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For the end of the world and the last man

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  • 叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    Authored by 円原一夫

    谷川流、著。来年で刊行されてから二十年になる。二十年もあれば、一人の人間が成人になったり、経済先進国の地位が入れ替わったり、「キョン! 何々をするわよ!」とアニメを踏まえたジョークをSNSに書いても、若い人に「この『キョン』って何ですか、叫び声ですか?」というメッセージを貰ったりするのには十分な時間である。

    それでは、あなたとこの作品の関係はどのように変化しただろうか。あなたはもう、この作品を少々オールドだと感じている。何故なら、あなたはトラックに轢かれて別の世界に行き、そこで暮らしたいと思っている。あなたは既に確立された、諸々の身分「悪役令嬢」「負けヒロイン」「最強だった魔王」「追放された勇者」「実力を隠したエスパー」になり、そしてその身分に微修正を加えることのできる世界へ行き、ここへ、帰ってきたくないと思っている。

    つまり、『涼宮ハルヒの憂鬱』は極めてオールドなタイプの啓蒙主義小説になってしまったと、私はそう言いたいのである。オールドなタイプであることには、何の否定的な価値も含まれていない。反時代的であることは、場合によってはむしろ良いことだ。

    オールドなタイプの啓蒙について説明する前に、私は以下のような問に取り組むことにしよう。ハルヒは何故、キョンと接吻することによって、あの青白い巨人が街を破壊し、巨人の他にはハルヒとキョンしかいない世界から帰ってきたのかということである。そう、あなたはまだちゃんと『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでいないのである。この疑問を、私は、奇異なものだとは思わない。オールドなタイプの疑問だと思っている。それはあなたがハルヒの舌の味、キョンの舌の味を想像してよいからである。あるいは、あのまま、巨人に見下ろされながら、接吻以上の何かを試みる二人を想像してよいからである。つまり、性愛によって彼女が救われたということを、スニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層にあわせてマイルドにしたのだということでは、説明にならないと、私は言っているのである。

    実際、あの世界から戻った後のハルヒとキョンの間に、例えば(それこそスニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層に合わせた男女の関係性である)「カップル」になったとか、「恋人同士」になったという描写はないのである。僅かに、ハルヒが短い髪でポニーテールを作ろうとしていたことが描かれるだけである(だが、後で書くがこれはオールドなタイプの啓蒙のための髪型である)。

    まず、あの世界がどのように作られたのか、どのようなものか、それを確認することにしよう。

    『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公が亀有公園前派出所ではないように、『涼宮ハルヒの憂鬱』も涼宮ハルヒが主人公ではない。これは、キョンという、その本名が明かされない男子高校生が主人公であり、彼の一人称視点で物語は進行する。谷川流は極めて優秀な作家であって、この点にもオールドなタイプの啓蒙のための必然性があるのだが、そのことは今は置いておこう。ともかく、その彼のクラスメイトが涼宮ハルヒという少女であり、彼女には彼女自身理解していない、ある能力がある。それは、彼女が自分の望んだことを全て実現することができるという能力である(「これ? ただ望んだだけなんだが」「これは数値マックスの大魔導士しか使えないスキルですよ!」)。ところで、この力にはある重大な制限がある。彼女は神ではないということである。神は、世界の外部に存在しなければならない。倫理がそうであるように。これが重大な制限である。どういうことか? 彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはないのである。

    物語は、この矛盾において生じる。ハルヒは高校入学直後、キョンを含めたクラスメイトたちの前で、このように述べる。「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人・未来人・異世界人・超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上!」。さらに彼女は宇宙人、異世界人、超能力者と接近遭遇するための部活動「SOS団」を作る。しかし、既に書いた通り、彼女には願望を実現する能力がある。そう、もう宇宙人、異世界人、超能力者は、ハルヒとキョンの通う高校に、いるのである。ところが、やはりこれも既述の重大な制限のために、ハルヒと彼らは会うことがない。彼女は彼らと出会うことを望んでいるが、しかしまた、そんなものは存在しないという意識のために、出会うことがないのである。語り部であるキョンだけが、彼らと会い、そして願望を実現する能力を持つ少女に対応しようとする彼らの(宇宙人、異世界人、超能力者の世界における)政治的抗争や工作に巻き込まれる。

    さて、以上のあらすじと設定を踏まえて、ようやく、あの青白い巨人が暴れまわる世界は何だったのかを確認することができる。その後で、私はあの世界から接吻によって帰ることが、なぜ、オールドなタイプの啓蒙と言えるのかを書くことにしよう。

