OnTheBeach

For the end of the world and the last man

カテゴリー: 書評

  • 叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    叶えられた祈り:谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

    Authored by 円原一夫

    谷川流、著。来年で刊行されてから二十年になる。二十年もあれば、一人の人間が成人になったり、経済先進国の地位が入れ替わったり、「キョン! 何々をするわよ!」とアニメを踏まえたジョークをSNSに書いても、若い人に「この『キョン』って何ですか、叫び声ですか?」というメッセージを貰ったりするのには十分な時間である。

    それでは、あなたとこの作品の関係はどのように変化しただろうか。あなたはもう、この作品を少々オールドだと感じている。何故なら、あなたはトラックに轢かれて別の世界に行き、そこで暮らしたいと思っている。あなたは既に確立された、諸々の身分「悪役令嬢」「負けヒロイン」「最強だった魔王」「追放された勇者」「実力を隠したエスパー」になり、そしてその身分に微修正を加えることのできる世界へ行き、ここへ、帰ってきたくないと思っている。

    つまり、『涼宮ハルヒの憂鬱』は極めてオールドなタイプの啓蒙主義小説になってしまったと、私はそう言いたいのである。オールドなタイプであることには、何の否定的な価値も含まれていない。反時代的であることは、場合によってはむしろ良いことだ。

    オールドなタイプの啓蒙について説明する前に、私は以下のような問に取り組むことにしよう。ハルヒは何故、キョンと接吻することによって、あの青白い巨人が街を破壊し、巨人の他にはハルヒとキョンしかいない世界から帰ってきたのかということである。そう、あなたはまだちゃんと『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでいないのである。この疑問を、私は、奇異なものだとは思わない。オールドなタイプの疑問だと思っている。それはあなたがハルヒの舌の味、キョンの舌の味を想像してよいからである。あるいは、あのまま、巨人に見下ろされながら、接吻以上の何かを試みる二人を想像してよいからである。つまり、性愛によって彼女が救われたということを、スニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層にあわせてマイルドにしたのだということでは、説明にならないと、私は言っているのである。

    実際、あの世界から戻った後のハルヒとキョンの間に、例えば(それこそスニーカー文庫がアウトリーチしようとする読者層に合わせた男女の関係性である)「カップル」になったとか、「恋人同士」になったという描写はないのである。僅かに、ハルヒが短い髪でポニーテールを作ろうとしていたことが描かれるだけである(だが、後で書くがこれはオールドなタイプの啓蒙のための髪型である)。

    まず、あの世界がどのように作られたのか、どのようなものか、それを確認することにしよう。

    『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公が亀有公園前派出所ではないように、『涼宮ハルヒの憂鬱』も涼宮ハルヒが主人公ではない。これは、キョンという、その本名が明かされない男子高校生が主人公であり、彼の一人称視点で物語は進行する。谷川流は極めて優秀な作家であって、この点にもオールドなタイプの啓蒙のための必然性があるのだが、そのことは今は置いておこう。ともかく、その彼のクラスメイトが涼宮ハルヒという少女であり、彼女には彼女自身理解していない、ある能力がある。それは、彼女が自分の望んだことを全て実現することができるという能力である(「これ? ただ望んだだけなんだが」「これは数値マックスの大魔導士しか使えないスキルですよ!」)。ところで、この力にはある重大な制限がある。彼女は神ではないということである。神は、世界の外部に存在しなければならない。倫理がそうであるように。これが重大な制限である。どういうことか? 彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはないのである。

    物語は、この矛盾において生じる。ハルヒは高校入学直後、キョンを含めたクラスメイトたちの前で、このように述べる。「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人・未来人・異世界人・超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上!」。さらに彼女は宇宙人、異世界人、超能力者と接近遭遇するための部活動「SOS団」を作る。しかし、既に書いた通り、彼女には願望を実現する能力がある。そう、もう宇宙人、異世界人、超能力者は、ハルヒとキョンの通う高校に、いるのである。ところが、やはりこれも既述の重大な制限のために、ハルヒと彼らは会うことがない。彼女は彼らと出会うことを望んでいるが、しかしまた、そんなものは存在しないという意識のために、出会うことがないのである。語り部であるキョンだけが、彼らと会い、そして願望を実現する能力を持つ少女に対応しようとする彼らの(宇宙人、異世界人、超能力者の世界における)政治的抗争や工作に巻き込まれる。

