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  • 文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    文明の崩壊を志向するほどの自己批判:Deep Green Resistance『20の前提(Premises from “Endgame”)』

    Authored by 円原一夫

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    自己批判という言葉がかつてあった。日本の左翼は、その言葉を信じていた。だがそれはいつしか内ゲバと粛清へと変わり、外へ向かうはずの力を内側で燃やし尽くした。そして彼らは、敗北し、分裂し、瓦解し、その言葉も思想も、忘れ去られた。かつての左翼は環境運動などに亡命し、マルクスはエコロジーの文脈で語られることで、どうにか書店に平積みされている。

    自己批判が無意味だったのか。いや、むしろ──足りなかったのかもしれないとしたら、どうだろう? もしその刃を、もっと深く突き立てていたらどうか。組織でも路線でもなく、自分たちが当たり前のように依存していた、文明そのものに対して。産業、進歩、成長、人間中心主義という幻想。

    それを本当に行おうとして、文明を“誤り”と呼び、それごと終わらせようとする者たちがいる。

    Deep Green Resistance――。

    彼らは、もちろんアメリカの運動体なので、自己批判とは言わずに、根源的な自己批判を実行している。

    実に、不気味な連中だ。文明の崩壊を望んでいる。もしそれが起きれば、私も、あなたも、AIもスマートフォンも使えなくなる。だが、だからこそ、私たちが無力なのだとしたら? 労働組合が経営者に恐れられるのは、ストライキができるからだ。医療・介護の労働者がなめられているのは、ストライキができないからだ。

    では、もっと根源的になめられているとしたら? 文明そのものに、「お前らにはストライキなんかできない」と、そう思われているとしたら?

    クーラーが欲しいから。洗濯機が欲しいから。スマートフォンも、車も、インターネットも。それが欲しいから、文明には逆らえない。だから何も壊せない。だから、なめられている。誰がこの文明の経営者なのか──それは今、私は言わない。それを考えるのはまた別の人間だ。私はただ、こう言っておく。

    Deep Green Resistanceを見てみろ。

    自己批判を本当に徹底するとはどういうことか。文明にストライキするとは、どういうことか。

    言うなれば、この文章は自己批判ということの、論理的徹底の、一つの帰結のサンプルの分析とその結果である。

    2

    今日、環境運動は数多くある。ペンキを美術館に投げつける者。街を封鎖し、政府に気候政策を迫る者。グレタ・トゥーンベリのように、世界中でメッセージを発信する者。

    だが、それらの運動が注目されるようになる以前、2011年にすでに、より過激で、より静かな運動体がいた。

    Deep Green Resistance(DGR)。公式ホームページ

    地球を守るために文明を終わらせようとする運動体である。

    産業文明そのものを終わらせること──それが彼らの目標である。

    DGRの公式サイトには、さまざまな表向きの活動が紹介されている。オンラインや対面での講座、環境保護キャンペーン、フェミニズムやエコ哲学の理論構築、地域生態系の学習支援。
    「抵抗の文化」を育てる活動としては、ごく常識的な範囲にも見える。

    YouTubeチャンネルの登録を促し、メーリングリストを配信し、著作の図書館への推薦を呼びかける。販売しているTシャツやパーカーは意外に可愛らしい。

    年次カンファレンス(Annual Conference)は、公式ホームページのポスターによると戦略や思想を語り合い、焚き火を囲んで詩を朗読するとのことである。自然の中で暮らしを語り直す、どこか牧歌的な空気すらただよう。そして、自らの思想書を“other radical titles”と呼び、図書館や書店に置かせようとする。自分たちの思想を公共空間に浸透させようとする。

    だが、同じ公式サイトに、別の層がある。

    DGRは明言する。「抵抗運動の各部門は連携しなければならない」と。

    “The different branches of a resistance movement must work in tandem: the aboveground and belowground, the militants and the nonviolent, the frontline activists and the cultural workers.”
    —— Deep Green Resistance, About Us

    地上と地下、武闘派と非暴力、前線の活動家と文化的労働者。
    それらは分断されるべきではない。すべてが連動してこそ、抵抗運動は成り立つ。

    さらにDGRニュースサービスには、「Underground Action Calendar」という特異なページが存在する(DGR News Service)。

    そこでは、世界各地で行われた環境インフラへのサボタージュ行動が記録されている。GMO作物の破壊、パイプライン、変電所、送電網への攻撃など。

    DGR本体は「これらを必ずしも支持するものではない」と記すが、同時にこう書いている。

    “The Underground Action Calendar exists to publicize and normalize the use of militant and underground tactics in the fight for justice and sustainability.”

