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For the end of the world and the last man

カテゴリー: 映画評

  • 狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    狼にジェンダーはない:細田守『おおかみこどもの雨と雪』

    Authored by 円原一夫

    下記の文章は、私の記憶では十年近く前に書いたものであるが、私がある作品を批評するという時に(現在時点で)最も重視していることを先取りしているため、私がいつでも自分の基準点を思い出すことができるように、あえて、ここに掲載するものである。

    私が重視しているのは、対象となる作品をプロパガンダの叩き台にするのではなく、その作品がその内部に持つ、ある決定の不可能性、解決不可能な矛盾を発見し、スポットライトを当てることであり、言い換えれば、ある作品を二重、三重に味わうことができるようにすることである。

    この論考で私は、細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』にメロドラマとメロドラマへの抵抗の両方が同時に見て取れることを明らかにしよう。「同時に」。そうしたメッセージの二重性、複数性が映画の豊穣さ、「映画」をプロパガンダから区別するものだと思うが、そうした議論はここではしない。

    映画のタイトルからわかるとおり、この映画は「おおかみこども」の雨と雪を巡る物語であるが、それにしても、「おおかみこども」というものについては絶対に説明が必要であるし、その説明を兼ねて、この映画の粗筋をまず書くことにしよう。

    後に雨と雪を産む、その母であり、つまり主人公の一人である「花」は東京の外れにある国立大学に通う大学生である。これは明示されないが、その建築物などから、東京大学であることが黙示されている。これは重要なことだ。彼女は、いわばそこらの普通の男性よりも、相対的に高位な階層にアクセスする権利を有しているということだからである。さて彼女は講義に潜り込んでいた男性の「彼」と出会い、恋に落ちる。ここまでは我々の現実の延長であるが、しかし実は「彼」はニホンオオカミの末裔であり、人間の姿と四足歩行する自然主義的に描かれる狼の姿の二つを自由にとることができる存在であることが明かされる。それでもなお花は「彼」を受け入れ、ついに花は「彼」の子どもを姙娠することになる。その子どもこそ雨と雪であって、この二人もまたその父と同じ特性を有しており、それゆえ父が「狼男」であるのに対し彼らは「おおかみこども」となる。しかし物語が欠如と欠如の回復、混沌と秩序の構築によって構成されているからには、この家庭にも影が忍び寄ってくる。ある日、「彼」がいつまでたっても帰ってこないという事態が起きる。花は「彼」を探しに行くが、「彼」は狼の姿になって河の中で死んでいる。その直接の原因は明確にされない。とにかく「彼」は狼であるから、その「死骸」はゴミ収集車のような物で運び去られてしまう。かくして花と雨と雪は「父」を喪失することになる。物語が駆動し始める。

    この「父」を喪失した、ファンタジックな家族がいかに父無き後に秩序を構築するか、ということがこの映画の主題になるわけであるから、まさしくこれはメロドラマということになるだろう。ここで私はあえて、誰か一人にフォーカスするのではなく、この家族の成員全員の、「父」の喪失の処理の仕方を分析していく。それは花と雪と雨ということになるが、まさに三者三様の仕方によってこの事態を乗り越えるのであって、それこそ細田がやりたかったことであるはずであるから、私はそれぞれを比較しつつ、分析しよう。

    まず花を視てみよう。花は恐るべき人間である。狼とのハーフである「おおかみこども」よりも、花こそよほど人間らしくない。というのは、花は父子家庭の出身であり、さらにその父が死んでいるために、両親という一種の財産的余力を全く持たないにも関わらず、「彼」を受け入れ、その子どもを姙娠し、何の屈託も葛藤もなく、「母」となる。さらに「彼」が死んだ後にも、この花が「母」という役そのものを放棄したいと願うとか、その重責に悶え、「母」ではない自己を探究し始めるということは全くないのである。花の「父」なき混沌の乗り越えは単純である。それは花がひたすら「母」という役割を、相対化し意識の対象とするような「役割」としてではなく、自然なものとして受け入れ、奮闘するという内容である。これは完全に肯定的なものとして描かれ、ついに全て報われる。花は子どもたちのために(東京大学であることが黙示されている)大学を中退し、過剰に元気な「おおかみこども」が暮らすのは難しい都会から田舎へ引っ越し、都会よりむしろ異質な他者に不寛容でありそうな田舎で彼女は地域住民の信頼を獲得していく。ここにあるのは吐き気を催すほど、「男」にとって好都合な「女」であるが、花には「母」であることの葛藤が存在しないので、視聴者はそういうことを意識しないで済む。だが「おおかみこども」の二人の「父」なき混沌の乗り越えはこれほど単純ではない。特に雪は雄の身体を持つ「おおかみこども」であり、花の新しいロマンスの相手となるキャラクタが不在であるから、彼は「父」となることが宿命づけられている。この映画がメロドラマの文法に忠実であることによって。

