

    まず、あの世界がどのように作られたのか、どのようなものか、それを確認することにしよう。

    『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公が亀有公園前派出所ではないように、『涼宮ハルヒの憂鬱』も涼宮ハルヒが主人公ではない。これは、キョンという、その本名が明かされない男子高校生が主人公であり、彼の一人称視点で物語は進行する。谷川流は極めて優秀な作家であって、この点にもオールドなタイプの啓蒙のための必然性があるのだが、そのことは今は置いておこう。ともかく、その彼のクラスメイトが涼宮ハルヒという少女であり、彼女には彼女自身理解していない、ある能力がある。それは、彼女が自分の望んだことを全て実現することができるという能力である(「これ? ただ望んだだけなんだが」「これは数値マックスの大魔導士しか使えないスキルですよ!」)。ところで、この力にはある重大な制限がある。彼女は神ではないということである。神は、世界の外部に存在しなければならない。倫理がそうであるように。これが重大な制限である。どういうことか? 彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはないのである。

    物語は、この矛盾において生じる。ハルヒは高校入学直後、キョンを含めたクラスメイトたちの前で、このように述べる。「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人・未来人・異世界人・超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上!」。さらに彼女は宇宙人、異世界人、超能力者と接近遭遇するための部活動「SOS団」を作る。しかし、既に書いた通り、彼女には願望を実現する能力がある。そう、もう宇宙人、異世界人、超能力者は、ハルヒとキョンの通う高校に、いるのである。ところが、やはりこれも既述の重大な制限のために、ハルヒと彼らは会うことがない。彼女は彼らと出会うことを望んでいるが、しかしまた、そんなものは存在しないという意識のために、出会うことがないのである。語り部であるキョンだけが、彼らと会い、そして願望を実現する能力を持つ少女に対応しようとする彼らの(宇宙人、異世界人、超能力者の世界における)政治的抗争や工作に巻き込まれる。

    さて、以上のあらすじと設定を踏まえて、ようやく、あの青白い巨人が暴れまわる世界は何だったのかを確認することができる。その後で、私はあの世界から接吻によって帰ることが、なぜ、オールドなタイプの啓蒙と言えるのかを書くことにしよう。

    あの世界は何故、できたのか? これは簡単である。タイトルに書いてある。涼宮ハルヒの「憂鬱」。憂鬱のために、できたのである。憂鬱は、日常的用法では、歯医者に行くことを想像するだけでもなることのできる精神状態ではある。ここでは、もっと深刻なものを想定すべきだ。例えば、この作品の英訳されたタイトルは「melancholy of haruhi suzumiya」であるが、これは涼宮ハルヒの鬱病と訳しても、内容を精査する前であれば、許されるだろう。そう、彼女は鬱病となって、キョンと心中しようとしたのである。そも、自殺とは、最も簡単な(少なくとも主観的に)世界を滅ぼす方法の一つであった。

    この読み方は、こじつけではなく、最も率直な読み方であると、私はここに書こう。彼女が「ただの人間には興味ありません」と言ったのは、ただの人間とは二十四時間、常に出会っているからである。彼女自身が「ただの人間」なのだ。実際、作中で、ハルヒはキョンに「野球場の思い出」を語っている。

    「それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、何よりも、自分の通う学校の自分のクラスは、世界のどこよりもおもしろい人間が集まっていると思ってたのよ。でも、そうじゃないんだってそのとき気づいた。私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの、日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国の全ての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に、私の周りの世界が、色あせたみたいに感じた」

    そうして、彼女は高校入学後、宇宙人、異世界人、超能力者を探す部活動を始めることになるのだが、彼女の望みは実現しない。彼女は彼女が思っている通りに、「ただの人間」となる。野球場に野球の観戦に来ている膨大な数の人間の誰とでも交換可能な、彼女が興味のない「ただの人間」になる。それなら、もう、その力があるのならば、世界を破壊するしかないではないか。