    さて、以上のあらすじと設定を踏まえて、ようやく、あの青白い巨人が暴れまわる世界は何だったのかを確認することができる。その後で、私はあの世界から接吻によって帰ることが、なぜ、オールドなタイプの啓蒙と言えるのかを書くことにしよう。

    あの世界は何故、できたのか? これは簡単である。タイトルに書いてある。涼宮ハルヒの「憂鬱」。憂鬱のために、できたのである。憂鬱は、日常的用法では、歯医者に行くことを想像するだけでもなることのできる精神状態ではある。ここでは、もっと深刻なものを想定すべきだ。例えば、この作品の英訳されたタイトルは「melancholy of haruhi suzumiya」であるが、これは涼宮ハルヒの鬱病と訳しても、内容を精査する前であれば、許されるだろう。そう、彼女は鬱病となって、キョンと心中しようとしたのである。そも、自殺とは、最も簡単な(少なくとも主観的に)世界を滅ぼす方法の一つであった。

    この読み方は、こじつけではなく、最も率直な読み方であると、私はここに書こう。彼女が「ただの人間には興味ありません」と言ったのは、ただの人間とは二十四時間、常に出会っているからである。彼女自身が「ただの人間」なのだ。実際、作中で、ハルヒはキョンに「野球場の思い出」を語っている。

    「それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、何よりも、自分の通う学校の自分のクラスは、世界のどこよりもおもしろい人間が集まっていると思ってたのよ。でも、そうじゃないんだってそのとき気づいた。私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの、日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国の全ての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に、私の周りの世界が、色あせたみたいに感じた」

    そうして、彼女は高校入学後、宇宙人、異世界人、超能力者を探す部活動を始めることになるのだが、彼女の望みは実現しない。彼女は彼女が思っている通りに、「ただの人間」となる。野球場に野球の観戦に来ている膨大な数の人間の誰とでも交換可能な、彼女が興味のない「ただの人間」になる。それなら、もう、その力があるのならば、世界を破壊するしかないではないか。

    しかし、ここで再確認しなければならないのは、彼女の力が実現しているものは何かということである。私はこう書いた。「彼女はあらゆる望みを叶える力を持っているが、あらゆる望みを叶える力など存在しないという意識をも持っているがために、その望みは決して十全に叶えられることはない」と。

    つまり、あの青白い巨人が街を破壊する世界は、彼女の望んだ世界でありながら、しかしまた彼女が真に望んだ世界ではないのである。

    キョンが彼女とキスをすることで教えたのは、そのことである。実現した欲望はくだらない、それほど面白くないということだ。

    「あのなあ、ハルヒ、俺はここ数日で、かなり面白いめにあってたんだ。お前は知らないだろうけど、世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

    ハルヒとキョンの接吻も、また欲望の「十全に叶えられた」ものではない。あの接吻は、さらに深く、鋭く、強く、素晴らしい性愛の欲望の実現の可能性の示唆であって、性愛そのものの実現ではない。実現した性愛は、ハルヒを満たさない。実現した世界の終わりが彼女を満たさなかったのと、これはパラレルである。彼女はそれらを一夜の夢として処理してしまう。

    彼女はもう、世界は「確実に面白い方向に進んで」おり、実現された欲望よりも、まだ実現されていない欲望のほうが常に面白いということを知っている。彼女は「ただの人間」であることに耐える力を得る。しかもそれは、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めることが日常の肯定だと、あなたが言うのであれば、この作品が描かれているのは決して、単に日常の肯定ではない。欲望を諦めるのではなく、実現されていない欲望が「ただの人間」に、世界の終わりを拒否する力を与える。欲望を諦めてはならない。それが無限の彼方において実現するものであればこそ、実現されていないからこそ、素晴らしい。だからハルヒは一日だけ、短い髪で、キョンに夢の中で褒められたポニーテールを作って登校する。それは、まだ実現されていないがゆえに接吻以上に素晴らしい何かの、可能性である。

    いよいよ私は「啓蒙」とは何かを書くことにしよう。啓蒙とは、これである。「実現された欲望よりも実現されていない欲望の方が常に素晴らしい」という教えのことだ。

    あなたに、あらためて、この教えの内容を詳らかにする必要があるようには、私には思えない。あなたはもう、散々、進化心理学を齧った者たちに、幼少期に長くマシュマロを食べることを我慢できた子どもは、その後も社会的に成功する蓋然性が高いなどといった話を聞かされてきたではないか。

