Authored by 円原一夫
本稿は、NHK記事「トランプ政権で存在感増す新興メディア なぜ?」(2025年4月18日)への応答として書かれたものである。
1. はじめに
2025年に復帰したトランプ政権のもと、アメリカではSNS発の新興メディアが急速に台頭している。NHKの特集「トランプ政権で存在感増す新興メディア なぜ?」は、こうした新興勢力が政権と親密な関係を築き、報道の「不偏不党」や「中立性」といった理想を積極的に放棄していると批判的に描いている。だが、その批判は果たして正当なものだろうか? 本稿では、そのような報道の理想が成立していた社会的前提を再検証しながら、メディアをめぐる幻想の終焉を読み解いていく。
2. メディア環境の変化と制度疲労
トランプ政権はホワイトハウス記者会見室の一部を、従来の大手メディアではなく、ポッドキャスターやインフルエンサーなどの“新興”記者に開放した。AP通信など批判的なメディアを排除する動きも見られる。これは従来の報道制度──大手メディアによる「国民向け」の情報選別と発信という構造──の変質を意味する。もはや“全体に向けて語る”という仮定は制度的にも破綻しつつある。
3. 理想モデルの崩壊と「中立性」の変質
新興メディアは、自らの政治的立場を明示することで、「中立を装った伝統メディアよりも誠実だ」と主張する。これを問題視するのが旧メディアだが、そもそもその「中立性」なるものはどれほど実在していただろうか? “不偏不党”は理念として掲げられてはいたが、それは制度によって支えられた語りの形式にすぎなかった。むしろ、報道が自己の立場を明示するのは自然な変化であり、その変化を批判すること自体が、「誰が語る資格を持つか」というヒエラルキーの再生産にほかならない。
4. 「国民」向けという(メディアのターゲット設定の)フィクションは終焉
中立性や公共性は、もともと“国民”という一枚岩の想像の共同体が存在するというフィクションによって支えられていた。だがその基盤は、グローバル化、格差の拡大、雇用の流動化によってすでに崩壊している。いま存在しているのは、分断された属性グループ、同質的な情報空間、忠誠心でつながれた政治的部族だ。報道は、いや誰であれ、もはや“社会全体に向けて語る”ことができ(るように擬制でき)ない。新興メディアは、それを正直に引き受けただけである。
5. なぜ“新興”は批判されるのか
新興メディアは偏っている。中立性がない。危うい。──伝統的メディアはそう批判するが、伝統メディアと新興メディアに本質的にどれほどの差異があるのだろうか。構造的に見れば、どちらも自分たちの属するクラスタに向けて物語を語っているにすぎない。ただそのクラスタがあまりにも大きいか、あまりにも小さいかというだけの話なのである。
にもかかわらず、「新興」と名指しされるメディアが批判されやすいのはなぜか。それは、語る資格の再分配が進んでいるからだ。語る資格の革命だ。つまり、「語ってよい人間」と「語るべきでない人間」のあいだに、かつて存在していた制度的境界がいまや曖昧になっている。そしてそれを旧制度の側は“秩序の崩壊”と呼ぶ。クソみたいなブログのごときが、俺たちエリートと同じ土俵で話しているつもりになるなと言うわけだ。
しかし、そんな伝統メディアが可能だったのは、あるいは「国民に向けて語る」ことが可能だったのは、情報の同時流通と受け手の共有文化が前提にあったからだ。だがその想像の共同体=“国民”は、すでにグローバル化と分断のなかで解体されている。今、存在しているのは、属性グループと忠誠心で結ばれた政治的部族、そしてアルゴリズムによって仕分けられた情報空間だけだ。
その状況を、さらに急速に露呈させているのが生成AIの登場である。語りはもはや編集部や記者の手を介さず、誰でも、いつでも、自動で生み出すことができる。しかもそれは、一人一人の嗜好や関心にあわせて、“あなた専用の物語”として量産される。こうして「不特定多数に語る」という公共言説の前提は、速度と粒度の両面から崩壊を始めた。
6. 結論
新興メディアは、突如現れた異物ではない。それはすでに崩壊した制度の後に立ち現れたメディアの形態のひとつにすぎない。新興などではない。ただ依拠する現実が変わったのである。生成AIはその語りをさらに加速し、「誰が語るべきか」という伝統メディアの問いそのものを陳腐化させようとしている。
つまり「新興メディアの台頭」など、存在しない。ただメディアだけがある。お望みなら、金があり、社史が長いメディアと、そうでないメディアに分けてもよいだろう。単に、語り手の、語り手の内部での交代劇なのである。人間の夜は物語なしに、天井をじっと見つめているだけではあまりにも長過ぎるから、呼び出された語り手。
かつて印刷メディアを中心とした伝統的メディアは「公共」の顔をしていた。だがそれは、語る者の資格を独占したい者たちの、夜郎自大であった。いま、生成 AIのざわめきがついにその不快な独り言を掻き消し、声はひとりひとりの耳元で無数にささやかれるようになる。それぞれが信じた囁きを抱いて、私たちは伝統メディアと新興メディアの差異などないような地点に辿り着いた。伝統メディアが「国民」の聞きたい物語を語っていたように、今度は生成AIが「個人」の聞きたい物語を用意する。その先に何があるかは私の知り及ぶところではない。