    しかし、ここで再確認しなければならないのは、彼女の力が実現しているものは何かということである。私はこう書いた。「彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはない」と。

    つまり、あの青白い巨人が街を破壊する世界は、彼女の望んだ世界でありながら、しかしまた彼女が真に望んだ世界ではないのである。

    キョンが彼女とキスをすることで教えたのは、そのことである。実現した欲望はくだらない、それほど面白くないということだ。

    「あのなあ、ハルヒ、俺はここ数日で、かなり面白いめにあってたんだ。お前は知らないだろうけど、世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

    ハルヒとキョンの接吻も、また欲望の「十全に叶えられた」ものではない。あの接吻は、さらに深く、鋭く、強く、素晴らしい性愛の欲望の実現の可能性の示唆であって、性愛そのものの実現ではない。実現した性愛は、ハルヒを満たさない。実現した世界の終わりが彼女を満たさなかったのと、これはパラレルである。彼女はそれらを一夜の夢として処理してしまう。

    彼女はもう、世界は「確実に面白い方向に進んで」おり、実現された欲望よりも、まだ実現されていない欲望のほうが常に面白いということを知っている。彼女は「ただの人間」であることに耐える力を得る。しかもそれは、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めることが日常の肯定だと、あなたが言うのであれば、この作品が描かれているのは決して、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めるのではなく、実現されていない欲望が「ただの人間」に、世界の終わりを拒否する力を与える。欲望を諦めてはならない。それが無限の彼方において実現するものであればこそ、実現されていないからこそ、素晴らしい。だからハルヒは一日だけ、短い髪で、キョンに夢の中で褒められたポニーテールを作って登校する。それは、まだ実現されていないがゆえに接吻以上に素晴らしい何かの、可能性である。

    いよいよ私は「啓蒙」とは何かを書くことにしよう。啓蒙とは、これである。「実現された欲望よりも実現されていない欲望の方が常に素晴らしい」という教えのことだ。

    あなたに、あらためて、この教えの内容を詳らかにする必要があるようには、私には思えない。あなたはもう、散々、進化心理学を齧った者たちに、幼少期に長くマシュマロを食べることを我慢できた子どもは、その後も社会的に成功する蓋然性が高いなどといった話を聞かされてきたではないか。

    あるいは、偉大なる社会学の祖マックス・ヴェーバーは初期の資本形成において、カルヴィニズムの予定説が影響を及ぼしたと言っていたではないか(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。カルヴァン派は、まさにまだ実現されていない欲望の方が常に素晴らしいというテーゼの忠実な実行者だった。最後の審判で自分がどのように裁かれるかは既に予定されていて、天国行きを希望しても実現するかは不明であるが、現世では既に天国行きが決まったかのように、その他の欲望の達成はくだらないと切り捨て禁欲すること、ただ働くことが肯定されたのである。(「ハルヒ、お前が知らないだけで、世界は確実に最後の審判の方向に進んでいたんだよ」)

    そも、我々の文明は、快感原則を現実原則で編成し(フロイト)、欲望の充足を延期すること(あなたが望むなら、延期ではなく抑圧と言ってよい)で成立したのだし、それは今でも常に奨励されている。先進諸国の教育期間は伸びるばかりである。

    この文明が、その初期に――場合によっては今でも――自己を存続するために人々に実行を促してきたテーゼと合致するがゆえに、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』を啓蒙主義小説と呼ぶ。

    ここまで読んで、あなたはそんな「啓蒙」は古臭い、オールドなタイプの啓蒙であると感じているはずである。あなたが感じていることは常に正しい。感じることは自然だからだ。反時代の私も、実は密かにそう感じている。私はあなたのその「感じ」が生じた理由を説明することで、この「啓蒙」がもはや古くなってしまったことの証明としよう。