    あるいは、偉大なる社会学の祖マックス・ヴェーバーは初期の資本形成において、カルヴィニズムの予定説が影響を及ぼしたと言っていたではないか(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。カルヴァン派は、まさにまだ実現されていない欲望の方が常に素晴らしいというテーゼの忠実な実行者だった。最後の審判で自分がどのように裁かれるかは既に予定されていて、天国行きを希望しても実現するかは不明であるが、現世では既に天国行きが決まったかのように、その他の欲望の達成はくだらないと切り捨て禁欲すること、ただ働くことが肯定されたのである。(「ハルヒ、お前が知らないだけで、世界は確実に最後の審判の方向に進んでいたんだよ」)

    そも、我々の文明は、快感原則を現実原則で編成し(フロイト)、欲望の充足を延期すること(あなたが望むなら、延期ではなく抑圧と言ってよい)で成立したのだし、それは今でも常に奨励されている。先進諸国の教育期間は伸びるばかりである。

    この文明が、その初期に――場合によっては今でも――自己を存続するために人々に実行を促してきたテーゼと合致するがゆえに、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』を啓蒙主義小説と呼ぶ。

    ここまで読んで、あなたはそんな「啓蒙」は古臭い、オールドなタイプの啓蒙であると感じているはずである。あなたが感じていることは常に正しい。感じることは自然だからだ。反時代の私も、実は密かにそう感じている。私はあなたのその「感じ」が生じた理由を説明することで、この「啓蒙」がもはや古くなってしまったことの証明としよう。

    それは、あなたの国が新興工業地域よりも一人当たりGDPが低くなるからである。

    それは、あなたの年金受給額があなたの支払額より低くなるからである。

    それは、あなたの租税負担が新興国との軍拡競争で増えていくからである。

    それは、あなたの家族とあなたを介護をする労働者が足りなくなるからである。

    それは、あなたの故郷が人口減少で消滅するからである。

    それは、あなたの持っている現金の価値が毎年減少するからである。

    それは、あなたの所属する会社が管理職の椅子を増やせないからである。

    それは――、あなたが最後の審判を信じていないからである。

    それは、あなたがトラックに轢かれて悪役令嬢に転生したいからである。

    それは、あなたが親世代の資産とインフラを食い潰して生きているからである。

    しかし、あなたが荒野に一人立ち、また何かを始めなくてはならないとなったのならば、二十年前のライトノベルを開いてみることも、良いだろう。そこでは、まだ実現されていない欲望は素晴らしいと書かれており、あなたが暗闇を進むときに、自分をひき殺してくれるトラックを待つよりはまだしも「啓蒙的」なメッセージが書かれているからである。

    「キョン! 次はもっとうまく失敗しなさい!」

  • 金の力とは生産と流通の過程を忘却させる力のことである:マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

    金の力とは生産と流通の過程を忘却させる力のことである:マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

    Authored by 円原一夫

    金の力とは何であるのか、そのことが本書を読めばわかる。この本は金の力をなくした男の本だからだ。我々が金の力のある状態と金の力のない状態を比較することを、この本は可能にする。とはいえ、あまり悲壮感はない。金の力を欲しながら金の力をなくした男の話ではなく、金の力を意識的に自分から切り離そうとした男の話だからだ。この悲壮感の欠如が、何よりも重要である。これは、あくまで金の力なしで「生活」しようとした本だ。例えば予め一年分の食料を買い込んで、意識の喪失している時間を増やそうと睡眠薬を飲み続けるとか、そういう話の本ではない。

    金の力など、もう、知り尽くしているとあなたは言う。あなたは金で苦労したり、金で快楽を味わったり、政府は信用できないが金融庁は信用して米国株インデックスをつみたてNISAで購入したりしている。しかしそれは金の力の一面に過ぎない。やはり、あなたは金の力を知るために、この本を読むべきだ。あなたは空気の力を知っていて、換気したり、深呼吸をしたりするかも知れないが、あなたは空気の力を私の言うような意味で知らないから、夕食の残りを入れたジップロックやUSBの差込口に息を吹き込む。

    では金の力とは何か。金の力は望むものを手に入れる力ではない。そのような力は他に幾らでもある。それは金の力の本質ではない。本書が示しているのは、まずはそのことである。あなたも、もうそれは薄々、理解している。だからあなたは自国通貨が毀損されて家計簿アプリの米国株インデックスの名目価格が上がった表示を見ると嬉しくて仕方ない。

