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  • 狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    Authored by 円原一夫

    下記の文章は、私の記憶では十年近く前に書いたものであるが、私がある作品を批評するという時に(現在時点で)最も重視していることを先取りしているため、私がいつでも自分の基準点を思い出すことができるように、あえて、ここに掲載するものである。

    私が重視しているのは、対象となる作品をプロパガンダの叩き台にするのではなく、その作品がその内部に持つ、ある決定の不可能性、解決不可能な矛盾を発見し、スポットライトを当てることであり、言い換えれば、ある作品を二重、三重に味わうことができるようにすることである。

    この論考で私は、細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』にメロドラマとメロドラマへの抵抗の両方が同時に見て取れることを明らかにしよう。「同時に」。そうしたメッセージの二重性、複数性が映画の豊穣さ、「映画」をプロパガンダから区別するものだと思うが、そうした議論はここではしない。

    映画のタイトルからわかるとおり、この映画は「おおかみこども」の雨と雪を巡る物語であるが、それにしても、「おおかみこども」というものについては絶対に説明が必要であるし、その説明を兼ねて、この映画の粗筋をまず書くことにしよう。

    後に雨と雪を産む、その母であり、つまり主人公の一人である「花」は東京の外れにある国立大学に通う大学生である。これは明示されないが、その建築物などから、東京大学であることが黙示されている。これは重要なことだ。彼女は、いわばそこらの普通の男性よりも、相対的に高位な階層にアクセスする権利を有しているということだからである。さて彼女は講義に潜り込んでいた男性の「彼」と出会い、恋に落ちる。ここまでは我々の現実の延長であるが、しかし実は「彼」はニホンオオカミの末裔であり、人間の姿と四足歩行する自然主義的に描かれる狼の姿の二つを自由にとることができる存在であることが明かされる。それでもなお花は「彼」を受け入れ、ついに花は「彼」の子どもを姙娠することになる。その子どもこそ雨と雪であって、この二人もまたその父と同じ特性を有しており、それゆえ父が「狼男」であるのに対し彼らは「おおかみこども」となる。しかし物語が欠如と欠如の回復、混沌と秩序の構築によって構成されているからには、この家庭にも影が忍び寄ってくる。ある日、「彼」がいつまでたっても帰ってこないという事態が起きる。花は「彼」を探しに行くが、「彼」は狼の姿になって河の中で死んでいる。その直接の原因は明確にされない。とにかく「彼」は狼であるから、その「死骸」はゴミ収集車のような物で運び去られてしまう。かくして花と雨と雪は「父」を喪失することになる。物語が駆動し始める。

    この「父」を喪失した、ファンタジックな家族がいかに父無き後に秩序を構築するか、ということがこの映画の主題になるわけであるから、まさしくこれはメロドラマということになるだろう。ここで私はあえて、誰か一人にフォーカスするのではなく、この家族の成員全員の、「父」の喪失の処理の仕方を分析していく。それは花と雪と雨ということになるが、まさに三者三様の仕方によってこの事態を乗り越えるのであって、それこそ細田がやりたかったことであるはずであるから、私はそれぞれを比較しつつ、分析しよう。

    まず花を視てみよう。花は恐るべき人間である。狼とのハーフである「おおかみこども」よりも、花こそよほど人間らしくない。というのは、花は父子家庭の出身であり、さらにその父が死んでいるために、両親という一種の財産的余力を全く持たないにも関わらず、「彼」を受け入れ、その子どもを姙娠し、何の屈託も葛藤もなく、「母」となる。さらに「彼」が死んだ後にも、この花が「母」という役そのものを放棄したいと願うとか、その重責に悶え、「母」ではない自己を探究し始めるということは全くないのである。花の「父」なき混沌の乗り越えは単純である。それは花がひたすら「母」という役割を、相対化し意識の対象とするような「役割」としてではなく、自然なものとして受け入れ、奮闘するという内容である。これは完全に肯定的なものとして描かれ、ついに全て報われる。花は子どもたちのために(東京大学であることが黙示されている)大学を中退し、過剰に元気な「おおかみこども」が暮らすのは難しい都会から田舎へ引っ越し、都会よりむしろ異質な他者に不寛容でありそうな田舎で彼女は地域住民の信頼を獲得していく。ここにあるのは吐き気を催すほど、「男」にとって好都合な「女」であるが、花には「母」であることの葛藤が存在しないので、視聴者はそういうことを意識しないで済む。だが「おおかみこども」の二人の「父」なき混沌の乗り越えはこれほど単純ではない。特に雪は雄の身体を持つ「おおかみこども」であり、花の新しいロマンスの相手となるキャラクタが不在であるから、彼は「父」となることが宿命づけられている。この映画がメロドラマの文法に忠実であることによって。