    訳するとすれば、こうである。

    The Underground Action Calendar exists to
    「地下アクション・カレンダーは、~するために存在している」

    publicize
    「 公にする、広く伝える」

    and normalize
    「正常なものと見なす、一般化する、日常化する」

    the use of militant and underground tactics
    「戦闘的(militant)かつ地下的(underground)な戦術の使用」

    in the fight for justice and sustainability
    「正義と持続可能性のための闘争において」

    すなわち、“正義と持続可能性のために、戦闘的で地下的な戦術を公開し、正当化する”。

    以上は、Deep Green Resistanceという運動体の思想的な二重構造=地上と地下の戦略的分業を物語っている。

    地上活動(aboveground)と地下活動(underground)という“二重戦略”。

    地上では教育や啓発を行い、地下では直接行動や破壊活動を担う。

    DGRはこの区分を明確に意識しており、FAQページでは次のように説明されている:

    “In DGR we use these terms to distinguish between different parts of a movement. ‘Aboveground’ refers to those parts of a resistance movement which work in the open and operate more-or-less within the boundaries of the laws of the state. This means that aboveground activism and resistance is usually limited to nonviolence. DGR is an aboveground organization; we are public and don’t try to hide who we are or what we desire, because openness and broad membership is what makes aboveground organizations effective.”
    Deep Green Resistance, FAQ

    すなわち、DGR自身はあくまで“地上の非暴力的な公開組織”であることを繰り返し強調している。

    しかしその一方で、地下活動とは何かについても、明瞭に定義している:

    “‘Underground’ or ‘belowground’ refers to those parts of a resistance movement which operate in secret… Generally, these groups use more militant or violent tactics like property destruction and sabotage to achieve their goals.”
    — 同上

    DGRはこうした地下組織に関わらないと明言しつつ、その存在と機能を否定していない。

    “DGR is strictly an aboveground organization. We will not answer questions regarding anyone’s personal desire to be in or form an underground… We do this for the security of everyone involved with Deep Green Resistance.”
    — 同上

    すなわち、違法行為を推奨しないとしつつも、「誰かがやらねばならない」と黙示する。

    Underground Action Calendarまで用意して、それを「日常の抵抗戦術」として記録・共有している。

    これはもはや否定ではなく、別の形式による肯定と見るべきだろう。

    地上の活動だけでは足りないという認識。誰かが、インフラを、構造を、文化を破壊しなければならないという認識。そこにあるのは、文明の自壊を志向するほどの自己批判である。

    その深さは、ある一節に凝縮されている。

    “The authors of this book are not blithely asking who will die.
    In at least one of our cases, the answer is ‘I will.’
    I have Crohn’s disease, and I am reliant for my life on high tech medicines.
    Without these medicines, I will die.
    But my individual life is not what matters.
    The survival of the planet is more important than the life of any single human being, including my own.”
    — Deep Green Resistance, FAQs

    クローン病という、現代医療に支えられて生きている人間が、それでも文明の崩壊を肯定する。

    「自分の命が絶たれる未来を予測しつつ、なお文明の終焉を求める」

    もちろん、著者が実際にクローン病であるかどうか、文明が崩壊したときに本当に命を差し出すのか──それは検証のしようがない。だが重要なのは、「文明を崩壊させろと言うが病気の人はどうするのか?」という問いに、こう答える世界観があるという事実だ。

    3

    DGRが共有しているこのような世界観は、どのような内的構造に支えられているのだろうか?