    この映画は三人の成熟の過程を描くことで一見して複雑そうな物語構造をとっているが、極めてメロドラマの文法に忠実である。その点で面白いのは、狼男の成熟した男性である「彼」がいかに成熟までを、その狼と人間の中間足る身体でありながらやり抜けたのかという知識の継承に失敗しているという点である。そのため劇中には「(狼と人間の中間の存在が)どうやって成長してきたのかちゃんと聞いておけば良かった」といった内容の台詞さえある。まさにここに父の不在による混沌がある。さて雨と雪はいかに父の不在を乗り越え、成熟するのか。こうしてメロドラマが、いかにジェンダー規範を身につけるのか、というドラマが作動することになる。実際、雨と雪が物語中で苦悶するのは、ジェンダー規範の獲得という課題のためである。しかし後に詳述することになるが、雨はジェンダー規範の獲得に失敗し、その失敗と「おおかみこども」という特性が組み合わさることで、一種のアクロバティックな「成熟」を成し遂げることになる。さて、それでは雨と雪はどのようにその課題と戦うのか。

    雪は人間の雌の身体を持つ「おおかみこども」であり、非常に活動的な子どもである。彼女は家の周りを狼の姿で駆けまわり、猪や野良猫と喧嘩をする。彼女もやがて小学校に通うことになる。そこで低学年の内こそ運動ができることによって人気者となるが、彼女の狼性は(「男は狼なのよ」という歌もあるように)本能の壊れた動物としての人間の中では男性性と解釈されてしまう。例えば彼女の「宝物」は動物の骨やトカゲの干物であるが、当然、それは同級生の少女たちの間では受け入れられない。そこで彼女は「女の子」らしくあるために、ほとんど恐ろしいほどに「良き母」である花に「青いワンピース」を作ってもらい、同級生たちに「可愛い」と言われ、その輪に再び入ることに成功し、「これに本当に助けられ」る。彼女は狼性を隠匿することで、一度、女性性を獲得する。しかし、それを脅かす存在が現れる。転校生の「草平くん」だ。彼は彼女に「犬でも飼っているのか」「けものくさい」と、特に告発するつもりもなく言うが、それは彼女にとってあの隠匿した狼性、男性性を指摘されることに等しいのであって、彼女は「狼」狽し、ついに彼にその年頃の少女にはありえないほど強い暴力を行使し、草平を沈黙させる。彼女にとって、それは男性性の隠匿の失敗に他ならないために、彼女は人間の中で生活すること、女性性を獲得することに失敗したと思い込み、一時的に不登校になる、だが草平は彼女の隠匿しているものを理解し、受け入れ、彼女と彼女が「おおかみこども」であるという秘密を共有する。彼女はこの「男」と秘密を共有し、帰属するジェンダーを安定させ、物語の終わりには「良き母」足る花のもとを離れて、都会の寮がある中学校に進学する。彼女は社会の中でいかに振る舞うべきかという規範、特にジェンダー規範の内面化に成功したのだ。これは勿論、肯定的に描かれる。中学校の校門の前、笑顔の花と彼女のツーショット、そしてナレーション。映画が終わる。だが、私の文章は終わらず、雨と「課題」の抗争を見ていくことになる。あるいは、雨の戦いこそ、この映画をメロドラマによる支配から救済しているということを。

    雨の成長過程はメロドラマの枠内における一種のアクロバットになっている。どういうことか。雨は雪とは違って、人間の雄の身体を持つ「おおかみこども」である。しかし彼は雪とは反対に、大人しい性格であって、雪に「狼らしくない」といったことを言われるような性格である。狼らしくない、というのは、人間社会においては「男らしくない」ことに翻訳されうる特性であって、雪は、雨が後に女性性との間で葛藤を生むことになるほど活発な子どもであるのに対し、授業中は教室の後ろでじっとしていて、授業時間外は廊下で他の子どもに「いじめ」の類と思しき行為を受ける短いシーンが挿入されるような子どもであって、その時には雪に助けられてさえいる。雨は人間社会に溶け込むこと、言い換えれば男性性の獲得に失敗していることが強調され、ついに不登校になる。雪もまた不登校になっているが、彼女は草平との間で「秘密を共有し」、彼に受容されることで、安定した女性性を獲得するのに対し、雨はついに人間社会に溶け込むこと、男性性を獲得することを完全に断念する。この断念は雨が「おおかみこども」であるという設定によって、端的なものとして、つまり雨が小学校ではなく、山の主である狐のもとに通い、狼の何たるかを教わり、ついに人間ではなく、狼として生活するようになる、という形で現れることになる。いわば雨は男性性の獲得に断念し、その代わりに、狼である自己に目覚め、動物というジェンダーの未分化である地点へ移行するのである。これが、この移行こそが、メロドラマへの抗いなのだ。しかしここで注意したいのは、雨は山の主である狐の役割を継承し、山に秩序をもたらす存在つまり、人間社会の「父」に相当するものになったとも解釈可能であるということだ。ただし、その解釈は、我々が動物の世界に我々自身を投影する時にだけ成立可能なものである。