    この映画は三人の成熟の過程を描くことで一見して複雑そうな物語構造をとっているが、極めてメロドラマの文法に忠実である。その点で面白いのは、狼男の成熟した男性である「彼」がいかに成熟までを、その狼と人間の中間足る身体でありながらやり抜けたのかという知識の継承に失敗しているという点である。そのため劇中には「(狼と人間の中間の存在が)どうやって成長してきたのかちゃんと聞いておけば良かった」といった内容の台詞さえある。まさにここに父の不在による混沌がある。さて雨と雪はいかに父の不在を乗り越え、成熟するのか。こうしてメロドラマが、いかにジェンダー規範を身につけるのか、というドラマが作動することになる。実際、雨と雪が物語中で苦悶するのは、ジェンダー規範の獲得という課題のためである。しかし後に詳述することになるが、雨はジェンダー規範の獲得に失敗し、その失敗と「おおかみこども」という特性が組み合わさることで、一種のアクロバティックな「成熟」を成し遂げることになる。さて、それでは雨と雪はどのようにその課題と戦うのか。

    雪は人間の雌の身体を持つ「おおかみこども」であり、非常に活動的な子どもである。彼女は家の周りを狼の姿で駆けまわり、猪や野良猫と喧嘩をする。彼女もやがて小学校に通うことになる。そこで低学年の内こそ運動ができることによって人気者となるが、彼女の狼性は(「男は狼なのよ」という歌もあるように)本能の壊れた動物としての人間の中では男性性と解釈されてしまう。例えば彼女の「宝物」は動物の骨やトカゲの干物であるが、当然、それは同級生の少女たちの間では受け入れられない。そこで彼女は「女の子」らしくあるために、ほとんど恐ろしいほどに「良き母」である花に「青いワンピース」を作ってもらい、同級生たちに「可愛い」と言われ、その輪に再び入ることに成功し、「これに本当に助けられ」る。彼女は狼性を隠匿することで、一度、女性性を獲得する。しかし、それを脅かす存在が現れる。転校生の「草平くん」だ。彼は彼女に「犬でも飼っているのか」「けものくさい」と、特に告発するつもりもなく言うが、それは彼女にとってあの隠匿した狼性、男性性を指摘されることに等しいのであって、彼女は「狼」狽し、ついに彼にその年頃の少女にはありえないほど強い暴力を行使し、草平を沈黙させる。彼女にとって、それは男性性の隠匿の失敗に他ならないために、彼女は人間の中で生活すること、女性性を獲得することに失敗したと思い込み、一時的に不登校になる、だが草平は彼女の隠匿しているものを理解し、受け入れ、彼女と彼女が「おおかみこども」であるという秘密を共有する。彼女はこの「男」と秘密を共有し、帰属するジェンダーを安定させ、物語の終わりには「良き母」足る花のもとを離れて、都会の寮がある中学校に進学する。彼女は社会の中でいかに振る舞うべきかという規範、特にジェンダー規範の内面化に成功したのだ。これは勿論、肯定的に描かれる。中学校の校門の前、笑顔の花と彼女のツーショット、そしてナレーション。映画が終わる。だが、私の文章は終わらず、雨と「課題」の抗争を見ていくことになる。あるいは、雨の戦いこそ、この映画をメロドラマによる支配から救済しているということを。