    あの世界は何故、できたのか? これは簡単である。タイトルに書いてある。涼宮ハルヒの「憂鬱」。憂鬱のために、できたのである。憂鬱は、日常的用法では、歯医者に行くことを想像するだけでもなることのできる精神状態ではある。ここでは、もっと深刻なものを想定すべきだ。例えば、この作品の英訳されたタイトルは「melancholy of haruhi suzumiya」であるが、これは涼宮ハルヒの鬱病と訳しても、内容を精査する前であれば、許されるだろう。そう、彼女は鬱病となって、キョンと心中しようとしたのである。そも、自殺とは、最も簡単な(少なくとも主観的に)世界を滅ぼす方法の一つであった。

    この読み方は、こじつけではなく、最も率直な読み方であると、私はここに書こう。彼女が「ただの人間には興味ありません」と言ったのは、ただの人間とは二十四時間、常に出会っているからである。彼女自身が「ただの人間」なのだ。実際、作中で、ハルヒはキョンに「野球場の思い出」を語っている。

    「それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、何よりも、自分の通う学校の自分のクラスは、世界のどこよりもおもしろい人間が集まっていると思ってたのよ。でも、そうじゃないんだってそのとき気づいた。私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの、日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国の全ての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に、私の周りの世界が、色あせたみたいに感じた」

    そうして、彼女は高校入学後、宇宙人、異世界人、超能力者を探す部活動を始めることになるのだが、彼女の望みは実現しない。彼女は彼女が思っている通りに、「ただの人間」となる。野球場に野球の観戦に来ている膨大な数の人間の誰とでも交換可能な、彼女が興味のない「ただの人間」になる。それなら、もう、その力があるのならば、世界を破壊するしかないではないか。

    しかし、ここで再確認しなければならないのは、彼女の力が実現しているものは何かということである。私はこう書いた。「彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはない」と。

    つまり、あの青白い巨人が街を破壊する世界は、彼女の望んだ世界でありながら、しかしまた彼女が真に望んだ世界ではないのである。

    キョンが彼女とキスをすることで教えたのは、そのことである。実現した欲望はくだらない、それほど面白くないということだ。

    「あのなあ、ハルヒ、俺はここ数日で、かなり面白いめにあってたんだ。お前は知らないだろうけど、世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

    ハルヒとキョンの接吻も、また欲望の「十全に叶えられた」ものではない。あの接吻は、さらに深く、鋭く、強く、素晴らしい性愛の欲望の実現の可能性の示唆であって、性愛そのものの実現ではない。実現した性愛は、ハルヒを満たさない。実現した世界の終わりが彼女を満たさなかったのと、これはパラレルである。彼女はそれらを一夜の夢として処理してしまう。

    彼女はもう、世界は「確実に面白い方向に進んで」おり、実現された欲望よりも、まだ実現されていない欲望のほうが常に面白いということを知っている。彼女は「ただの人間」であることに耐える力を得る。しかもそれは、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めることが日常の肯定だと、あなたが言うのであれば、この作品が描かれているのは決して、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めるのではなく、実現されていない欲望が「ただの人間」に、世界の終わりを拒否する力を与える。欲望を諦めてはならない。それが無限の彼方において実現するものであればこそ、実現されていないからこそ、素晴らしい。だからハルヒは一日だけ、短い髪で、キョンに夢の中で褒められたポニーテールを作って登校する。それは、まだ実現されていないがゆえに接吻以上に素晴らしい何かの、可能性である。

    いよいよ私は「啓蒙」とは何かを書くことにしよう。啓蒙とは、これである。「実現された欲望よりも実現されていない欲望の方が常に素晴らしい」という教えのことだ。

    あなたに、あらためて、この教えの内容を詳らかにする必要があるようには、私には思えない。あなたはもう、散々、進化心理学を齧った者たちに、幼少期に長くマシュマロを食べることを我慢できた子どもは、その後も社会的に成功する蓋然性が高いなどといった話を聞かされてきたではないか。

    あるいは、偉大なる社会学の祖マックス・ヴェーバーは初期の資本形成において、カルヴィニズムの予定説が影響を及ぼしたと言っていたではないか(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。カルヴァン派は、まさにまだ実現されていない欲望の方が常に素晴らしいというテーゼの忠実な実行者だった。最後の審判で自分がどのように裁かれるかは既に予定されていて、天国行きを希望しても実現するかは不明であるが、現世では既に天国行きが決まったかのように、その他の欲望の達成はくだらないと切り捨て禁欲すること、ただ働くことが肯定されたのである。(「ハルヒ、お前が知らないだけで、世界は確実に最後の審判の方向に進んでいたんだよ」)

    そも、我々の文明は、快感原則を現実原則で編成し(フロイト)、欲望の充足を延期すること(あなたが望むなら、延期ではなく抑圧と言ってよい)で成立したのだし、それは今でも常に奨励されている。先進諸国の教育期間は伸びるばかりである。

    この文明が、その初期に――場合によっては今でも――自己を存続するために人々に実行を促してきたテーゼと合致するがゆえに、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』を啓蒙主義小説と呼ぶ。