    それは、あなたの国が新興工業地域よりも一人当たりGDPが低くなるからである。

    それは、あなたの年金受給額があなたの支払額より低くなるからである。

    それは、あなたの租税負担が新興国との軍拡競争で増えていくからである。

    それは、あなたの家族とあなたを介護をする労働者が足りなくなるからである。

    それは、あなたの故郷が人口減少で消滅するからである。

    それは、あなたの持っている現金の価値が毎年減少するからである。

    それは、あなたの所属する会社が管理職の椅子を増やせないからである。

    それは――、あなたが最後の審判を信じていないからである。

    それは、あなたがトラックに轢かれて悪役令嬢に転生したいからである。

    それは、あなたが親世代の資産とインフラを食い潰して生きているからである。

    しかし、あなたが荒野に一人立ち、また何かを始めなくてはならないとなったのならば、二十年前のライトノベルを開いてみることも、良いだろう。そこでは、まだ実現されていない欲望は素晴らしいと書かれており、あなたが暗闇を進むときに、自分をひき殺してくれるトラックを待つよりはまだしも「啓蒙的」なメッセージが書かれているからである。

    「キョン! 次はもっとうまく失敗しなさい!」

  • 狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    Authored by 円原一夫

    下記の文章は、私の記憶では十年近く前に書いたものであるが、私がある作品を批評するという時に(現在時点で)最も重視していることを先取りしているため、私がいつでも自分の基準点を思い出すことができるように、あえて、ここに掲載するものである。

    私が重視しているのは、対象となる作品をプロパガンダの叩き台にするのではなく、その作品がその内部に持つ、ある決定の不可能性、解決不可能な矛盾を発見し、スポットライトを当てることであり、言い換えれば、ある作品を二重、三重に味わうことができるようにすることである。

    この論考で私は、細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』にメロドラマとメロドラマへの抵抗の両方が同時に見て取れることを明らかにしよう。「同時に」。そうしたメッセージの二重性、複数性が映画の豊穣さ、「映画」をプロパガンダから区別するものだと思うが、そうした議論はここではしない。

    映画のタイトルからわかるとおり、この映画は「おおかみこども」の雨と雪を巡る物語であるが、それにしても、「おおかみこども」というものについては絶対に説明が必要であるし、その説明を兼ねて、この映画の粗筋をまず書くことにしよう。

    後に雨と雪を産む、その母であり、つまり主人公の一人である「花」は東京の外れにある国立大学に通う大学生である。これは明示されないが、その建築物などから、東京大学であることが黙示されている。これは重要なことだ。彼女は、いわばそこらの普通の男性よりも、相対的に高位な階層にアクセスする権利を有しているということだからである。さて彼女は講義に潜り込んでいた男性の「彼」と出会い、恋に落ちる。ここまでは我々の現実の延長であるが、しかし実は「彼」はニホンオオカミの末裔であり、人間の姿と四足歩行する自然主義的に描かれる狼の姿の二つを自由にとることができる存在であることが明かされる。それでもなお花は「彼」を受け入れ、ついに花は「彼」の子どもを姙娠することになる。その子どもこそ雨と雪であって、この二人もまたその父と同じ特性を有しており、それゆえ父が「狼男」であるのに対し彼らは「おおかみこども」となる。しかし物語が欠如と欠如の回復、混沌と秩序の構築によって構成されているからには、この家庭にも影が忍び寄ってくる。ある日、「彼」がいつまでたっても帰ってこないという事態が起きる。花は「彼」を探しに行くが、「彼」は狼の姿になって河の中で死んでいる。その直接の原因は明確にされない。とにかく「彼」は狼であるから、その「死骸」はゴミ収集車のような物で運び去られてしまう。かくして花と雨と雪は「父」を喪失することになる。物語が駆動し始める。