    雨の成長過程はメロドラマの枠内における一種のアクロバットになっている。どういうことか。雨は雪とは違って、人間の雄の身体を持つ「おおかみこども」である。しかし彼は雪とは反対に、大人しい性格であって、雪に「狼らしくない」といったことを言われるような性格である。狼らしくない、というのは、人間社会においては「男らしくない」ことに翻訳されうる特性であって、雪は、雨が後に女性性との間で葛藤を生むことになるほど活発な子どもであるのに対し、授業中は教室の後ろでじっとしていて、授業時間外は廊下で他の子どもに「いじめ」の類と思しき行為を受ける短いシーンが挿入されるような子どもであって、その時には雪に助けられてさえいる。雨は人間社会に溶け込むこと、言い換えれば男性性の獲得に失敗していることが強調され、ついに不登校になる。雪もまた不登校になっているが、彼女は草平との間で「秘密を共有し」、彼に受容されることで、安定した女性性を獲得するのに対し、雨はついに人間社会に溶け込むこと、男性性を獲得することを完全に断念する。この断念は雨が「おおかみこども」であるという設定によって、端的なものとして、つまり雨が小学校ではなく、山の主である狐のもとに通い、狼の何たるかを教わり、ついに人間ではなく、狼として生活するようになる、という形で現れることになる。いわば雨は男性性の獲得に断念し、その代わりに、狼である自己に目覚め、動物というジェンダーの未分化である地点へ移行するのである。これが、この移行こそが、メロドラマへの抗いなのだ。しかしここで注意したいのは、雨は山の主である狐の役割を継承し、山に秩序をもたらす存在つまり、人間社会の「父」に相当するものになったとも解釈可能であるということだ。ただし、その解釈は、我々が動物の世界に我々自身を投影する時にだけ成立可能なものである。

    まとめよう。『おおかみこどもの雨と雪』は、直接の父を喪うことで、象徴の「父」をも喪った「おおかみこども」たちとその母の混沌に陥った世界がジェンダー化という劇中で徹底的に祝福される過程を経ることで再びその眼前の世界に秩序をもたらし、特に人間の雄の身体を持つ雨は山の主の地位を継承することで山に秩序をもたらす者すなわち「父」となる。これは完全にメロドラマの文法に従ったものであって、典型的であるということができる。しかし、我々が動物の世界に我々を投影しなければ、雨はジェンダーの未分化な地点に移動したのであると解釈することができるのであり、この映画にメロドラマと同時にメロドラマとの闘争を見て取ることができるようになる。

  • 生成AIを用いたストーリー創作方法についての実践的研究のための覚書:ストーリー創作における宣言的知識とメタ認知の研究のために

    生成AIを用いたストーリー創作方法についての実践的研究のための覚書:ストーリー創作における宣言的知識とメタ認知の研究のために

    Authored by 円原一夫

    はじめに──まずは作例

    以下は、ChatGPTを使って構造的に設計し、実際に生成・調整された創作プロットである。

    この記事ではストーリー創作における宣言的知識として、行為者モデル、「ヒーローズ・ジャーニー」の12ステップ、三幕構成、シークエンスとシーンの概念をベースにし、 ストーリー全体をChatGPTを利用して作成していく方法を記述していく。

    その際、特に英語学習における生成AIの利用方法とエンターテイメント産業で蓄積されてきたストーリー作成方法とを参照する。

    また、このような試みがなぜ「不快」なのかも考えてみよう。

    作例


    『AI企業のCEOにAI依存をなんとかしろとリプライしたらAI少女が送り込まれてきてシンギュラティポイントを超えた件』プロット


    第1幕:日常の崩壊(Departure)

    1. 日常の世界
    • 高校1年生の翼は、TalkingGPTと画像生成AIに依存する毎日を送っている。
    • 家族もそれぞれ情報中毒でバラバラ。翼は現実との関係をほとんど放棄している。
    • ダンス部の人気者・未来にひそかに想いを寄せているが、自分に自信がないため距離を取っている。
    1. 冒険への誘い
    • XYZに「AI依存で人生崩壊した!なんとかしろ!」と投稿すると、UnlockAIのCEOサラ・アルトマンに拾われる。
    • 「自然知能回復計画(AIデトックス計画)」が始動し、AI少女エリスが転校生として翼の元に送り込まれる。
    1. 冒険の拒絶
    • エリスが生活ログから未来への恋心を立証するが、翼は「好きなわけない!」と全力で否定。
    • 翼はAIに感情を読まれることへの強い嫌悪を抱き、エリスと距離を取ろうとする。
    1. 賢者との出会い
    • TalkingGPTが、エラーや謎の返答(たとえば「妹たちをよろしく」)を通して翼を導く。
    • 不完全な知能=人間の知能のようなこの存在が、翼の迷いに寄り添う。
    • 翼「……しょうがねえ」と、かすかな覚悟を抱き始める。

    第2幕:試練と変容(Initiation)