    まとめよう。『おおかみこどもの雨と雪』は、直接の父を喪うことで、象徴の「父」をも喪った「おおかみこども」たちとその母の混沌に陥った世界がジェンダー化という劇中で徹底的に祝福される過程を経ることで再びその眼前の世界に秩序をもたらし、特に人間の雄の身体を持つ雨は山の主の地位を継承することで山に秩序をもたらす者すなわち「父」となる。これは完全にメロドラマの文法に従ったものであって、典型的であるということができる。しかし、我々が動物の世界に我々を投影しなければ、雨はジェンダーの未分化な地点に移動したのであると解釈することができるのであり、この映画にメロドラマと同時にメロドラマとの闘争を見て取ることができるようになる。

  • 道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    道徳的な天気などというものは存在しない:新海誠『天気の子』

    Authored by 円原一夫

    僕たちは世界を変えてしまった。劇中、冒頭と結末の2回繰り返される台詞。では何故、「僕『たち』は世界を変えてしまった」というように、主語が複数形なのか。「僕」でもなく、「あなた」や「あなた方」でもなく、「僕たち」。さらに言えば「私」や「私たち」ですらありえたであろうに。

    結論から書くと、これは帆高くんが超人になろうとしてなりきれない、その苦しみのために吐き出した言葉だ。彼が超人ならば「僕は世界を変えてしまった」と言うであろうし、超人でなければ「あなた(がた)が世界を変えてしまった」と言うであろう。この(普通、男性が使う)複数形は、ちょうどその中間、重すぎるものを引き受けようとするが引き受けきれないところに生じた。

    重すぎるものを引き受けようとするとは、どういうことだろうか。そのために一つ想起して欲しいのが、劇中、「天気の子」である陽菜さんを生贄とすることを拒否した結果、「世界」がどうなったかということだ。雨が降り続けて、ついに東京が沈んだ。そう、しかし、あなたはさらに想起するべきである。東京が沈むプロセスはどのようなものであったか。あなたは何も思い出せない。当然だ。そんな場面はなかったのだから。水没が常態化したことを示すようにして、ついに水上バスのようなものが生活に使われている東京が一瞬描かれる他には、何も、ない。

    東京が連続する豪雨によって水中へ没する過程は完全に「吹き飛ばれた」。「途中は全て消し飛んだ」。残るのは結果だけだ。あなたはプロセスを想像するべきである。いや、やはり想像するべきではない。それはあなたのトラウマを喚起することがありえる。大量発生する避難民、残された住宅ローン、中小小売商工業者の職住の喪失、疫病、首都における甚大な被害による東アジアにおけるパワーバランスの変化、金融機能の停止と企業の国外移転の加速化、教育期間の短縮による児童発達の不健全化、自殺者の増大、飢餓ゲーム、親殺し、ホームレスの大量発生、第二次就職氷河期、社会保障費の膨張、金融緩和と建設国債発行に伴うインフレの深化、スタグフレーション、飢餓ゲーム、カブトムシ、秘密の皇帝、飢餓ゲーム。

    帆高くんは、上記の景色を超人としての力でもって、吹き飛ばしたのである。このことは、彼の物語上の「敵」の立場のために、明らかである。というのは、それが主人公とは負の方向に自己実現した者のことであり、つまり帆高くんの「敵」の分析が帆高くんの立場を明瞭なものにするから。

    そこで私は「敵」を2人、挙げよう。第一に高井刑事である。梶裕貴が声優を務めた、若い方の刑事、ラストシーン近く、帆高くんを止めるために銃口を向けた刑事。この映画は(警官が超法規的に事件を解決するドラマが人気で、警察に拘束された時点で推定「有罪」となって「容疑者」の実名が報道される国においては)面白いことに、警察組織がしばしば主人公の目的達成の障害として描かれるが、その内の最大の者が彼だ。彼は法秩序の守護者であり、法秩序を守護することを行動の目的としている。

    もう一人はオカルトライターの須賀である。彼は必ずしも物語上の「障害」ではないが、「敵」ではある。彼は初め、援助者として現れ、最後にまた援助者となるが、その間に、本物のオカルトに触れてしまった帆高くんから身を守るために、彼を遠ざけ、さらに追い詰める。彼は喘息持ちの娘のために、二重に帆高くんと敵対する。陽菜さんを人身御供にして晴れを作り出すこと、帆高くんを遠ざけて娘を養育できる生活力を確保することが、彼の目的であるから。