    この「父」を喪失した、ファンタジックな家族がいかに父無き後に秩序を構築するか、ということがこの映画の主題になるわけであるから、まさしくこれはメロドラマということになるだろう。ここで私はあえて、誰か一人にフォーカスするのではなく、この家族の成員全員の、「父」の喪失の処理の仕方を分析していく。それは花と雪と雨ということになるが、まさに三者三様の仕方によってこの事態を乗り越えるのであって、それこそ細田がやりたかったことであるはずであるから、私はそれぞれを比較しつつ、分析しよう。

    まず花を視てみよう。花は恐るべき人間である。狼とのハーフである「おおかみこども」よりも、花こそよほど人間らしくない。というのは、花は父子家庭の出身であり、さらにその父が死んでいるために、両親という一種の財産的余力を全く持たないにも関わらず、「彼」を受け入れ、その子どもを姙娠し、何の屈託も葛藤もなく、「母」となる。さらに「彼」が死んだ後にも、この花が「母」という役そのものを放棄したいと願うとか、その重責に悶え、「母」ではない自己を探究し始めるということは全くないのである。花の「父」なき混沌の乗り越えは単純である。それは花がひたすら「母」という役割を、相対化し意識の対象とするような「役割」としてではなく、自然なものとして受け入れ、奮闘するという内容である。これは完全に肯定的なものとして描かれ、ついに全て報われる。花は子どもたちのために(東京大学であることが黙示されている)大学を中退し、過剰に元気な「おおかみこども」が暮らすのは難しい都会から田舎へ引っ越し、都会よりむしろ異質な他者に不寛容でありそうな田舎で彼女は地域住民の信頼を獲得していく。ここにあるのは吐き気を催すほど、「男」にとって好都合な「女」であるが、花には「母」であることの葛藤が存在しないので、視聴者はそういうことを意識しないで済む。だが「おおかみこども」の二人の「父」なき混沌の乗り越えはこれほど単純ではない。特に雪は雄の身体を持つ「おおかみこども」であり、花の新しいロマンスの相手となるキャラクタが不在であるから、彼は「父」となることが宿命づけられている。この映画がメロドラマの文法に忠実であることによって。

    この映画は三人の成熟の過程を描くことで一見して複雑そうな物語構造をとっているが、極めてメロドラマの文法に忠実である。その点で面白いのは、狼男の成熟した男性である「彼」がいかに成熟までを、その狼と人間の中間足る身体でありながらやり抜けたのかという知識の継承に失敗しているという点である。そのため劇中には「(狼と人間の中間の存在が)どうやって成長してきたのかちゃんと聞いておけば良かった」といった内容の台詞さえある。まさにここに父の不在による混沌がある。さて雨と雪はいかに父の不在を乗り越え、成熟するのか。こうしてメロドラマが、いかにジェンダー規範を身につけるのか、というドラマが作動することになる。実際、雨と雪が物語中で苦悶するのは、ジェンダー規範の獲得という課題のためである。しかし後に詳述することになるが、雨はジェンダー規範の獲得に失敗し、その失敗と「おおかみこども」という特性が組み合わさることで、一種のアクロバティックな「成熟」を成し遂げることになる。さて、それでは雨と雪はどのようにその課題と戦うのか。