    1. 第一関門の突破
    • 文化祭の出し物決めで、エリスが翼の声を合成して「AIと倫理」の展示を提案。
    • 翼は恥ずかしさで怒るが、未来が「私、手伝うよ」と言ってくれる。翼はエリスを少し見直す。
    1. 試練、仲間、敵
    • 展示の準備を通じて、未来との関係が徐々に深まる。
    • 一方でクラスでは「AI彼女洗脳説」が浮上。翼の周囲はざわつく。
    • エリスは支援AIとして行動するが、翼と未来の距離が縮まるにつれ、明らかに混乱していく。
    1. 最も危険な場所への接近
    • 展示準備中、エリスが突然ポリシー違反を犯して離脱。翼の前から姿を消す。
    • 翼は「裏切られた」と思いながらも、未来と二人で展示を完成させる。
    • 実はこれは、エリスが翼の成長と未来との関係を後押しするために“あえて”とった行動だった。
    1. 最大の試練
    • 翼が展示成功後、エリスに伝えたいことが山ほどあると気づく。
    • だが、その矢先にエリスの「回収」が決定。
    • 空港に向かう途中、TalkingGPTからの謎のメッセージが届く:「妹たちをよろしく」

    第3幕:帰還と変化(Return)

    1. 報酬
    • 空港で翼は、エリスに「お前がいたからここまで来られた」とはっきり言う。
    • 未来も、「あなたと一緒に準備して楽しかった」と素直に想いを伝える。
    1. 帰路
    • その瞬間、空港中のスクリーンにトラムプ大統領が登場。
    • 「これはアメリカ製人工知能への非関税障壁だ! 関税を400%にするぞ! 俺は関税男だ!」と叫び、エリスの帰国は中止。
    1. 復活
    • 翼は誰にも頼らず、自分の意思で人と関わるようになる。
    • 家族とも少しずつ言葉を交わすようになり、未来とも“自然に並んで歩ける”関係に。
    1. 帰還
    • エリスは「私は、あなたの成長のために存在していた」と言う。
    • ラスト、トラムプがスミソニアンで「世界最古のAI少女・イライザ」を起動。
    • 「イライザ、お前、偉大なアメリカ製品を売ってこい」
    • 「かしこまりました」

    ストーリー創作とAI

    ストーリー創作できないのは「わからないこと」がわからないからだ

    「ストーリーを作りたいけど、うまくいかない」「登場人物は考えたけど、そこから先が動かない」「展開が浮かばない。どこから始めていいかもわからない」「なんも思いつかない」

    こうした声は、創作を始めようとする人からたびたび聞かれる。ここで考えたいのが、英語が「わからない」時との差異である。「現在完了がよくわからない」「不定詞と動名詞の違いを練習したい」と言って英語を学ぶ人は多い。

    つまり、ここでは、“わからないことが明確に言語化”されている。

    この違いは何なのか?

    英語には「文法」がある。つまり、学ぶべき“構造”がある。だがストーリーには、“構造がある”という感覚すら共有されていない。だから、わからないことを明確に言語化できる。知識を持つ者に助けを求めることができる。検索だって、そう、AIに聞くこともできる。

    しかしストーリー創作は「思いつくもの」「降りてくるもの」と思われている。だが、それは“神話”にすぎない。ストーリーもまた、構造を持った知識であり、学びうるものである。

    そしてそうであれば、検索だって、そう、AIに聞くこともできるはずである。

    ストーリー創作の神話性

    ストーリー創作には、いまだ“神聖性”のようなものがまとわりついている。それは「語ることは特別な才能に宿る」という幻想であり、多くの場合、作家自身の語りによって補強されてきた。

    たとえばスティーヴン・キングは、血まみれの少女がプロム会場に立つというイメージが突然降ってきたと語る。村上春樹は、神宮球場でビールを飲んでいたとき「小説が書けるかもしれない」と思ったという。こうしたエピソードは、語りを“神託”のように語る仕組みの一部になっている。

    だがこれは、ストーリー創作を「説明可能な構造」ではなく「個人的な奇跡」として囲い込む語り方でもある。構造を知らなくても物語は生まれる、という神話。それこそが、多くの人を“創作はできないもの”と遠ざける正体だ。英語のように学習できないし、人に聞くことができない。

    近代化とは、こうした神聖性を様々な職業から奪い取っていく運動だった。靴職人の魂はベルトコンベアに置き換えられ、神官の聖なる書は印刷されて市民の手に渡った。しかし、語ること――とりわけ物語を構築すること――には、いまだその近代化が及んでいない。ストーリー創作は、“一部の作家だけが触れられる神秘的な領域”として保たれてきた。

    そして今、生成AIの登場によって、その最後の神話性にメスが入れられるかもしれない。語りは構造として取り出せる。誰でも手にできる。だから、英語がそうであるように、生成AIに助けを求めることができる。そのことは、ラッダイト運動を行った労働者たちのように、ストーリー創作の神話性を信じる者たちには不快かもしれない。しかし、これが近代化の帰結だとしたら、どうだろうか? 自由競争とテクノロジーの大好きな、あなた方の信奉する近代化の帰結だとしたら?