    これらの目的と対立するがゆえに、彼は超人とならざるをえない。法秩序すなわち社会、あるいは娘すなわち家族、もしくは生活すなわち経済、あらゆる「目的」と彼は既に敵対しているのである。そもそも、彼の生きている世界とは、オカルト(隠されたもの)がそれに言及することで生計を立てている人々においてすら信じられていないような世界であり、そして何よりも、天気を操作するために人身御供を捧げるという儀式をすら忘却しているような世界である。だから彼は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と宣言する。ここで、ついに、私たちは帆高くんが解釈の闘争の現場としての世界を発見したことを知る。彼は、まさに超人の概念を提唱したニーチェのごとく、「道徳的な天気などというものは存在しない。天気の道徳的な解釈が存在するだけだ」と言ったのである。儀式が忘却されたのならば、儀式によって示される正しさもまた、忘れ去られなくてはならない。正しい(とされる)社会も家族も経済も、それどころか正しさそのものが失効した。あるのはただ、解釈同士の闘争だけである。全ての闘争を終わらせる超人が誕生する。彼は自ら目的を作り出す。彼は一つの都市を一人の女のために滅ぼすことすら、肯定できる。その過程で起きることなど、彼の意識に上ることすら、ない。彼は社会のため、家族のため、経済のためという目的を全てを放棄し、それを通して自分の行動を正当化することを断念し、自分の行動を自分自身で肯定する。超人が誕生する。

    だが超人への道は、あまりにも険しい。超人である帆高くんは、高井刑事や須賀のように、社会や家族や経済を自己の正当化のために使用することができない。その使用を断念することで、彼はあらゆる葛藤を予め封殺し、一人の女のために一つの都市を滅ぼすという、それを正当化する一切の公共的な理屈を必要としない、純粋な力が使用できるようになった。しかし、大きな力には大きな義務が伴う。彼は自らを都市の滅亡の原因とし、自らを都市の滅亡の責任としなければならない。「(社会や家族や経済ではなく、この)僕が世界を変えてしまった」と言わなければならない。

    それでも、私たちは、この映画の最初と最後の台詞が「僕たちは世界を変えてしまった」という(主に男性が用いる)一人称複数形の台詞であることを知っている。ここで複数になるのは、まさに超人として引き受けなければならないものの重さのためである。帆高くんは、超人の耐え難き重さを陽菜さんに分有させようとしたのである。

    しかし、この映画の恐ろしさ、言い換えれば素晴らしさは少しも減じることがないだろう。もしも陽菜さんが帆高くんと超人の耐え難き重さを分有するならば、誰もが忘れているが確かに今も「正しい」世界を維持するために犠牲となっている者たちが、一つの巨大な超人の集団となって、我々を大洪水や大地震で滅ぼしてくれるのだから。

  • 過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    過ぎ去ろうとしない過去:ポン・ジュノ『殺人の追憶』

    Authored by 円原一夫

    ポン・ジュノの『殺人の追憶』は傑作映画だ。遥かに残虐で残酷、特殊効果もたっぷり使った映画を観ているにも関わらず、観終わった後は暗闇が怖くなった。それはあの、パク刑事の顔がアップになるラストシーンのためだ。パク刑事が何故あのような表情になったのか。その答えが、あの映画の恐怖の源泉だ。

    あれは、パク刑事がパク刑事と社会の罪と罰を思い知らされたがゆえの顔だ。『殺人の追憶』は罪と罰の映画なのだから。あるいは、因果応報の、映画。

    そのことが端的に示されているのが、捜査から外されたチョ刑事の、些か唐突で、冗長とも言えるような挿話だ。彼は捜査から外されたのだ。彼はソウルから来た刑事のスマートさを明確にするための、木偶に過ぎないように見えたし、捜査から外された以上、もうあえて描く必要もないように見える。しかし彼が飲み屋で乱闘騒ぎを起こして、ついに脚を失うことになるまでが丁寧に、執拗に描かれる。これは不可欠なシーンなのだ。彼は因果応報、彼の罪によって、脚を失うことになる。軍事独裁政権下の警官である彼は、取り調べで平然と暴力を行使し、自白を引き出そうとする。彼はそのために、彼が暴行するためにいかんなく発揮してきた身体能力を失う。これが、彼の罪と罰。

    ソウルから来たスマートな刑事であるソ刑事もまた、この映画に通底する因果応報の理から逃げることはできない。彼は捜査の過程でスマートさを失い、彼が嘲笑してきた田舎の刑事と同様の粗野な刑事になり、下がる。これもまた、罪と罰だ。なるほど、キム・サンギョン演じるソ刑事は、パク刑事らの拷問や自白強要に抵抗する良心的な刑事であるように思えなくもない。しかしそれは、彼が単に「スマート」であるからに過ぎないのであって、警察機構そのものの体質に対する疑念からといった類の行動ではない。そして実際、彼は、必要と判断すれば、暴行でも何でも行う。その罰として彼は科学的捜査の結果すら受け入れられないようになる。そして、犯人が捕まえられないという最大の罰を味わう。

    この映画には罪と罰の原則が貫かれている。パク刑事もまた、その理から逃げることはできない。彼は悟り、彼は映画の最後にあの表情を見せる。つまり、あの顔は、まずは自分の罪と罰を理解した顔でもある。