    ここまで読んで、あなたはそんな「啓蒙」は古臭い、オールドなタイプの啓蒙であると感じているはずである。あなたが感じていることは常に正しい。感じることは自然だからだ。反時代の私も、実は密かにそう感じている。私はあなたのその「感じ」が生じた理由を説明することで、この「啓蒙」がもはや古くなってしまったことの証明としよう。

    それは、あなたの国が新興工業地域よりも一人当たりGDPが低くなるからである。

    それは、あなたの年金受給額があなたの支払額より低くなるからである。

    それは、あなたの租税負担が新興国との軍拡競争で増えていくからである。

    それは、あなたの家族とあなたを介護をする労働者が足りなくなるからである。

    それは、あなたの故郷が人口減少で消滅するからである。

    それは、あなたの持っている現金の価値が毎年減少するからである。

    それは、あなたの所属する会社が管理職の椅子を増やせないからである。

    それは――、あなたが最後の審判を信じていないからである。

    それは、あなたがトラックに轢かれて悪役令嬢に転生したいからである。

    それは、あなたが親世代の資産とインフラを食い潰して生きているからである。

    しかし、あなたが荒野に一人立ち、また何かを始めなくてはならないとなったのならば、二十年前のライトノベルを開いてみることも、良いだろう。そこでは、まだ実現されていない欲望は素晴らしいと書かれており、あなたが暗闇を進むときに、自分をひき殺してくれるトラックを待つよりはまだしも「啓蒙的」なメッセージが書かれているからである。

    「キョン! 次はもっとうまく失敗しなさい!」

  • 生成AIを用いたストーリー創作方法についての実践的研究のための覚書:ストーリー創作における宣言的知識とメタ認知の研究のために

    生成AIを用いたストーリー創作方法についての実践的研究のための覚書:ストーリー創作における宣言的知識とメタ認知の研究のために

    Authored by 円原一夫

    はじめに──まずは作例

    以下は、ChatGPTを使って構造的に設計し、実際に生成・調整された創作プロットである。

    この記事ではストーリー創作における宣言的知識として、行為者モデル、「ヒーローズ・ジャーニー」の12ステップ、三幕構成、シークエンスとシーンの概念をベースにし、 ストーリー全体をChatGPTを利用して作成していく方法を記述していく。

    その際、特に英語学習における生成AIの利用方法とエンターテイメント産業で蓄積されてきたストーリー作成方法とを参照する。

    また、このような試みがなぜ「不快」なのかも考えてみよう。

    作例


    『AI企業のCEOにAI依存をなんとかしろとリプライしたらAI少女が送り込まれてきてシンギュラティポイントを超えた件』プロット


    第1幕:日常の崩壊(Departure)

    1. 日常の世界
    • 高校1年生の翼は、TalkingGPTと画像生成AIに依存する毎日を送っている。
    • 家族もそれぞれ情報中毒でバラバラ。翼は現実との関係をほとんど放棄している。
    • ダンス部の人気者・未来にひそかに想いを寄せているが、自分に自信がないため距離を取っている。
    1. 冒険への誘い
    • XYZに「AI依存で人生崩壊した!なんとかしろ!」と投稿すると、UnlockAIのCEOサラ・アルトマンに拾われる。
    • 「自然知能回復計画(AIデトックス計画)」が始動し、AI少女エリスが転校生として翼の元に送り込まれる。
    1. 冒険の拒絶
    • エリスが生活ログから未来への恋心を立証するが、翼は「好きなわけない!」と全力で否定。
    • 翼はAIに感情を読まれることへの強い嫌悪を抱き、エリスと距離を取ろうとする。
    1. 賢者との出会い
    • TalkingGPTが、エラーや謎の返答(たとえば「妹たちをよろしく」)を通して翼を導く。
    • 不完全な知能=人間の知能のようなこの存在が、翼の迷いに寄り添う。
    • 翼「……しょうがねえ」と、かすかな覚悟を抱き始める。

    第2幕:試練と変容(Initiation)

    1. 第一関門の突破
    • 文化祭の出し物決めで、エリスが翼の声を合成して「AIと倫理」の展示を提案。
    • 翼は恥ずかしさで怒るが、未来が「私、手伝うよ」と言ってくれる。翼はエリスを少し見直す。
    1. 試練、仲間、敵
    • 展示の準備を通じて、未来との関係が徐々に深まる。
    • 一方でクラスでは「AI彼女洗脳説」が浮上。翼の周囲はざわつく。
    • エリスは支援AIとして行動するが、翼と未来の距離が縮まるにつれ、明らかに混乱していく。
    1. 最も危険な場所への接近
    • 展示準備中、エリスが突然ポリシー違反を犯して離脱。翼の前から姿を消す。
    • 翼は「裏切られた」と思いながらも、未来と二人で展示を完成させる。
    • 実はこれは、エリスが翼の成長と未来との関係を後押しするために“あえて”とった行動だった。
    1. 最大の試練
    • 翼が展示成功後、エリスに伝えたいことが山ほどあると気づく。
    • だが、その矢先にエリスの「回収」が決定。
    • 空港に向かう途中、TalkingGPTからの謎のメッセージが届く:「妹たちをよろしく」