    その鍵となるのが、DGRの共同創設者Derrick Jensenによる著書『Endgame, Volume I: The Problem of Civilization』(2006)に提示された「20の前提(20 Premises)」である。


    1|文明は持続可能ではなく、暴力に依存している

    “Civilization is not and can never be sustainable.”
    — Premise One
    出典:DGR Seattle支部著者公式サイト

    第一の前提でJensenは断言する。文明は持続可能ではない。文明は、自然資源を消費し、環境を破壊し、他の文化を侵略することによってしか存続できないとされる。

    “Our way of living—industrial civilization—is based on, requires, and would collapse very quickly without persistent and widespread violence.”
    — Premise Three

    現代の生活そのものが、暴力に依存しているという主張。これは直接的な戦争に限らない。資源の採掘、水の汚染、動物の絶滅、植民地主義、気候崩壊。これらすべてが、見えづらい形で日常に組み込まれている。


    2|この文明は変わらない。ならば止めるしかない

    “This culture will not undergo any sort of voluntary transformation to a sane and sustainable way of living.”
    — Premise Six

    この文明は、自発的に正気や持続可能性の方向へ進まない。小手先のエコ活動や政策修正では、システム全体の暴力性は残り続ける。

    “The longer we wait for civilization to crash—or the longer we wait before we ourselves bring it down—the messier will be the crash…”
    — Premise Seven

    だから彼らは語る。待つのではなく、終わらせた方が傷が浅くて済む。これが、DGRの思想の根幹にあるロジックだ。


    3|「愛」があるなら、破壊を否定しない

    “Love does not imply pacifism.”
    — Premise Fifteen

    愛は非暴力を意味しない。むしろ、真に愛しているなら、破壊という選択肢をも取らねばならない時がある。この前提は、従来の倫理体系を反転させる。

    「優しさ」や「平和」といった語が、本当に守るべきものを守っていないとき、その語の意味そのものが、疑われるべきだと彼らは言う。

    『Endgame』の20の前提は、単なる問題提起ではない。
    それは、“人類が常識としてきたものすべて”を再審査させるための爆薬である。

    • 文明は善なのか?
    • 進歩は進歩なのか?
    • 成長は誰のためなのか?
    • 自然は、誰かに従属すべき存在なのか?

    DGRの思想はここから始まり、現実の行動(教育、地下戦略、サボタージュの肯定)へと展開していく。

    彼らの自己批判は、もはや自分たちの組織や文化を対象にするものではない。文明という“全体”に向けられた、徹底的な否定の形式である。彼らは、産業文明に対する不満を言っているのではない。それを支える世界観そのものに対して、“やめよう”と言っている暴力の連鎖、依存の連鎖、そして希望の連鎖すらも、断ち切ろうとしている。

    これが徹底的された自己批判が到達した、冷静な絶望である。

    4

    以上が、文明の自壊を志向するほどの自己批判のロジックである。私たちはそれを、DGRというサンプルを通して確認した。

    彼らのロジックは、よくできている。

    しかし反論は簡単なはずだ。

    人類は進歩している。テクノロジーの発展で、病気も減った。
    生活は豊かになり、寿命も延びている。産業革命からの数百年で、私たちは世界を変え、自然を克服し、より自由で、より素晴らしい社会を築いてきた。

    過ちもあるが、それでも前に進んでいる。まだ道半ばだが、少しずつ良くなっている。──そう言えばいいだけの話だ。

    だが、それが私には、どうにも言えない。喉まで出かかったその言葉が、なぜか口をついて出てこない。

    ちょうど、純粋な革命主体を求めて物理的な暴力すら用いた自己批判を続ける同志に、何も言えなかった左翼の活動家たちのようなものであるか?

    純粋さに棹さす言葉が出てこない。

    それでもあえて、反論してみせようか? 左翼の小グループの活動家の一人ではなく、文明が自己批判を要求されているのだから。私が庇ってやるべきではないか?

    こんな反論はどうだ?

    希望がある。計画がある。

    国連は、2030年までに貧困と飢餓をゼロにすると決めた。気候変動も、生物多様性の崩壊も、ジェンダー不平等も、克服する予定だ。

    もちろん今は少し遅れている。貧困は増え、飢餓は広がり、気温は上昇し続けている。だが、それはただの一時的な乱れにすぎない。むしろそれは、計画の柔軟性と人類の挑戦心を示している。

    我々はどんな困難にも打ち勝てる。

    国連には、世界中の優秀な頭脳が集まっている。わが国も、多額の資金を拠出しているではないか。彼らが、ちゃんと考えてくれている。そうに違いない。そうでなければ、何故、金を出す必要がある?