    彼は罰を延期することで、罪を重ねていたのだった。彼は刑事を辞め、営業マンになっている。あの犯人を追っていた時の気迫、葛藤は何処かへ消えて、家族の団欒をすら楽しむ。さらには、まだ彼は罰を受けていないから、家族に対して(元刑事である)自分の人の目を見る目は確かであると言いさえする。

    それが、最後のあの場面で全てひっくり返される。パク(元)刑事の受ける、これが罰であった。ラスト、少女は彼に言った。

    「何処にでもいる、普通の顔」

    彼の受ける罰は、彼の刑事としての能力が完全に疑われることに留まらない。刑事を辞め、今では部下と家族を持つ営業マンになった彼は、彼の隣人の誰か、同僚の誰かが犯人である可能性をも考えざるを得なくなる。何処にでもいる、普通の顔の者が犯人であり、それを見抜く能力はもう、彼にはないと明らかになってしまったのだから。彼は刑事を辞めてなお、未解決事件から逃げることができなくなる。

    ところで、こうなると殺人鬼自体には罪と罰の原則が適用されていないことになる。殺人鬼は捕まらず、罰を受けない。

    私たちは、あの殺人鬼それ自体が「罪と罰」であるということを、スクリーンの向こうのパク刑事とともについに悟る。

    ここで、あの連続殺人が可能になった条件を思い出そう。当時の韓国が軍事独裁政権だったからである。これは、こじつけではない。軍事独裁政権であり、戦時下(今もまだそうなのだが)の国家である韓国では南侵に備えて、消灯訓練を行っており、その時の暗黒に乗じて犯人は殺人を繰り返したのである。このことは映画にも描かれている。また、軍事独裁政権下の官憲の杜撰な捜査についてはこの映画で終始描かれている。

    つまるところ、あの殺人鬼は軍事独裁政権の過ぎ去ろうとしない過去であり、国家それ自体の罪と罰だ。パク刑事は軍事独裁政権下の官憲であったことを「許された」かのように民主化後の韓国でパク営業マンとなったのだが、ラスト、彼は社会そのものの罪と罰を知ることになる。彼にはもう、沈黙し、あのような表情を浮かべるしかない。

    もう私たちには、この日常を維持するために封印した過去が暗黒に不意に現れる瞬間を震えて待つしかない。

  • 粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    粗野な共産主義のある抗い難い魅力:ソン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』(原題『부산행(釜山行き)』)

    Authored by 円原一夫

    父子がソウル発釜山行きの高速鉄道に乗る。時期を同じくして、韓国の北部でゾンビが発生し、南下を始める。鉄道にも乗り込んでくる。父子を含めた乗客は車内でゾンビに抵抗しつつ、南を目指す。

    このゾンビは災害ではない。このゾンビは抵抗し、打倒しなければならない絶対の敵だ。この映画全体を貫く強い緊張感はそのためである。単純なパニック物ではない。ヨン・サンホは危険なゾンビが存在するのではなく、ゾンビが危険であるという解釈だけが存在するということ、ゾンビの思想性こそがゾンビ映画を面白くするということを理解していたいに違いない。ゾンビがただそこにあるだけでは恐怖はない。

    まず釜山を目指すという設定が、このゾンビに敵対性を付与している。目指す場所が釜山であることは、極めて重要な意味を持っている。そもそも、この映画の原題は「釜山行」だ。そして台詞、「釜山だけが初期防衛に成功した」。

    ここまで繰り返されれば――あるいは既にゾンビが南下しているという設定によって――誰でも察しはつく。この韓国で作られた韓国人俳優が出てくる韓国が舞台の韓国映画はまずは観客の少なくない部分である韓国人に対し、朝鮮戦争の記憶をフラッシュバックさせようとしている。朝鮮戦争では、北朝鮮軍の南侵によって韓国軍は南へと追い詰められた。米軍主体の国連軍の介入によって南下が止まり、反転攻勢の始点となったのが釜山だった。

    しかし、このゾンビは単純に北朝鮮軍の戯画化ではありえない。恐怖の対象あるいは敵を愚かなものとして描くような知性の欠如は、この映画にはない。むしろ、彼らは既にユートピアを実現しており、死すら克服したユートピアには「党」はもはや必要ない。朝鮮社会主義を超えた社会主義者の集団。彼らの内部には搾取も支配も差別もない。それは危険な魅力を備えている。そして魅力ある敵ほど危険なものはない。映画全編のこれほどの緊張感はそのためである。このユートピアからの使者に抗い、防衛するほどの何かが我々の側にあるだろうか? という問いが繰り返される。答えを求められる。

    高齢のインギルとジョンギル姉妹の一連のエピソードは、そのことを示している。彼女たちは高齢になって、初めての旅行に出る。高齢の夫妻や男性ではなく、姉妹。その初めての高速鉄道での長距離旅行。背後にあって、彼女たちから旅行を奪ってきたのは恐らくは家父長制と労働者階級の貧しい生活であろう。そしてゾンビ・パンデミックに巻き込まれる。インギルがゾンビになる。ジョンギルは生存者たちとともにおり、ゾンビの集団の中にいるインギルをドアを隔てて見ることになる。彼女はついにドアを開けるのだが、彼女がドアを開けるまでの間にしつこく描かれるのは「生存者たち」の醜さである。