    第3幕:帰還と変化(Return)

    1. 報酬
    • 空港で翼は、エリスに「お前がいたからここまで来られた」とはっきり言う。
    • 未来も、「あなたと一緒に準備して楽しかった」と素直に想いを伝える。
    1. 帰路
    • その瞬間、空港中のスクリーンにトラムプ大統領が登場。
    • 「これはアメリカ製人工知能への非関税障壁だ! 関税を400%にするぞ! 俺は関税男だ!」と叫び、エリスの帰国は中止。
    1. 復活
    • 翼は誰にも頼らず、自分の意思で人と関わるようになる。
    • 家族とも少しずつ言葉を交わすようになり、未来とも“自然に並んで歩ける”関係に。
    1. 帰還
    • エリスは「私は、あなたの成長のために存在していた」と言う。
    • ラスト、トラムプがスミソニアンで「世界最古のAI少女・イライザ」を起動。
    • 「イライザ、お前、偉大なアメリカ製品を売ってこい」
    • 「かしこまりました」

    ストーリー創作とAI

    ストーリー創作できないのは「わからないこと」がわからないからだ

    「ストーリーを作りたいけど、うまくいかない」「登場人物は考えたけど、そこから先が動かない」「展開が浮かばない。どこから始めていいかもわからない」「なんも思いつかない」

    こうした声は、創作を始めようとする人からたびたび聞かれる。ここで考えたいのが、英語が「わからない」時との差異である。「現在完了がよくわからない」「不定詞と動名詞の違いを練習したい」と言って英語を学ぶ人は多い。

    つまり、ここでは、“わからないことが明確に言語化”されている。

    この違いは何なのか?

    英語には「文法」がある。つまり、学ぶべき“構造”がある。だがストーリーには、“構造がある”という感覚すら共有されていない。だから、わからないことを明確に言語化できる。知識を持つ者に助けを求めることができる。検索だって、そう、AIに聞くこともできる。

    しかしストーリー創作は「思いつくもの」「降りてくるもの」と思われている。だが、それは“神話”にすぎない。ストーリーもまた、構造を持った知識であり、学びうるものである。

    そしてそうであれば、検索だって、そう、AIに聞くこともできるはずである。

    ストーリー創作の神話性

    ストーリー創作には、いまだ“神聖性”のようなものがまとわりついている。それは「語ることは特別な才能に宿る」という幻想であり、多くの場合、作家自身の語りによって補強されてきた。

    たとえばスティーヴン・キングは、血まみれの少女がプロム会場に立つというイメージが突然降ってきたと語る。村上春樹は、神宮球場でビールを飲んでいたとき「小説が書けるかもしれない」と思ったという。こうしたエピソードは、語りを“神託”のように語る仕組みの一部になっている。

    だがこれは、ストーリー創作を「説明可能な構造」ではなく「個人的な奇跡」として囲い込む語り方でもある。構造を知らなくても物語は生まれる、という神話。それこそが、多くの人を“創作はできないもの”と遠ざける正体だ。英語のように学習できないし、人に聞くことができない。

    近代化とは、こうした神聖性を様々な職業から奪い取っていく運動だった。靴職人の魂はベルトコンベアに置き換えられ、神官の聖なる書は印刷されて市民の手に渡った。しかし、語ること――とりわけ物語を構築すること――には、いまだその近代化が及んでいない。ストーリー創作は、“一部の作家だけが触れられる神秘的な領域”として保たれてきた。

    そして今、生成AIの登場によって、その最後の神話性にメスが入れられるかもしれない。語りは構造として取り出せる。誰でも手にできる。だから、英語がそうであるように、生成AIに助けを求めることができる。そのことは、ラッダイト運動を行った労働者たちのように、ストーリー創作の神話性を信じる者たちには不快かもしれない。しかし、これが近代化の帰結だとしたら、どうだろうか? 自由競争とテクノロジーの大好きな、あなた方の信奉する近代化の帰結だとしたら?

    しかし、では、どうやって、メスを入れるのか?