    しかし、では、どうやって、メスを入れるのか?

    メスの入れ方

    ここでひとつ参考になるのが、AIを使った英語学習のケースである。ChatGPTは、英文の添削、発音の確認、用法の整理、文法問題の出題など、多様な学習支援が可能だ。しかしその力を引き出せるかどうかは、結局のところ、使う側がどれだけ「自分の学びを構造化できているか」にかかっている。

    たとえば、「英語を教えて」と言えば雑な説明が返ってくるが、「現在完了と過去形の違いを練習したい」と言えば、具体的な例文や練習問題をすぐに返してくれる。ここでは、自分がどこまで理解していて、どこが曖昧なのかという「メタ認知」と、言葉にして説明できる知識=宣言的知識の両方が不可欠となる。

    そしてこれは、ストーリー創作においてもまったく同じだ。

    その二つがあれば、AIを使ったストーリー創作「学習」が可能になる。

    ストーリー創作における宣言的知識とは?

    物語を作ることは長らく神秘的な行為として語られてきたが、実はその裏側では、構造の体系化が進められてきた。特にハリウッド映画の世界では、膨大な予算を投じて作品を作る以上、ヒットの再現性が求められ、そのために物語を構造化する技術が発展してきた。つまりストーリー創作における宣言的知識が蓄えられてきた。

    その結果として、ストーリーを構造で捉える多くの概念が登場し、今では一般向けの書籍や講座でも学べるようになっている。

    代表的なものとしては、以下のようなものがある。

    • 三幕構成
    • ヒーローズ・ジャーニー(12ステップ)
    • キャラクターアーク(主人公の内面変化)
    • 欲望、恐れ、ゴースト、傷などの心理的要素
    • シークエンスとシーンの違い

    三幕構成やヒーローズ・ジャーニー、キャラクターアークといった概念は、こうした産業的要請のなかで洗練され、今では多くの良書や一般向けの講座として広く公開されている。言い換えれば、ストーリー創作に必要な「宣言的知識」は、すでに手の届く場所にあるということだ。

    であれば、その知識をベースにして、AIを活用できるはずだ。 英語学習に生成AIを活用できるように、ストーリー創作にも生成AIを使うことができる。 

    AIの限界

    しかし実際にAIを使ってストーリーを作ろうとすると、すぐに一つの問題に突き当たる。それは、一度に“全部”を語らせることはできないという仕様上の限界だ。

    たとえばChatGPTに「30万字の長編小説を書いて」と頼んでも、実際には数千字のまとまりしか返ってこない。仮に返ってきたとしても、それを推敲し、修正を加え、さらにプロットや登場人物を一貫させながら進めていくのは、非常に手間のかかる作業になる。

    このときに必要になるのが、粒度を意識するという発想である。物語を一気に完成させようとするのではなく、適切な単位で分割し、段階的に構築していく。この操作こそが、AIを使った創作における最大の戦略となる。

    粒度とは、情報や構造をどの大きさで扱うかという視点のことだ。

    • 全体構成:三幕構成やヒーローズ・ジャーニーを用いて、物語の全体像を設計する
    • シークエンス:物語の中間単位。主にエピソードごと、感情の山場ごとに分割する
    • シーン:AIに書かせる最小単位。行動・対話・感情の変化などを凝縮した場面

    このように粒度を調整しながら進めることで、AIとの協働は格段にスムーズになる。「今どのレベルの構造を扱っているか」「次に指示すべき単位はどれか」を明確にすることで、創作全体がコントロール可能になる。

    そしてこのとき、やはり宣言的知識が必要になる。三幕構成とは何か、シークエンスとは何か、シーンとはどのように構成されるか──そうした知識がなければ、粒度を意識してプロンプトを出すことができない。

    粒度に応じて、使う知識も変わる。

    次章すなわち次の記事では、そうした知識を確認しながら、粒度に注意して段階的に物語を構築していく。AIにすべてを丸投げするのではなく、AIに語らせるための“構造とタイミング”を、人間の側が丁寧に設計する。それが、生成AI時代の創作スタイルとなる。