    既に私は本書が「意識的に」金なし男となり、なお「生活」を試みる男の話と書いたが、そのおかげで、金の本当の力が明らかになる。彼はありとあらゆる手段を使って、金なしに食料を獲得し、トレーラーハウスを獲得し、トレーラーハウスを置くための土地を獲得し、金なし生活を開始する。さらにまた、金なし生活中にクリスマスに両親の実家へ訪れたり、海を渡ったりもする。具体的な手段の詳細については、あなたはこの本を図書館で借りて読むことで知ることができる。大まかには、あなたはここで読むことができる。大まかには、膨大なコミュニケーションによって、である。彼は実は本書執筆時点でフリーエコノミー運動という、自分の持っている有形無形の物をシェアするための運動の活動家なのだが、まずはそのコネクションがあり、食べられる野草の知識を得たり、必要とされなくなったトレーラーハウスにアクセスできる。また、巨大な農場を営む人々と繋がりがあり、彼は自分の労働を提供する代わりに農場の片隅にトレーラーを置かせてもらうように交渉し、成功し、家賃から解放される。実家には徒歩、ヒッチハイクなどを用いる。

    本書の記述の半分以上は、これである。つまり金なしに必要なもの、望むものを手に入れるための膨大なコミュニケーション、交渉、試行錯誤である。だから、私とあなたはこう言ってよい。金の力とはコミュニケーションの圧縮である、と。ある人とある人がお互いの有形無形の所有物を交換するという、この極めてありそうもない、マーク・ボイルがそれ自体で一冊の本を書くことができるほどに膨大なプロセスを、しかし明日も明後日も継続されるはずだと誰もが信じられるもの――すなわち経済システムへと転換させることができる、猛烈なコミュニケーションの圧縮、捨象である。あなたが金にうんざりしているが、金が欲しくて欲しくてたまらないのも、このためである。あなたはスーパーマーケットの店員(の実際は雇用主と株主)が、あなたがスーパーマーケットに行った時に欲しがるものを知らない。そこで、あなたは、九時から十七時(またはそれ以上)の時間帯にあなたの雇用主と株主が欲しがる労働に従事し、代わりに金をもらう。そして、この金を持っていくと、スーパーマーケットの店員(実際は雇用主と株主)もそれを欲しがり、店内の商品との交換を持ちかけてくる。だから、あなたはマーク・ボイルがしたような、スーパーのマネージャーや地元NPO団体と交渉したり、ゴミ箱を漁ったりすることなしに、なんだったらAirPodsを耳につけてSpotifyのストリーミングをする音楽を聞いてスーパーの店員など会話するに値しないという態度を示しながらも、スーパーの店員に殴られたりせずに商品を手に入れることができる。

    しかし、どんな力も常に両義的なものである。金の力とは、コミュニケーションを圧縮する力なのであるが、そのことが問題を引き起こす。この本が、今や自国通貨の価値を毀損するしか経済政策を持たないどこかの国の書店に平置きされている、どこかの国の輩が書いた節約本と違うのは、そのことを直視しているからだ。そもそも、マーク・ボイルが金なし生活を始めたのが、その問題のためであった。マーク・ボイルはもうビジネスマン生活に疲れたとか、家族や地元の人と助け合ってくらしたいとか、金なし生活を始めた理由を幾つか書いているが、その中の一つを引用しておこう。

    お金は、富を簡単に、しかも長期間しまっておくことを可能にする。この便利な貯蔵手段がなくなったとしたら、地球とそこに住むあらゆる動植物の収奪を続けようと思うだろうか。必要以上の量を取っても利潤を簡単に長期保管できる方法がなければ、おのずと、そのときどきに必要なだけの資源を消費するようになるだろう。熱帯雨林の木々を誰かの銀行預金残高に変えることもできなくなるから、毎秒一ヘクタールの熱帯雨林を伐採する理由自体がなくなる。木が必要になるまでは地面に植わったままにしておくほうが、ずっと理にかなっている。(p.26)