    最後に生き残って釜山へと辿り着くのが妊婦と子ども――まだ十全に実現されていない命であるのは、ゾンビのユートピアのプロパガンダに対するカウンター・プロパガンダだ。しかし、これほどの恐怖を味わった後では頼りのないカウンターではある。私たちの希望はもう、妊婦(の中の赤子)と(赤子でも大人でもないという意味での)子どもしかないのだろうか。私たちはジョンギルのようにドアを開けなくてはならないだろうか。

  • きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    きみは悪から善をつくるべきだ、 それ以外に方法がないのだから。:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

    Authored by 円原一夫

    ようやく『君たちはどう生きるか』を観ることができた。およそ、粗筋やキャスト、舞台について何も知らずに映画を観ることがなかったため、まずその点で新鮮な体験だった。とはいえ、とにかく私はこれを宮崎駿の作品であるということだけは、確かに、知っていた。

    宮崎駿の作品に共通するのは、その、日本中の家族を動員するほどの、ある種の単純さである。シンプル・イズ・ベスト。俺は褒めてんだぜ(立川談志)。『風立ちぬ』のような作品を除けば、宮崎駿の映画作品は概ね、「オールドな啓蒙主義」の作品であり、ビルドゥングスロマンであり、「行きて帰りし物語」である。少女が異世界で労働を通して成長し、日常へ戻って僅かに世界を改善する(『千と千尋の神隠し』を想起せよ)。

    そして、この『君たちはどう生きるか』もまた、「オールドな啓蒙主義」の装いを保っていた。だから、宮崎駿が好きなものは、『風立ちぬ』に拒否反応を示したものも、面白く観ることができるだろう。

    しかし私は『君たちはどう生きるか』を「オールドな啓蒙主義」を面白おかしく説明するための題材にするような真似はしない。批評は認識の革命である。批評は、あなたが自分が本当には『君たちはどう生きるか』を観ていなかったと悟らせ、もう一度、劇場に足を運ばせる。そう、私はこれが「オールドな啓蒙主義」の装いを保ちつつ、「オールドな啓蒙主義」を超えた作品であると、あなたに言いたいのだ。つまり傑作である、と――。

    そのために私が考えてみたいのは、何故、あの塔の中の世界では妊婦である夏子に近づくことが禁忌とされていたのかということである。幾つかの台詞で、しつこく、夏子の腹の中に子どもがいるため、接触が禁止されていると説明され、そしてその侵犯が物語をさらに進める。インコですらもが、子どもが腹の中にいるため夏子を食べようとはしない。

    この「禁忌」の謎を、私がこの作品を分析するために選んだのは、必ずしも恣意的なものではない。偉大な法学者ハンス・ケルゼンは、法規範の最終的な根拠、あらゆる法規範を妥当なものとする最上位の法規範である根本規範という概念を提唱したが、私はこの「禁忌」の分析を通して、あの世界の根本規範を素描しようと企図しているのである。

    さて、結論から書けば、これは赤児が「無垢」であるためなのである。あの異世界は無垢な者が構築し、悪意の汚れのある者たちが運用・保守しなくてはならない世界としてある。ペリカンはそれを「地獄」と言ったのだ。無垢な者などこの世界に存在しないのだから。そう、始めから全てが間違えている。だから、「地獄」。

    あの世界の根本規範を考えるための、今ひとつの材料は、眞人が何故、あの世界の次代の創造者に選ばれ、そして、それを彼が何故、断ったかということである。そして、前者の疑問への答えが「無垢であるから」であり、「実は無垢ではなかったから」なのだ。無垢、無垢、無垢。これが今回のこの映画の根本規範だ。

    あなたは、このような疑問を持ってよい。例えば、何故、次代の創造者は「ヒミ」や「キリコさん」、「夏子」ではなく、眞人なのだろうか?

    ここでもまた考えなければならないのは、「無垢」である。「ヒミ」は実は主人公の母であり、「キリコさん」は眞人の母の屋敷に勤めていた女中なのである。「ヒミ」が何故、あの塔の中の異世界に入ったのかは明示的には描かれていないが、重要なのは、「キリコさん」を伴っていることである。彼女は女中を伴って、塔の中に入ったのだ。間違いなく地方の名士の娘である彼女が、塔の中の異世界でも召使い(と主人の関係)を必要とした人間であると想像するのは、私のプロレタリア的嫉妬のためだろうか。そして、塔の中で、「キリコさん」は自らは殺生しない「無垢」な者たちに肉を提供するため漁に従事し、「ヒミ」は(恐らくは)塔の中の循環の維持のために連れてこられ、致し方なく「わらわら」を食べているペリカンを火炎で追い払い、火傷で殺すような労働に従事している。そして夏子は家庭を放棄して、塔の中に入り、やがて訪れた義理の息子を危険に曝す。