    データが遅れているだけで、現実はきっともっと良くなっている。

    それに、私たちにはテクノロジーがある。ドローンで植林し、AIが配給を管理し、再生可能エネルギーが世界を救う。

    すべてはうまくいく。

    明日は今日よりも、絶対に良い。SNSで誰かがそう言っていた。結構なことじゃないか。

    Good luck、人類。未来には希望しかない。おめでとう。

  • 金の力とは生産と流通の過程を忘却させる力のことである:マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

    金の力とは生産と流通の過程を忘却させる力のことである:マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

    Authored by 円原一夫

    金の力とは何であるのか、そのことが本書を読めばわかる。この本は金の力をなくした男の本だからだ。我々が金の力のある状態と金の力のない状態を比較することを、この本は可能にする。とはいえ、あまり悲壮感はない。金の力を欲しながら金の力をなくした男の話ではなく、金の力を意識的に自分から切り離そうとした男の話だからだ。この悲壮感の欠如が、何よりも重要である。これは、あくまで金の力なしで「生活」しようとした本だ。例えば予め一年分の食料を買い込んで、意識の喪失している時間を増やそうと睡眠薬を飲み続けるとか、そういう話の本ではない。

    金の力など、もう、知り尽くしているとあなたは言う。あなたは金で苦労したり、金で快楽を味わったり、政府は信用できないが金融庁は信用して米国株インデックスをつみたてNISAで購入したりしている。しかしそれは金の力の一面に過ぎない。やはり、あなたは金の力を知るために、この本を読むべきだ。あなたは空気の力を知っていて、換気したり、深呼吸をしたりするかも知れないが、あなたは空気の力を私の言うような意味で知らないから、夕食の残りを入れたジップロックやUSBの差込口に息を吹き込む。

    では金の力とは何か。金の力は望むものを手に入れる力ではない。そのような力は他に幾らでもある。それは金の力の本質ではない。本書が示しているのは、まずはそのことである。あなたも、もうそれは薄々、理解している。だからあなたは自国通貨が毀損されて家計簿アプリの米国株インデックスの名目価格が上がった表示を見ると嬉しくて仕方ない。

    既に私は本書が「意識的に」金なし男となり、なお「生活」を試みる男の話と書いたが、そのおかげで、金の本当の力が明らかになる。彼はありとあらゆる手段を使って、金なしに食料を獲得し、トレーラーハウスを獲得し、トレーラーハウスを置くための土地を獲得し、金なし生活を開始する。さらにまた、金なし生活中にクリスマスに両親の実家へ訪れたり、海を渡ったりもする。具体的な手段の詳細については、あなたはこの本を図書館で借りて読むことで知ることができる。大まかには、あなたはここで読むことができる。大まかには、膨大なコミュニケーションによって、である。彼は実は本書執筆時点でフリーエコノミー運動という、自分の持っている有形無形の物をシェアするための運動の活動家なのだが、まずはそのコネクションがあり、食べられる野草の知識を得たり、必要とされなくなったトレーラーハウスにアクセスできる。また、巨大な農場を営む人々と繋がりがあり、彼は自分の労働を提供する代わりに農場の片隅にトレーラーを置かせてもらうように交渉し、成功し、家賃から解放される。実家には徒歩、ヒッチハイクなどを用いる。

    本書の記述の半分以上は、これである。つまり金なしに必要なもの、望むものを手に入れるための膨大なコミュニケーション、交渉、試行錯誤である。だから、私とあなたはこう言ってよい。金の力とはコミュニケーションの圧縮である、と。ある人とある人がお互いの有形無形の所有物を交換するという、この極めてありそうもない、マーク・ボイルがそれ自体で一冊の本を書くことができるほどに膨大なプロセスを、しかし明日も明後日も継続されるはずだと誰もが信じられるもの――すなわち経済システムへと転換させることができる、猛烈なコミュニケーションの圧縮、捨象である。あなたが金にうんざりしているが、金が欲しくて欲しくてたまらないのも、このためである。あなたはスーパーマーケットの店員(の実際は雇用主と株主)が、あなたがスーパーマーケットに行った時に欲しがるものを知らない。そこで、あなたは、九時から十七時(またはそれ以上)の時間帯にあなたの雇用主と株主が欲しがる労働に従事し、代わりに金をもらう。そして、この金を持っていくと、スーパーマーケットの店員(実際は雇用主と株主)もそれを欲しがり、店内の商品との交換を持ちかけてくる。だから、あなたはマーク・ボイルがしたような、スーパーのマネージャーや地元NPO団体と交渉したり、ゴミ箱を漁ったりすることなしに、なんだったらAirPodsを耳につけてSpotifyのストリーミングをする音楽を聞いてスーパーの店員など会話するに値しないという態度を示しながらも、スーパーの店員に殴られたりせずに商品を手に入れることができる。