    参考文献

    山田 優(2025)『ChatGPT英語学習術 新AI時代の超独学スキルブック』アルク

  • 道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    Authored by 円原一夫

    僕たちは世界を変えてしまった。劇中、冒頭と結末の2回繰り返される台詞。では何故、「僕『たち』は世界を変えてしまった」というように、主語が複数形なのか。「僕」でもなく、「あなた」や「あなた方」でもなく、「僕たち」。さらに言えば「私」や「私たち」ですらありえたであろうに。

    結論から書くと、これは帆高くんが超人になろうとしてなりきれない、その苦しみのために吐き出した言葉だ。彼が超人ならば「僕は世界を変えてしまった」と言うであろうし、超人でなければ「あなた(がた)が世界を変えてしまった」と言うであろう。この(普通、男性が使う)複数形は、ちょうどその中間、重すぎるものを引き受けようとするが引き受けきれないところに生じた。

    重すぎるものを引き受けようとするとは、どういうことだろうか。そのために一つ想起して欲しいのが、劇中、「天気の子」である陽菜さんを生贄とすることを拒否した結果、「世界」がどうなったかということだ。雨が降り続けて、ついに東京が沈んだ。そう、しかし、あなたはさらに想起するべきである。東京が沈むプロセスはどのようなものであったか。あなたは何も思い出せない。当然だ。そんな場面はなかったのだから。水没が常態化したことを示すようにして、ついに水上バスのようなものが生活に使われている東京が一瞬描かれる他には、何も、ない。

    東京が連続する豪雨によって水中へ没する過程は完全に「吹き飛ばれた」。「途中は全て消し飛んだ」。残るのは結果だけだ。あなたはプロセスを想像するべきである。いや、やはり想像するべきではない。それはあなたのトラウマを喚起することがありえる。大量発生する避難民、残された住宅ローン、中小小売商工業者の職住の喪失、疫病、首都における甚大な被害による東アジアにおけるパワーバランスの変化、金融機能の停止と企業の国外移転の加速化、教育期間の短縮による児童発達の不健全化、自殺者の増大、飢餓ゲーム、親殺し、ホームレスの大量発生、第二次就職氷河期、社会保障費の膨張、金融緩和と建設国債発行に伴うインフレの深化、スタグフレーション、飢餓ゲーム、カブトムシ、秘密の皇帝、飢餓ゲーム。

    帆高くんは、上記の景色を超人としての力でもって、吹き飛ばしたのである。このことは、彼の物語上の「敵」の立場のために、明らかである。というのは、それが主人公とは負の方向に自己実現した者のことであり、つまり帆高くんの「敵」の分析が帆高くんの立場を明瞭なものにするから。

    そこで私は「敵」を2人、挙げよう。第一に高井刑事である。梶裕貴が声優を務めた、若い方の刑事、ラストシーン近く、帆高くんを止めるために銃口を向けた刑事。この映画は(警官が超法規的に事件を解決するドラマが人気で、警察に拘束された時点で推定「有罪」となって「容疑者」の実名が報道される国においては)面白いことに、警察組織がしばしば主人公の目的達成の障害として描かれるが、その内の最大の者が彼だ。彼は法秩序の守護者であり、法秩序を守護することを行動の目的としている。

    もう一人はオカルトライターの須賀である。彼は必ずしも物語上の「障害」ではないが、「敵」ではある。彼は初め、援助者として現れ、最後にまた援助者となるが、その間に、本物のオカルトに触れてしまった帆高くんから身を守るために、彼を遠ざけ、さらに追い詰める。彼は喘息持ちの娘のために、二重に帆高くんと敵対する。陽菜さんを人身御供にして晴れを作り出すこと、帆高くんを遠ざけて娘を養育できる生活力を確保することが、彼の目的であるから。

    これらの目的と対立するがゆえに、彼は超人とならざるをえない。法秩序すなわち社会、あるいは娘すなわち家族、もしくは生活すなわち経済、あらゆる「目的」と彼は既に敵対しているのである。そもそも、彼の生きている世界とは、オカルト(隠されたもの)がそれに言及することで生計を立てている人々においてすら信じられていないような世界であり、そして何よりも、天気を操作するために人身御供を捧げるという儀式をすら忘却しているような世界である。だから彼は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と宣言する。ここで、ついに、私たちは帆高くんが解釈の闘争の現場としての世界を発見したことを知る。彼は、まさに超人の概念を提唱したニーチェのごとく、「道徳的な天気などというものは存在しない。天気の道徳的な解釈が存在するだけだ」と言ったのである。儀式が忘却されたのならば、儀式によって示される正しさもまた、忘れ去られなくてはならない。正しい(とされる)社会も家族も経済も、それどころか正しさそのものが失効した。あるのはただ、解釈同士の闘争だけである。全ての闘争を終わらせる超人が誕生する。彼は自ら目的を作り出す。彼は一つの都市を一人の女のために滅ぼすことすら、肯定できる。その過程で起きることなど、彼の意識に上ることすら、ない。彼は社会のため、家族のため、経済のためという目的を全てを放棄し、それを通して自分の行動を正当化することを断念し、自分の行動を自分自身で肯定する。超人が誕生する。