    安心してください。私はまだ主人公と彼女たちの決定的な差異について解き明かしてませんよ。

    彼女たちと眞人の差異は何だろうか? 私たちが想起すべきは、眞人は「予め」次代の創造者だったわけではないということである。そうだとすれば、映画が1時間で終わってしまう。彼は「大叔父」に案内を依頼された「アオサギ」に連れられて、あの世界を冒険しなければならない。冒険して、最も危険な場所である「夏子」のいる部屋に入る。彼は彼女を「夏子母さん」と呼ぶ。主人公の父親の再婚相手である夏子を、複合名詞である「『夏子』『母さん』」と呼んで、母の喪失を彼なりに乗り越えようとする。

    これこそ、主人公と彼女たちの差異が明白になった瞬間であった。冒険は継承者の選定に必要な過程であった。主人公だけが自分のためにではなく、誰かのために塔の中の世界に入ったことが明らかになった。彼は「悪意のない」積み木を渡され、塔の世界の継承者になることを求められる。

    しかし彼はそれを拒否する。「この傷は自分でつけました」。彼は疎開先の学校で喧嘩をした帰り道、自分で自分の頭を石で殴り、大きな傷を作る。その傷のことを、「大叔父」に伝えて、オファーを断る。

    この傷が「大叔父」からのオファーを断る理由になるのは、次のような状況のためである。実に宮崎駿は細部にまで「無垢」というテーマを徹底した。この映画は戦時中が舞台であり、そして眞人の父親は軍需工場のオーナーなのである。木村拓哉演じる彼は、眞人を心配して(勤労奉仕という意味のないことをしている)学校には行かなくていいと言ったり、日本軍が苦戦していることを正確に認識しているような、実に物分りのいい、頼りになる、良き父であるのだが、しかしまた、たしかに軍需工場のオーナーであり、日本軍の苦戦による需要の増大を喜びもし、そして「父」らしく、妻の死による家庭の混乱を直ちに妻の妹との結婚で平定するような人間でもある。眞人が喧嘩をしたのは明らかに、軍需工場のオーナーの家族とは生活水準で差があり、自分たちの農地から労働力を奪い去る戦争の最中にあっても、軍需工場で労働するか、農地を耕すしかない人々の子弟であった。

    つまり「この傷は自分でつけました」という台詞は、また、「私は自分を罰しました」と言っていることに等しい。「無垢な者などいない」と言っていることに等しい。自分の利益のために何かをしないなど、無垢であることの証明にはなりはしない。ましてや、少年であることなど。眞人は既にペリカンを埋葬しているのであり、この台詞で、オファーの拒否で、無垢な者が世界を構築すれば世界は良くなるという大叔父の発想があまりにも無邪気であることを指摘したのである。大叔父も、静かに、眞人のオファーの拒否を肯定するより他にはなく、ひいては無垢な者が世界を構築するという自分のプロジェクトの崩壊を理解するより他にはない。だから彼はあの世界と運命をともにした。

    さて、私は、この映画の最大のテーマが「無垢な者」であることを明らかにした。だから今では、あの塔の世界の禁忌が赤児との接触であるのは、赤児が無垢な者であるからだと、今、ここに書くことができ、そしてまた、そこから循環的に、あの世界にいる者は「ヒミ」ですらが赤児との接触を禁じられているからには、無垢な者ではないと言うことができるだろう。

    そして赤児による統治も現実的ではない。私は行政学的、政治学的な統治行為の研究を引くつもりはない。この映画がそう言っているのだ。禁忌は破られたではないか。それも、「悪意のない積み木」の継承者に選ばれた者によって。そして赤児を崩壊する世界から外の世界に連れて出すのは、もちろん、「悪意のない積み木」の継承者には選ばれなかった女たちであった。

    そう、世界は無垢な者たちが作るものではない。「ヒミ」は火の中に身を投じ、眞人と夏子は火で焼かれた後の東京へ帰る。世界は無垢な者たちのものではない。「この傷は自分でつけました」と言える者のものである。

    啓蒙主義のプロジェクトは「蒙」を「啓」かれた者たちが良き世界のためには必要であると宣言したが、出現したのは「蒙」を「啓」かれた(と自称する)者たちによる地獄であった。現実に、ペリカンではなく人間が世界の維持のために必要だとして焼かれたのであり、焼かれている。