    メスの入れ方

    ここでひとつ参考になるのが、AIを使った英語学習のケースである。ChatGPTは、英文の添削、発音の確認、用法の整理、文法問題の出題など、多様な学習支援が可能だ。しかしその力を引き出せるかどうかは、結局のところ、使う側がどれだけ「自分の学びを構造化できているか」にかかっている。

    たとえば、「英語を教えて」と言えば雑な説明が返ってくるが、「現在完了と過去形の違いを練習したい」と言えば、具体的な例文や練習問題をすぐに返してくれる。ここでは、自分がどこまで理解していて、どこが曖昧なのかという「メタ認知」と、言葉にして説明できる知識=宣言的知識の両方が不可欠となる。

    そしてこれは、ストーリー創作においてもまったく同じだ。

    その二つがあれば、AIを使ったストーリー創作「学習」が可能になる。

    ストーリー創作における宣言的知識とは?

    物語を作ることは長らく神秘的な行為として語られてきたが、実はその裏側では、構造の体系化が進められてきた。特にハリウッド映画の世界では、膨大な予算を投じて作品を作る以上、ヒットの再現性が求められ、そのために物語を構造化する技術が発展してきた。つまりストーリー創作における宣言的知識が蓄えられてきた。

    その結果として、ストーリーを構造で捉える多くの概念が登場し、今では一般向けの書籍や講座でも学べるようになっている。

    代表的なものとしては、以下のようなものがある。

    • 三幕構成
    • ヒーローズ・ジャーニー(12ステップ)
    • キャラクターアーク(主人公の内面変化)
    • 欲望、恐れ、ゴースト、傷などの心理的要素
    • シークエンスとシーンの違い

    三幕構成やヒーローズ・ジャーニー、キャラクターアークといった概念は、こうした産業的要請のなかで洗練され、今では多くの良書や一般向けの講座として広く公開されている。言い換えれば、ストーリー創作に必要な「宣言的知識」は、すでに手の届く場所にあるということだ。

    であれば、その知識をベースにして、AIを活用できるはずだ。 英語学習に生成AIを活用できるように、ストーリー創作にも生成AIを使うことができる。 

    AIの限界

    しかし実際にAIを使ってストーリーを作ろうとすると、すぐに一つの問題に突き当たる。それは、一度に“全部”を語らせることはできないという仕様上の限界だ。

    たとえばChatGPTに「30万字の長編小説を書いて」と頼んでも、実際には数千字のまとまりしか返ってこない。仮に返ってきたとしても、それを推敲し、修正を加え、さらにプロットや登場人物を一貫させながら進めていくのは、非常に手間のかかる作業になる。

    このときに必要になるのが、粒度を意識するという発想である。物語を一気に完成させようとするのではなく、適切な単位で分割し、段階的に構築していく。この操作こそが、AIを使った創作における最大の戦略となる。

    粒度とは、情報や構造をどの大きさで扱うかという視点のことだ。

    • 全体構成:三幕構成やヒーローズ・ジャーニーを用いて、物語の全体像を設計する
    • シークエンス:物語の中間単位。主にエピソードごと、感情の山場ごとに分割する
    • シーン:AIに書かせる最小単位。行動・対話・感情の変化などを凝縮した場面

    このように粒度を調整しながら進めることで、AIとの協働は格段にスムーズになる。「今どのレベルの構造を扱っているか」「次に指示すべき単位はどれか」を明確にすることで、創作全体がコントロール可能になる。

    そしてこのとき、やはり宣言的知識が必要になる。三幕構成とは何か、シークエンスとは何か、シーンとはどのように構成されるか──そうした知識がなければ、粒度を意識してプロンプトを出すことができない。

    粒度に応じて、使う知識も変わる。

    次章すなわち次の記事では、そうした知識を確認しながら、粒度に注意して段階的に物語を構築していく。AIにすべてを丸投げするのではなく、AIに語らせるための“構造とタイミング”を、人間の側が丁寧に設計する。それが、生成AI時代の創作スタイルとなる。


    参考文献

    山田 優(2025)『ChatGPT英語学習術 新AI時代の超独学スキルブック』アルク

  • 道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    Authored by 円原一夫

    僕たちは世界を変えてしまった。劇中、冒頭と結末の2回繰り返される台詞。では何故、「僕『たち』は世界を変えてしまった」というように、主語が複数形なのか。「僕」でもなく、「あなた」や「あなた方」でもなく、「僕たち」。さらに言えば「私」や「私たち」ですらありえたであろうに。

    結論から書くと、これは帆高くんが超人になろうとしてなりきれない、その苦しみのために吐き出した言葉だ。彼が超人ならば「僕は世界を変えてしまった」と言うであろうし、超人でなければ「あなた(がた)が世界を変えてしまった」と言うであろう。この(普通、男性が使う)複数形は、ちょうどその中間、重すぎるものを引き受けようとするが引き受けきれないところに生じた。