    しかし、どんな力も常に両義的なものである。金の力とは、コミュニケーションを圧縮する力なのであるが、そのことが問題を引き起こす。この本が、今や自国通貨の価値を毀損するしか経済政策を持たないどこかの国の書店に平置きされている、どこかの国の輩が書いた節約本と違うのは、そのことを直視しているからだ。そもそも、マーク・ボイルが金なし生活を始めたのが、その問題のためであった。マーク・ボイルはもうビジネスマン生活に疲れたとか、家族や地元の人と助け合ってくらしたいとか、金なし生活を始めた理由を幾つか書いているが、その中の一つを引用しておこう。

    お金は、富を簡単に、しかも長期間しまっておくことを可能にする。この便利な貯蔵手段がなくなったとしたら、地球とそこに住むあらゆる動植物の収奪を続けようと思うだろうか。必要以上の量を取っても利潤を簡単に長期保管できる方法がなければ、おのずと、そのときどきに必要なだけの資源を消費するようになるだろう。熱帯雨林の木々を誰かの銀行預金残高に変えることもできなくなるから、毎秒一ヘクタールの熱帯雨林を伐採する理由自体がなくなる。木が必要になるまでは地面に植わったままにしておくほうが、ずっと理にかなっている。(p.26)

    これはつまり、金の力すなわちコミュニケーションを圧縮する力の、別側面、別の視点からの描写である。あなたがランチの時に入る、駅ビルの珈琲チェーンのことを考えてみてもよいし、あなたが退勤後に買う死んだ動物の一部や、衣服のことを考えてみてもよい。あなたが金の力なしに、そこで売られていたものを手に入れようとすれば、あなたはそれを作っている過程について考えなくてはならない。マーク・ボイルはそうしている。これはマーク・ボイルが環境活動家だから、という、ただそれだけの理由ではない。彼は、自分が環境問題を意識しており、またビジネスに疲れ果てて金なし生活をしている身であるから、こうして交渉してあなたに所有物を渡して欲しいと頼んでいると交渉せざるをえない。だから彼は地元のNPO団体や有機農家に接触するのである。だから、彼は、金の力によってコミュニケーションを圧縮し、イデオロギーを問われないあなたのように、フェルキッシュな入植政策を続ける国に献金して標章されたCEOのために稼働する珈琲チェーンの珈琲を飲み、病原菌だらけの現場で移民に解体作業をさせたあと、繁忙期が終わったので移民局に通報して解雇の手間を省く食肉業者の供給する死肉を食べ、自動小銃を突きつけられながら裁縫する児童労働者の指紋のなくなった指から生まれた衣服を着ることになるならば、血の臭いや血の味や血の色を無視することができない。逆に言えば、金の力があれば、それを無視することができる。そして富と問題が蓄積されていく。

    あなたはまだ金の力を理解していない。だから、この本を読むべきだ。忙しく、また繊細なあなたはこの記事を読むことで金の力を知ったつもりになり、この本を読む時間を圧縮し、金の力をいつまでも享受できるように証券会社のアプリに指紋認証でログインする。または節約して、確定拠出年金の拠出額を増やそうとする。だが、あなたはまだ金の力を理解していない。何故って、あなた――あなた方の老後の二千万円のために、今日も株主たちはあなたの人件費を圧縮するように経営者を怒鳴りつけているからである。

    このあと、マーク・ボイルはいよいよ「テクノロジーを使わずに生きることに」なり、その成果を一冊にまとめることになる。それについては、別の機会に書くことにしよう。とにかく、この本は金の力のメリット・デメリットがともにわかる傑作なので、読んで損はない。どちらかだけを強調する人間が多すぎる世の中にあっては。

  • 飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    飢餓ゲーム批評宣言:シリーズ記事のインデックス