    雪は人間の雌の身体を持つ「おおかみこども」であり、非常に活動的な子どもである。彼女は家の周りを狼の姿で駆けまわり、猪や野良猫と喧嘩をする。彼女もやがて小学校に通うことになる。そこで低学年の内こそ運動ができることによって人気者となるが、彼女の狼性は(「男は狼なのよ」という歌もあるように)本能の壊れた動物としての人間の中では男性性と解釈されてしまう。例えば彼女の「宝物」は動物の骨やトカゲの干物であるが、当然、それは同級生の少女たちの間では受け入れられない。そこで彼女は「女の子」らしくあるために、ほとんど恐ろしいほどに「良き母」である花に「青いワンピース」を作ってもらい、同級生たちに「可愛い」と言われ、その輪に再び入ることに成功し、「これに本当に助けられ」る。彼女は狼性を隠匿することで、一度、女性性を獲得する。しかし、それを脅かす存在が現れる。転校生の「草平くん」だ。彼は彼女に「犬でも飼っているのか」「けものくさい」と、特に告発するつもりもなく言うが、それは彼女にとってあの隠匿した狼性、男性性を指摘されることに等しいのであって、彼女は「狼」狽し、ついに彼にその年頃の少女にはありえないほど強い暴力を行使し、草平を沈黙させる。彼女にとって、それは男性性の隠匿の失敗に他ならないために、彼女は人間の中で生活すること、女性性を獲得することに失敗したと思い込み、一時的に不登校になる、だが草平は彼女の隠匿しているものを理解し、受け入れ、彼女と彼女が「おおかみこども」であるという秘密を共有する。彼女はこの「男」と秘密を共有し、帰属するジェンダーを安定させ、物語の終わりには「良き母」足る花のもとを離れて、都会の寮がある中学校に進学する。彼女は社会の中でいかに振る舞うべきかという規範、特にジェンダー規範の内面化に成功したのだ。これは勿論、肯定的に描かれる。中学校の校門の前、笑顔の花と彼女のツーショット、そしてナレーション。映画が終わる。だが、私の文章は終わらず、雨と「課題」の抗争を見ていくことになる。あるいは、雨の戦いこそ、この映画をメロドラマによる支配から救済しているということを。

    雨の成長過程はメロドラマの枠内における一種のアクロバットになっている。どういうことか。雨は雪とは違って、人間の雄の身体を持つ「おおかみこども」である。しかし彼は雪とは反対に、大人しい性格であって、雪に「狼らしくない」といったことを言われるような性格である。狼らしくない、というのは、人間社会においては「男らしくない」ことに翻訳されうる特性であって、雪は、雨が後に女性性との間で葛藤を生むことになるほど活発な子どもであるのに対し、授業中は教室の後ろでじっとしていて、授業時間外は廊下で他の子どもに「いじめ」の類と思しき行為を受ける短いシーンが挿入されるような子どもであって、その時には雪に助けられてさえいる。雨は人間社会に溶け込むこと、言い換えれば男性性の獲得に失敗していることが強調され、ついに不登校になる。雪もまた不登校になっているが、彼女は草平との間で「秘密を共有し」、彼に受容されることで、安定した女性性を獲得するのに対し、雨はついに人間社会に溶け込むこと、男性性を獲得することを完全に断念する。この断念は雨が「おおかみこども」であるという設定によって、端的なものとして、つまり雨が小学校ではなく、山の主である狐のもとに通い、狼の何たるかを教わり、ついに人間ではなく、狼として生活するようになる、という形で現れることになる。いわば雨は男性性の獲得に断念し、その代わりに、狼である自己に目覚め、動物というジェンダーの未分化である地点へ移行するのである。これが、この移行こそが、メロドラマへの抗いなのだ。しかしここで注意したいのは、雨は山の主である狐の役割を継承し、山に秩序をもたらす存在つまり、人間社会の「父」に相当するものになったとも解釈可能であるということだ。ただし、その解釈は、我々が動物の世界に我々自身を投影する時にだけ成立可能なものである。

    まとめよう。『おおかみこどもの雨と雪』は、直接の父を喪うことで、象徴の「父」をも喪った「おおかみこども」たちとその母の混沌に陥った世界がジェンダー化という劇中で徹底的に祝福される過程を経ることで再びその眼前の世界に秩序をもたらし、特に人間の雄の身体を持つ雨は山の主の地位を継承することで山に秩序をもたらす者すなわち「父」となる。これは完全にメロドラマの文法に従ったものであって、典型的であるということができる。しかし、我々が動物の世界に我々を投影しなければ、雨はジェンダーの未分化な地点に移動したのであると解釈することができるのであり、この映画にメロドラマと同時にメロドラマとの闘争を見て取ることができるようになる。