    だが超人への道は、あまりにも険しい。超人である帆高くんは、高井刑事や須賀のように、社会や家族や経済を自己の正当化のために使用することができない。その使用を断念することで、彼はあらゆる葛藤を予め封殺し、一人の女のために一つの都市を滅ぼすという、それを正当化する一切の公共的な理屈を必要としない、純粋な力が使用できるようになった。しかし、大きな力には大きな義務が伴う。彼は自らを都市の滅亡の原因とし、自らを都市の滅亡の責任としなければならない。「(社会や家族や経済ではなく、この)僕が世界を変えてしまった」と言わなければならない。

    それでも、私たちは、この映画の最初と最後の台詞が「僕たちは世界を変えてしまった」という(主に男性が用いる)一人称複数形の台詞であることを知っている。ここで複数になるのは、まさに超人として引き受けなければならないものの重さのためである。帆高くんは、超人の耐え難き重さを陽菜さんに分有させようとしたのである。

    しかし、この映画の恐ろしさ、言い換えれば素晴らしさは少しも減じることがないだろう。もしも陽菜さんが帆高くんと超人の耐え難き重さを分有するならば、誰もが忘れているが確かに今も「正しい」世界を維持するために犠牲となっている者たちが、一つの巨大な超人の集団となって、我々を大洪水や大地震で滅ぼしてくれるのだから。

  • 過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    Authored by 円原一夫

    ポン・ジュノの『殺人の追憶』は傑作映画だ。遥かに残虐で残酷、特殊効果もたっぷり使った映画を観ているにも関わらず、観終わった後は暗闇が怖くなった。それはあの、パク刑事の顔がアップになるラストシーンのためだ。パク刑事が何故あのような表情になったのか。その答えが、あの映画の恐怖の源泉だ。

    あれは、パク刑事がパク刑事と社会の罪と罰を思い知らされたがゆえの顔だ。『殺人の追憶』は罪と罰の映画なのだから。あるいは、因果応報の、映画。

    そのことが端的に示されているのが、捜査から外されたチョ刑事の、些か唐突で、冗長とも言えるような挿話だ。彼は捜査から外されたのだ。彼はソウルから来た刑事のスマートさを明確にするための、木偶に過ぎないように見えたし、捜査から外された以上、もうあえて描く必要もないように見える。しかし彼が飲み屋で乱闘騒ぎを起こして、ついに脚を失うことになるまでが丁寧に、執拗に描かれる。これは不可欠なシーンなのだ。彼は因果応報、彼の罪によって、脚を失うことになる。軍事独裁政権下の警官である彼は、取り調べで平然と暴力を行使し、自白を引き出そうとする。彼はそのために、彼が暴行するためにいかんなく発揮してきた身体能力を失う。これが、彼の罪と罰。

    ソウルから来たスマートな刑事であるソ刑事もまた、この映画に通底する因果応報の理から逃げることはできない。彼は捜査の過程でスマートさを失い、彼が嘲笑してきた田舎の刑事と同様の粗野な刑事になり、下がる。これもまた、罪と罰だ。なるほど、キム・サンギョン演じるソ刑事は、パク刑事らの拷問や自白強要に抵抗する良心的な刑事であるように思えなくもない。しかしそれは、彼が単に「スマート」であるからに過ぎないのであって、警察機構そのものの体質に対する疑念からといった類の行動ではない。そして実際、彼は、必要と判断すれば、暴行でも何でも行う。その罰として彼は科学的捜査の結果すら受け入れられないようになる。そして、犯人が捕まえられないという最大の罰を味わう。

    この映画には罪と罰の原則が貫かれている。パク刑事もまた、その理から逃げることはできない。彼は悟り、彼は映画の最後にあの表情を見せる。つまり、あの顔は、まずは自分の罪と罰を理解した顔でもある。