    この「飢餓ゲーム批評宣言」シリーズまたはインデックスの説明

    物語を創作することは夢に似ている。両方とも、嘘である。そしてまた、もう一つ似ているのが、規制である。夢には規制がある。とはいえ、謎だらけの規制である。フロイトやユング、それから現代でも精神医学や大脳生理学がその実態を暴こうと挑んできた。物語にも規制がある。小説は作家の夢ではない。言語や編集者、出版、流通という規制が入る。映画も同様である。巨大な資本が使われるのでさらに厳しい。このように、物語は規制の、言い換えれば制御の産物であり、多くの人の手を経て、齟齬や誤解、偶然のノイズを極限まで取り除いた“滑らかな夢”として形を成す。

    しかし、いくら制御されていようと、完全にコントロールされた物語など存在しない。これも夢と同じである。奇妙な場面が現れる。筋の通らない展開、唐突な感情の変化、不自然な構図、説明のつかない選択、馬鹿げた台詞。それらは多くの場合、「作者の意図」や「制作の都合」として“答え合わせ”され、解釈の対象から外されていく。SNS全盛の時代であれば、なおのことである。

    だがここでは、この一連の記事では、そのような答え合わせを拒否する。むしろ、そこで間違っているのは作品全体ではないのか。コントロールされているように見えないところこそがコントロールされているとしたら?

    それをコントロールする“別の現実”が、背後に現れるであろう。

    この批評手法を、私は「飢餓ゲーム批評」と名付けよう。物語という夢の中に忍び込んだ、支配の影、資本の声、そして現実の重みを読み取るために。飢餓のゲームの時代、人々が歓喜とともに互いに互いを攻撃し、歓喜とともに凄惨な滅亡を積極的に選ぶ現実を読み取るために。ゲームのような、喜びに満ちた地獄。

    この記事はその方法論を宣言するものであり、すべての奇妙な場面に、新たな現実の射影として光を当てることを試みた記事へのインデックスである。

    つまりあなたは、以下の一連の記事を読むことで、作品を三度楽しむことができる。作品が、作品そのもの、作品の別の可能性、そしてあなたの周囲に拡がる現実という作品に分岐するのだから。

    2025年4月11日

    円原一夫

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    Authored by 円原一夫

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    スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。

    アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべてオンラインで完結する。行政手続きも、就職活動も、銀行や保険の管理も、SNSを介した人間関係ですら、通信端末の所有を前提としている。それを持たない者は、もはや「社会に適応していない」とみなされる。

    テクノロジーを「使う自由」は、いつのまにか「使わないことができない不自由」へと変質している。

    では、私たちには、そこから距離をとる自由が残されているのだろうか。テクノロジーを拒否する選択、あるいはそれを選ばない生き方は、まだ可能なのか。

    この問いに対し、ある人物の名前を思い出さずにはいられない。

    ユナボマー――セオドア・カジンスキー。

    アメリカを震撼させた連続爆弾事件の犯人。そして、「産業社会とその未来」と題された長大な犯行声明において、現代文明の構造そのものを激しく批判した思想犯。

    彼は、文明批判の名のもとに一連のテロを実行し、その動機と思想についての文章を、長大な「犯行声明」として、1995年にワシントン・ポスト紙上に掲載させていた。

    “Unabomber’s Manifesto” in the Washington Post

    本稿ではこの「犯行声明」を読む。

    彼が何を見て、何を拒絶しようとしたのか。なぜ彼は言葉ではなく、行動を選んだのか。それを理解することは、彼を肯定することではない。むしろ、それを通して、我々がいまどこに立っているのかを確認することに他ならない。

    彼の行動は、当然ながら、単にくだらない連続殺人である。肯定するつもりはない。むしろ私はこの論考で根源的に否定するつもりである。

    だが、いま私たちが生きているこの状況――生成AIが日常化し、すべてがデジタルに変換され、オフラインであることがほとんど不可能になったこの環境――その全体像を見通すためには、カジンスキーという極北にまで踏み込んだ抵抗のかたちを、一度は検証しなければならないのではないか。

    なぜなら、彼の予測は、今となってはあまりに的中してしまっているからだ。

    そしてそれゆえに、彼のテロルは何も変えられなかったのだということを論証する。それが根源的に否定するということの意味であり、それが、私たちの現在である。私たちは森の隠者となった天才数学者以上の絶望をたっぷりと味わう。世界の終わりに備える。

    2

    カジンスキーにとって、現代社会とは単に便利で高度な産業社会ではない。それは、人間の自由意志を次第に奪い、自律的な判断や生活を不可能にしていく「システム」である。そのシステムとは、国家でも資本でも宗教でもなく、テクノロジーそれ自体である。

    このシステムの本質は、人間の行動や欲求を満たすために存在するのではなく、人間の行動のほうがシステムに適応させられていくという構造にある。

    The system does not and cannot exist to satisfy human needs. Instead, it is human behavior that has to be modified to fit the needs of the system.