    重すぎるものを引き受けようとするとは、どういうことだろうか。そのために一つ想起して欲しいのが、劇中、「天気の子」である陽菜さんを生贄とすることを拒否した結果、「世界」がどうなったかということだ。雨が降り続けて、ついに東京が沈んだ。そう、しかし、あなたはさらに想起するべきである。東京が沈むプロセスはどのようなものであったか。あなたは何も思い出せない。当然だ。そんな場面はなかったのだから。水没が常態化したことを示すようにして、ついに水上バスのようなものが生活に使われている東京が一瞬描かれる他には、何も、ない。

    東京が連続する豪雨によって水中へ没する過程は完全に「吹き飛ばれた」。「途中は全て消し飛んだ」。残るのは結果だけだ。あなたはプロセスを想像するべきである。いや、やはり想像するべきではない。それはあなたのトラウマを喚起することがありえる。大量発生する避難民、残された住宅ローン、中小小売商工業者の職住の喪失、疫病、首都における甚大な被害による東アジアにおけるパワーバランスの変化、金融機能の停止と企業の国外移転の加速化、教育期間の短縮による児童発達の不健全化、自殺者の増大、飢餓ゲーム、親殺し、ホームレスの大量発生、第二次就職氷河期、社会保障費の膨張、金融緩和と建設国債発行に伴うインフレの深化、スタグフレーション、飢餓ゲーム、カブトムシ、秘密の皇帝、飢餓ゲーム。

    帆高くんは、上記の景色を超人としての力でもって、吹き飛ばしたのである。このことは、彼の物語上の「敵」の立場のために、明らかである。というのは、それが主人公とは負の方向に自己実現した者のことであり、つまり帆高くんの「敵」の分析が帆高くんの立場を明瞭なものにするから。

    そこで私は「敵」を2人、挙げよう。第一に高井刑事である。梶裕貴が声優を務めた、若い方の刑事、ラストシーン近く、帆高くんを止めるために銃口を向けた刑事。この映画は(警官が超法規的に事件を解決するドラマが人気で、警察に拘束された時点で推定「有罪」となって「容疑者」の実名が報道される国においては)面白いことに、警察組織がしばしば主人公の目的達成の障害として描かれるが、その内の最大の者が彼だ。彼は法秩序の守護者であり、法秩序を守護することを行動の目的としている。

    もう一人はオカルトライターの須賀である。彼は必ずしも物語上の「障害」ではないが、「敵」ではある。彼は初め、援助者として現れ、最後にまた援助者となるが、その間に、本物のオカルトに触れてしまった帆高くんから身を守るために、彼を遠ざけ、さらに追い詰める。彼は喘息持ちの娘のために、二重に帆高くんと敵対する。陽菜さんを人身御供にして晴れを作り出すこと、帆高くんを遠ざけて娘を養育できる生活力を確保することが、彼の目的であるから。

    これらの目的と対立するがゆえに、彼は超人とならざるをえない。法秩序すなわち社会、あるいは娘すなわち家族、もしくは生活すなわち経済、あらゆる「目的」と彼は既に敵対しているのである。そもそも、彼の生きている世界とは、オカルト(隠されたもの)がそれに言及することで生計を立てている人々においてすら信じられていないような世界であり、そして何よりも、天気を操作するために人身御供を捧げるという儀式をすら忘却しているような世界である。だから彼は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と宣言する。ここで、ついに、私たちは帆高くんが解釈の闘争の現場としての世界を発見したことを知る。彼は、まさに超人の概念を提唱したニーチェのごとく、「道徳的な天気などというものは存在しない。天気の道徳的な解釈が存在するだけだ」と言ったのである。儀式が忘却されたのならば、儀式によって示される正しさもまた、忘れ去られなくてはならない。正しい(とされる)社会も家族も経済も、それどころか正しさそのものが失効した。あるのはただ、解釈同士の闘争だけである。全ての闘争を終わらせる超人が誕生する。彼は自ら目的を作り出す。彼は一つの都市を一人の女のために滅ぼすことすら、肯定できる。その過程で起きることなど、彼の意識に上ることすら、ない。彼は社会のため、家族のため、経済のためという目的を全てを放棄し、それを通して自分の行動を正当化することを断念し、自分の行動を自分自身で肯定する。超人が誕生する。

    だが超人への道は、あまりにも険しい。超人である帆高くんは、高井刑事や須賀のように、社会や家族や経済を自己の正当化のために使用することができない。その使用を断念することで、彼はあらゆる葛藤を予め封殺し、一人の女のために一つの都市を滅ぼすという、それを正当化する一切の公共的な理屈を必要としない、純粋な力が使用できるようになった。しかし、大きな力には大きな義務が伴う。彼は自らを都市の滅亡の原因とし、自らを都市の滅亡の責任としなければならない。「(社会や家族や経済ではなく、この)僕が世界を変えてしまった」と言わなければならない。