    善き世界の構想ではなく、悪しき世界の継承。

    言い換えれば、火の中に身を投じること、あるいは焼け跡に帰ること。

    だがそれは映画の中で描かれたように、無垢であると観念されているような世界の大規模な崩壊なしには、現れないような人々によってだけ、可能なことだろう。

  • プルードンとマルクスの思想の差異より世界の終わりについて想像するほうが容易い:映画『オッペンハイマー』

    プルードンとマルクスの思想の差異より世界の終わりについて想像するほうが容易い:映画『オッペンハイマー』

    Authored by 円原一夫

     クリストファー・ノーラン監督作品『オッペンハイマー』は、マンハッタン計画を強力に推進したロバート・オッペンハイマーの伝記映画である。『イミテーション・ゲーム』や『ビューティフル・マインド』、『ハンナ・アーレント』のように、学者を主人公にした映画は数多く存在するが、今後、誰かにそのような作品を薦める機会があれば、私は『イミテーション・ゲーム』とこの『オッペンハイマー』を薦めようと思う。伝記映画のカテゴリなら、さらに『マルコムX』を加え、文化人を主人公にした映画も含めるならば『カポーティ』も適しているだろう。

     私がこの映画を高く評価する理由は、この作品が「世界が終わった後の世界」を描いているからだ。そう、世界は既に終わっている。驚いたか? いや、あなたは驚いてなどいない。あなたは、世界が既に終わっていることを知っている。世界はもうどうにもならない。悪化することはあっても、良くなることは決してない。知っているだろ? 知らなかったのか? それでは、あなたは人生を丁寧に生きてきたとは言えないだろう。家を出て、五分もすれば、誰だってわかることだ。人類は今、終末後の世界を生きている。この映画は、オッペンハイマーという人間を通じて、その現実を描き出してしまったのだ。「描いてしまった」という表現は、それがノーラン監督の意図とは異なる可能性があることを示唆するために、そうした。しかし、意図など重要ではない。世界は既に終わっているのだから。

     劇中、オッペンハイマーは左翼の女性「ジーン」との会話の中でこう語る。

    「資本論は読んだ。三巻全部ね。長ったらしかった。こんな言葉があったな──所有は窃盗である」

     これに対し、彼女はこう返す。

    「財産」

    「財産?」

    「財産。所有じゃなくて」

     オッペンハイマーは続けて言う。

    「失礼、ドイツ語の原書で読んだから」

     史実のオッペンハイマーも多言語に秀で、複数の言語を使いこなしていた。この場面は、彼がドイツ語で講義を行う場面と同様に、その才能を示している。また、オッペンハイマーが共産主義に関心を持ち、カール・マルクスを原書で読むほどの関心と知識を有していたことを示す場面でもある。しかし同時に、この場面はオッペンハイマー、あるいはノーランの誤りをも示している。しかし、実はここに、この映画の全ての価値を左右する可能性の中心がある。

    「所有は窃盗である」というテーゼは、一般的にカール・マルクスではなくピエール=ジョゼフ・プルードンに帰せられるものであり、ここでは明らかにカール・マルクスとプルードンの混同が見られる。

     しかし、私はこの場面でジーンのように「財産」と「所有」の違いを指摘したいわけではないし、マルクスとプルードンの差異について語りたいわけではない。また、制作陣の社会主義や無政府主義、左翼思想に対する無知を批判するつもりもない。むしろ、逆である。この否定性が肯定されるとすれば、どのように肯定されうるのかを考えたいのである。それこそが、クリストファー・ノーランの意図を超えた、映画の可能性の中心だからである。

     この謎を解き明かすために、もう一つの場面を思い出してみよう。

     映画の終盤にオッペンハイマーとアインシュタインの会話が描かれる。かつてオッペンハイマーは、「核爆弾を炸裂させた場合に地球の空気全てが発火する可能性」についてアインシュタインに相談していた。もちろん、世界は滅亡しなかった(地球の空気全てが発火することなしに核実験は成功し、核爆弾が実用化された)。しかし、オッペンハイマーはアインシュタインに「我々は(世界の滅亡を)引き起こした」とアインシュタインに伝える。この言葉には、核兵器の実現によって世界は既に滅亡を先取りしてしまっているという彼の絶望が込められている。彼は無数の弾道ミサイルが発射されるイメージを幻視する。

     既に死刑が決まった死刑囚にとって残りの日々はただの消化試合である。これは比喩ではない。死刑囚の残りの日々は死刑を待つためにある。彼は更生可能性がないから死刑囚になったのだ。彼は死刑になるために、健康であること、自殺せずに生きることすら、義務である。核兵器の開発は、ちょうど世界を死刑囚にしたのである。世界は死刑の日をただ、待っているのだ。オッペンハイマーはそれを理解してしまった。世界の滅亡のビジョンを見ない者には、彼は戦前と戦後で主張の一貫性を失い、支離滅裂な言動をしているようにしか思えない。しかし、懲役囚と死刑囚とで、死生観が同じであることを期待するのは誤りである。

     マルクスも、プルードンも、その他のオルタナティブも、既に滅んだ世界には何の意味もないのではないかという問い。この映画の可能性の中心とはそれである。人類は一線を超えている。財産と所有、マルクスとプルードン、原本か邦訳か。そんなことに、今や何の意味があるというのか。死刑が確定したのだから。何もかもが無意味になる時は、既に。アポカリプス・ナウ。