    このシステムは人間のニーズを満たすために存在しているのではない。むしろ、人間の行動こそがシステムのニーズに合うよう変更されねばならないのだ。

    3

    しかも、この産業-技術システムはすでに、人間の意思決定を超えて、自己増殖的に拡張する構造となっている。この「システム」とは、単なる政府や企業のネットワークではない。それは、社会制度が相互に依存し、止まることなく自己強化を繰り返す構造体――フィードバックループそのものを指す。

    新しい技術が登場すると、人々はその「便利さ」のためにそれを受け入れる。やがて社会制度そのものがその技術を前提に再構築され、もはやその技術なしでは生きられない状態が生まれる。

    さらに、その技術は新たな問題(副作用・格差・リスク)を生み出す。すると今度は、それに対処するためのさらなる技術的手段が求められる。こうして人間の生活は、連鎖する技術的対応策のなかに閉じ込められていく。

    Technology has been creating new problems for society far more rapidly than it has been solving old ones.

    技術は、過去の問題を解決するよりもはるかに速く、新しい問題を社会に生み出してきた。

    Technical progress will lead to other new problems that cannot be predicted in advance.

    技術の進歩は、あらかじめ予測することのできない新たな問題を生むだろう。

    この技術連鎖は一方通行である。自由を後退させても、技術自体は決して後退しない。

    Technology repeatedly forces freedom to take a step back, but technology can never take a step back—short of the overthrow of the whole technological system.

    技術は自由を一歩後退させることを繰り返すが、技術自体は――システム全体を覆さない限り――決して後退することがない。

    たとえば、スマートフォンを例にとろう。「スマホを持たない」という選択は、形式的には可能である。だが、実際には日常生活や社会的参加からの排除を意味する。つまり、「選ばない自由」は制度的にも社会的にもほとんど存在していない。技術は導入された瞬間から社会構造を作り変え、拒否できる余地を急速に奪っていく。

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    カジンスキーは、このような現代社会において、政治的党派や制度的手段は根本的に無力であると断言する。その理由は明快だ。すべての党派が「テクノロジーを使って問題を解決する」という枠組みに閉じ込められているからである。

    つまり、右派も左派も、何を守るかは異なっていても、どう守るかにおいては等しく構造に従属している

    右派は道徳と秩序、左派は正義と平等を掲げるが、いずれもそれらの理念の実現手段として、技術的監視・管理・制度設計を当然視している。その時点で、彼らの抵抗は加速の一部に変わる

    さらにカジンスキーは、制度的な改革についても、構造に吸収される運命を免れないと指摘する。

    If a small change in a long-term trend appears to be permanent, it is only because the change acts in the direction in which the trend is already moving.

    長期的傾向の中で小さな変化が恒久的に見えるのは、それが既存の傾向の進行方向に沿って作用している場合に限られる。

    つまり、制度が変わったように見える時でさえ、それはすでに技術システムの内在的進行にとって都合のよい変更でしかない。

    そして何よりも決定的なのは、カジンスキーが自由と技術を同時に維持する社会設計は原理的に不可能であると述べている点である。

    Freedom and technological progress are incompatible.

    自由と技術的進歩は両立しない。

    Permanent changes in favor of freedom could be brought about only by persons prepared to accept radical, dangerous and unpredictable alteration of the entire system.

    自由のための恒久的な変化は、全体のシステムを根本的かつ危険で予測不可能な形で変更する覚悟を持った者にしかもたらされない。

    制度的改革は、本質的要素を破壊しない限り、システムの力を削ぐような根本的変化には至らない。

    結論として、制度、党派、改革、運動は、構造の“吸収力”に抗うことができない限り、真の拒否とはなりえない。

    であればこそ、カジンスキーは、制度の外部に出ること――すなわち、飛躍すること――すなわち個人的なテロルを唯一の道と見なしたのである。次の節でそれを確認しよう。

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    こうしてカジンスキーは、制度、党派、改革、言論すべてが構造の一部に取り込まれていると断じた。それらはいずれも、抵抗の形式を装いながら、最終的には加速する技術システムの維持と正当化に貢献してしまう

    では、残された手段はあるのか?