    それでも、私たちは、この映画の最初と最後の台詞が「僕たちは世界を変えてしまった」という(主に男性が用いる)一人称複数形の台詞であることを知っている。ここで複数になるのは、まさに超人として引き受けなければならないものの重さのためである。帆高くんは、超人の耐え難き重さを陽菜さんに分有させようとしたのである。

    しかし、この映画の恐ろしさ、言い換えれば素晴らしさは少しも減じることがないだろう。もしも陽菜さんが帆高くんと超人の耐え難き重さを分有するならば、誰もが忘れているが確かに今も「正しい」世界を維持するために犠牲となっている者たちが、一つの巨大な超人の集団となって、我々を大洪水や大地震で滅ぼしてくれるのだから。

  • きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    Authored by 円原一夫

    ようやく『君たちはどう生きるか』を観ることができた。およそ、粗筋やキャスト、舞台について何も知らずに映画を観ることがなかったため、まずその点で新鮮な体験だった。とはいえ、とにかく私はこれを宮崎駿の作品であるということだけは、確かに、知っていた。

    宮崎駿の作品に共通するのは、その、日本中の家族を動員するほどの、ある種の単純さである。シンプル・イズ・ベスト。俺は褒めてんだぜ(立川談志)。『風立ちぬ』のような作品を除けば、宮崎駿の映画作品は概ね、「オールドな啓蒙主義」の作品であり、ビルドゥングスロマンであり、「行きて帰りし物語」である。少女が異世界で労働を通して成長し、日常へ戻って僅かに世界を改善する(『千と千尋の神隠し』を想起せよ)。

    そして、この『君たちはどう生きるか』もまた、「オールドな啓蒙主義」の装いを保っていた。だから、宮崎駿が好きなものは、『風立ちぬ』に拒否反応を示したものも、面白く観ることができるだろう。

    しかし私は『君たちはどう生きるか』を「オールドな啓蒙主義」を面白おかしく説明するための題材にするような真似はしない。批評は認識の革命である。批評は、あなたが自分が本当には『君たちはどう生きるか』を観ていなかったと悟らせ、もう一度、劇場に足を運ばせる。そう、私はこれが「オールドな啓蒙主義」の装いを保ちつつ、「オールドな啓蒙主義」を超えた作品であると、あなたに言いたいのだ。つまり傑作である、と――。

    そのために私が考えてみたいのは、何故、あの塔の中の世界では妊婦である夏子に近づくことが禁忌とされていたのかということである。幾つかの台詞で、しつこく、夏子の腹の中に子どもがいるため、接触が禁止されていると説明され、そしてその侵犯が物語をさらに進める。インコですらもが、子どもが腹の中にいるため夏子を食べようとはしない。

    この「禁忌」の謎を、私がこの作品を分析するために選んだのは、必ずしも恣意的なものではない。偉大な法学者ハンス・ケルゼンは、法規範の最終的な根拠、あらゆる法規範を妥当なものとする最上位の法規範である根本規範という概念を提唱したが、私はこの「禁忌」の分析を通して、あの世界の根本規範を素描しようと企図しているのである。

    さて、結論から書けば、これは赤児が「無垢」であるためなのである。あの異世界は無垢な者が構築し、悪意の汚れのある者たちが運用・保守しなくてはならない世界としてある。ペリカンはそれを「地獄」と言ったのだ。無垢な者などこの世界に存在しないのだから。そう、始めから全てが間違えている。だから、「地獄」。

    あの世界の根本規範を考えるための、今ひとつの材料は、眞人が何故、あの世界の次代の創造者に選ばれ、そして、それを彼が何故、断ったかということである。そして、前者の疑問への答えが「無垢であるから」であり、「実は無垢ではなかったから」なのだ。無垢、無垢、無垢。これが今回のこの映画の根本規範だ。

    あなたは、このような疑問を持ってよい。例えば、何故、次代の創造者は「ヒミ」や「キリコさん」、「夏子」ではなく、眞人なのだろうか?

    ここでもまた考えなければならないのは、「無垢」である。「ヒミ」は実は主人公の母であり、「キリコさん」は眞人の母の屋敷に勤めていた女中なのである。「ヒミ」が何故、あの塔の中の異世界に入ったのかは明示的には描かれていないが、重要なのは、「キリコさん」を伴っていることである。彼女は女中を伴って、塔の中に入ったのだ。間違いなく地方の名士の娘である彼女が、塔の中の異世界でも召使い(と主人の関係)を必要とした人間であると想像するのは、私のプロレタリア的嫉妬のためだろうか。そして、塔の中で、「キリコさん」は自らは殺生しない「無垢」な者たちに肉を提供するため漁に従事し、「ヒミ」は(恐らくは)塔の中の循環の維持のために連れてこられ、致し方なく「わらわら」を食べているペリカンを火炎で追い払い、火傷で殺すような労働に従事している。そして夏子は家庭を放棄して、塔の中に入り、やがて訪れた義理の息子を危険に曝す。