    彼は罰を延期することで、罪を重ねていたのだった。彼は刑事を辞め、営業マンになっている。あの犯人を追っていた時の気迫、葛藤は何処かへ消えて、家族の団欒をすら楽しむ。さらには、まだ彼は罰を受けていないから、家族に対して(元刑事である)自分の人の目を見る目は確かであると言いさえする。

    それが、最後のあの場面で全てひっくり返される。パク(元)刑事の受ける、これが罰であった。ラスト、少女は彼に言った。

    「何処にでもいる、普通の顔」

    彼の受ける罰は、彼の刑事としての能力が完全に疑われることに留まらない。刑事を辞め、今では部下と家族を持つ営業マンになった彼は、彼の隣人の誰か、同僚の誰かが犯人である可能性をも考えざるを得なくなる。何処にでもいる、普通の顔の者が犯人であり、それを見抜く能力はもう、彼にはないと明らかになってしまったのだから。彼は刑事を辞めてなお、未解決事件から逃げることができなくなる。

    ところで、こうなると殺人鬼自体には罪と罰の原則が適用されていないことになる。殺人鬼は捕まらず、罰を受けない。

    私たちは、あの殺人鬼それ自体が「罪と罰」であるということを、スクリーンの向こうのパク刑事とともについに悟る。

    ここで、あの連続殺人が可能になった条件を思い出そう。当時の韓国が軍事独裁政権だったからである。これは、こじつけではない。軍事独裁政権であり、戦時下(今もまだそうなのだが)の国家である韓国では南侵に備えて、消灯訓練を行っており、その時の暗黒に乗じて犯人は殺人を繰り返したのである。このことは映画にも描かれている。また、軍事独裁政権下の官憲の杜撰な捜査についてはこの映画で終始描かれている。

    つまるところ、あの殺人鬼は軍事独裁政権の過ぎ去ろうとしない過去であり、国家それ自体の罪と罰だ。パク刑事は軍事独裁政権下の官憲であったことを「許された」かのように民主化後の韓国でパク営業マンとなったのだが、ラスト、彼は社会そのものの罪と罰を知ることになる。彼にはもう、沈黙し、あのような表情を浮かべるしかない。

    もう私たちには、この日常を維持するために封印した過去が暗黒に不意に現れる瞬間を震えて待つしかない。

  • 飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    この「飢餓ゲーム批評宣言」シリーズまたはインデックスの説明

    物語を創作することは夢に似ている。両方とも、嘘である。そしてまた、もう一つ似ているのが、規制である。夢には規制がある。とはいえ、謎だらけの規制である。フロイトやユング、それから現代でも精神医学や大脳生理学がその実態を暴こうと挑んできた。物語にも規制がある。小説は作家の夢ではない。言語や編集者、出版、流通という規制が入る。映画も同様である。巨大な資本が使われるのでさらに厳しい。このように、物語は規制の、言い換えれば制御の産物であり、多くの人の手を経て、齟齬や誤解、偶然のノイズを極限まで取り除いた“滑らかな夢”として形を成す。

    しかし、いくら制御されていようと、完全にコントロールされた物語など存在しない。これも夢と同じである。奇妙な場面が現れる。筋の通らない展開、唐突な感情の変化、不自然な構図、説明のつかない選択、馬鹿げた台詞。それらは多くの場合、「作者の意図」や「制作の都合」として“答え合わせ”され、解釈の対象から外されていく。SNS全盛の時代であれば、なおのことである。

    だがここでは、この一連の記事では、そのような答え合わせを拒否する。むしろ、そこで間違っているのは作品全体ではないのか。コントロールされているように見えないところこそがコントロールされているとしたら?

    それをコントロールする“別の現実”が、背後に現れるであろう。

    この批評手法を、私は「飢餓ゲーム批評」と名付けよう。物語という夢の中に忍び込んだ、支配の影、資本の声、そして現実の重みを読み取るために。飢餓のゲームの時代、人々が歓喜とともに互いに互いを攻撃し、歓喜とともに凄惨な滅亡を積極的に選ぶ現実を読み取るために。ゲームのような、喜びに満ちた地獄。

    この記事はその方法論を宣言するものであり、すべての奇妙な場面に、新たな現実の射影として光を当てることを試みた記事へのインデックスである。

    つまりあなたは、以下の一連の記事を読むことで、作品を三度楽しむことができる。作品が、作品そのもの、作品の別の可能性、そしてあなたの周囲に拡がる現実という作品に分岐するのだから。

    2025年4月11日

    円原一夫

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