    彼がたどり着いたのは、「倫理的飛躍」としての拒否――制度によって吸収されない、個人的かつ実存的な否定の行為だった。

    この拒否の根拠は、体系だった理論ではなく、直観に基づく倫理的判断である。カジンスキーはそれを次のように述べている。

    In a discussion of this kind one must rely heavily on intuitive judgment, and that can sometimes be wrong.

    この種の議論では、直観的判断に大きく依存せざるを得ない。そしてそれは時に誤ることもある。

    彼にとって、「こうは生きられない」という確信は理論ではなく、直観として知覚される“倫理的な反発”であり、それゆえに、合理性の枠組みに回収されない行動の根拠となり得たのだ。

    だがこの感覚が行動に転化されるには、メディアも言論も機能しない世界において、どのような行動がテクノロジーに無毒化されない行動なのかという問いが生じる。

    To make an impression on society with words is therefore almost impossible for most individuals and small groups.

    言葉によって社会に影響を与えることは、ほとんどの個人や小集団にとって、ほぼ不可能である。

    そして結論する。ユナボマーが誕生する。

    In order to get our message before the public with some chance of making a lasting impression, we’ve had to kill people.

    我々のメッセージを公にして永続的な印象を残すには、人を殺さねばならなかった。

    ここでカジンスキーが語るのは、単なる衝動でも戦略でもない。社会のあらゆる回収構造を突破する“否定としての破壊”の選択である。

    それは、「届く可能性が残された唯一の行為」であり、制度の外部に身を置こうとする最後の跳躍=倫理的飛躍だった。

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    しかし、テロルは無意味だった。それはわかりきったことだ。あなたはこの文章をどうやって読んでいる? ここからは、カジンスキーのロジックの確認ではなく、確認した上での私の応答を書く。私が無意味だったと書くのは、カジンスキーの情勢分析が正しかった――正しすぎたことを前提としている。

    この構造は、あまりにも完成している。左右の党派も、制度改革も、オルタナティブな共同体も、最終的には、ヒステリーを起こした一人の数学者の犯罪と同じ地平にまで落ちていく

    なぜなら、この社会においては、「届かない」という点で、すべてが等価だからだ。暴力も、言葉も、希望も。制度の内側に吸収され、制度の外側には立てない。拒否も否定も、選択肢にない。つまり選択の余地はない。

    私は、冒頭でこう問いかけた。

    私たちは、テクノロジーと距離を取る自由を、まだ持っているのか?

    いまなら、答えられる。距離をとる自由は、ない。自由など、ない。誰も、触れることすらできない。

    つまり、私たちは今後も技術社会のフィードバックループの中で生きることになる。

    他人に出し抜かれないために。

    社会から排除されないために。

    それ自体が新たな問題を生み出すと知りながらも、

    テクノロジーを高い金を払って導入し、運用し、維持し続けなければならない。

    慎重は無能とみなされ、回避は敗北と同義となる。

    そしてその圧力は、個人にとどまらない。

    国家もまた、加速を強いられている。量子コンピュータの開発競争に敗れれば、暗号は破られ、情報は奪われる。半導体の製造能力や輸入能力を喪失すれば、軍事・医療・行政すら停止する。もはや安全保障とは、技術の獲得競争に他ならない。その遅れは、支配されることと同義なのだから。

    だから、我々は続けよう。馬車馬のように働き、自らの労働力の価値を下げるために、自費で最新の設備を導入し、日々その更新に追われる生活を続けよう。

    拒否は反逆とみなされ、沈黙すら怠慢として切り捨てられる。誰も逃げられない。どこにも外部はない。

    ようこそ、産業社会の未来へ。

    しかし、もしかすると、抵抗の方法はまだ残されているのかもしれない。新たな世代が、私たちの知らなかった方法で、別の出口を提示する可能性はゼロではない。

    だがそれは、おそらく――カジンスキーのような個人による暴力など、歴史の彼方に押しやってしまうような、もっと大きな規模の暴力だろう。それはもはや、このように公開される文書で記述できるようなものではないだろう。