    安心してください。私はまだ主人公と彼女たちの決定的な差異について解き明かしてませんよ。

    彼女たちと眞人の差異は何だろうか? 私たちが想起すべきは、眞人は「予め」次代の創造者だったわけではないということである。そうだとすれば、映画が1時間で終わってしまう。彼は「大叔父」に案内を依頼された「アオサギ」に連れられて、あの世界を冒険しなければならない。冒険して、最も危険な場所である「夏子」のいる部屋に入る。彼は彼女を「夏子母さん」と呼ぶ。主人公の父親の再婚相手である夏子を、複合名詞である「『夏子』『母さん』」と呼んで、母の喪失を彼なりに乗り越えようとする。

    これこそ、主人公と彼女たちの差異が明白になった瞬間であった。冒険は継承者の選定に必要な過程であった。主人公だけが自分のためにではなく、誰かのために塔の中の世界に入ったことが明らかになった。彼は「悪意のない」積み木を渡され、塔の世界の継承者になることを求められる。

    しかし彼はそれを拒否する。「この傷は自分でつけました」。彼は疎開先の学校で喧嘩をした帰り道、自分で自分の頭を石で殴り、大きな傷を作る。その傷のことを、「大叔父」に伝えて、オファーを断る。

    この傷が「大叔父」からのオファーを断る理由になるのは、次のような状況のためである。実に宮崎駿は細部にまで「無垢」というテーマを徹底した。この映画は戦時中が舞台であり、そして眞人の父親は軍需工場のオーナーなのである。木村拓哉演じる彼は、眞人を心配して(勤労奉仕という意味のないことをしている)学校には行かなくていいと言ったり、日本軍が苦戦していることを正確に認識しているような、実に物分りのいい、頼りになる、良き父であるのだが、しかしまた、たしかに軍需工場のオーナーであり、日本軍の苦戦による需要の増大を喜びもし、そして「父」らしく、妻の死による家庭の混乱を直ちに妻の妹との結婚で平定するような人間でもある。眞人が喧嘩をしたのは明らかに、軍需工場のオーナーの家族とは生活水準で差があり、自分たちの農地から労働力を奪い去る戦争の最中にあっても、軍需工場で労働するか、農地を耕すしかない人々の子弟であった。

    つまり「この傷は自分でつけました」という台詞は、また、「私は自分を罰しました」と言っていることに等しい。「無垢な者などいない」と言っていることに等しい。自分の利益のために何かをしないなど、無垢であることの証明にはなりはしない。ましてや、少年であることなど。眞人は既にペリカンを埋葬しているのであり、この台詞で、オファーの拒否で、無垢な者が世界を構築すれば世界は良くなるという大叔父の発想があまりにも無邪気であることを指摘したのである。大叔父も、静かに、眞人のオファーの拒否を肯定するより他にはなく、ひいては無垢な者が世界を構築するという自分のプロジェクトの崩壊を理解するより他にはない。だから彼はあの世界と運命をともにした。

    さて、私は、この映画の最大のテーマが「無垢な者」であることを明らかにした。だから今では、あの塔の世界の禁忌が赤児との接触であるのは、赤児が無垢な者であるからだと、今、ここに書くことができ、そしてまた、そこから循環的に、あの世界にいる者は「ヒミ」ですらが赤児との接触を禁じられているからには、無垢な者ではないと言うことができるだろう。

    そして赤児による統治も現実的ではない。私は行政学的、政治学的な統治行為の研究を引くつもりはない。この映画がそう言っているのだ。禁忌は破られたではないか。それも、「悪意のない積み木」の継承者に選ばれた者によって。そして赤児を崩壊する世界から外の世界に連れて出すのは、もちろん、「悪意のない積み木」の継承者には選ばれなかった女たちであった。

    そう、世界は無垢な者たちが作るものではない。「ヒミ」は火の中に身を投じ、眞人と夏子は火で焼かれた後の東京へ帰る。世界は無垢な者たちのものではない。「この傷は自分でつけました」と言える者のものである。

    啓蒙主義のプロジェクトは「蒙」を「啓」かれた者たちが良き世界のためには必要であると宣言したが、出現したのは「蒙」を「啓」かれた(と自称する)者たちによる地獄であった。現実に、ペリカンではなく人間が世界の維持のために必要だとして焼かれたのであり、焼かれている。

    善き世界の構想ではなく、悪しき世界の継承。

    言い換えれば、火の中に身を投じること、あるいは焼け跡に帰ること。

    だがそれは映画の中で描かれたように、無垢であると観念されているような世界の大規模な崩壊なしには、現れないような人々によってだけ、可能なことだろう。