    これはつまり、金の力すなわちコミュニケーションを圧縮する力の、別側面、別の視点からの描写である。あなたがランチの時に入る、駅ビルの珈琲チェーンのことを考えてみてもよいし、あなたが退勤後に買う死んだ動物の一部や、衣服のことを考えてみてもよい。あなたが金の力なしに、そこで売られていたものを手に入れようとすれば、あなたはそれを作っている過程について考えなくてはならない。マーク・ボイルはそうしている。これはマーク・ボイルが環境活動家だから、という、ただそれだけの理由ではない。彼は、自分が環境問題を意識しており、またビジネスに疲れ果てて金なし生活をしている身であるから、こうして交渉してあなたに所有物を渡して欲しいと頼んでいると交渉せざるをえない。だから彼は地元のNPO団体や有機農家に接触するのである。だから、彼は、金の力によってコミュニケーションを圧縮し、イデオロギーを問われないあなたのように、フェルキッシュな入植政策を続ける国に献金して標章されたCEOのために稼働する珈琲チェーンの珈琲を飲み、病原菌だらけの現場で移民に解体作業をさせたあと、繁忙期が終わったので移民局に通報して解雇の手間を省く食肉業者の供給する死肉を食べ、自動小銃を突きつけられながら裁縫する児童労働者の指紋のなくなった指から生まれた衣服を着ることになるならば、血の臭いや血の味や血の色を無視することができない。逆に言えば、金の力があれば、それを無視することができる。そして富と問題が蓄積されていく。

    あなたはまだ金の力を理解していない。だから、この本を読むべきだ。忙しく、また繊細なあなたはこの記事を読むことで金の力を知ったつもりになり、この本を読む時間を圧縮し、金の力をいつまでも享受できるように証券会社のアプリに指紋認証でログインする。または節約して、確定拠出年金の拠出額を増やそうとする。だが、あなたはまだ金の力を理解していない。何故って、あなた――あなた方の老後の二千万円のために、今日も株主たちはあなたの人件費を圧縮するように経営者を怒鳴りつけているからである。

    このあと、マーク・ボイルはいよいよ「テクノロジーを使わずに生きることに」なり、その成果を一冊にまとめることになる。それについては、別の機会に書くことにしよう。とにかく、この本は金の力のメリット・デメリットがともにわかる傑作なので、読んで損はない。どちらかだけを強調する人間が多すぎる世の中にあっては。

  • 宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    宇宙人は来ている、そして彼らは共産主義者だ:フアン・ポサダス『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』

    Authored by 円原一夫

    1

    「宇宙人は共産主義者である。そして彼らは、すでに来ている。」

    この言葉は、アルゼンチンの革命家フアン・ポサダス(1912–1981)の思想を象徴するものとして知られている。第四インターナショナルの分派「ポサダス派」を率いた彼は、ラテンアメリカ各地で革命運動に関与し、トロツキスト理論の普及に努めた。だが今日では、彼の名はしばしば奇矯なイメージと共に語られる。

    1968年に発表された論文『空飛ぶ円盤、物質とエネルギーの過程、科学、革命と労働者階級の闘争、人類の社会主義的未来』において、ポサダスは次のように述べている。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    宇宙人は来ている――だが、それは、ただの空想やロマンではない。ポサダスにとってそれは、ある必然的な論理の帰結だった。そして、その論理が今や奇矯にしか見えないというところに、この地球が絶望の星である理由がある。

    2

    ポサダスにとって、共産主義とは単なる理想ではない。 それは歴史の必然であり、理性の帰結である。ところが、彼が生きた現実の地球にはそのような理性がどこにも見出せなかった。

    労働者国家は堕落し、左派は分裂し、社会主義は資本の網の中で失われつつあった。 そして今日においても、社会を変える力は制度と想像力の両面から封じ込められたままだ。

    だとすれば――理性は実在しないのか? それを否定することは、共産主義のみならず人間の理性的可能性そのものを否定することになる。

    ポサダスはこう述べている。

    We accept that extra-terrestrial beings exist, as a conclusion of dialectical thought. This gives us confidence that we can master no matter what other phenomena that exist, without being caught off-guard.

    ポサダスにとってこれは、信仰ではない。理性を擁護するための、理性自身による“跳躍”だった。その跳躍の先にあるのが、宇宙人は存在する、そして彼らはすでに「来ている」という確信だった。

    3

    ポサダスは、宇宙人が観察者として来ており、地球のようなくだらない星の矛盾に巻き込まれていないことを何度も強調している。

    They have shown no interest in attacking, violating, stealing, possessing: they have come to observe.

    そして、彼らが非暴力的かつ穏やかな存在であることを、目撃者たちの証言から導いている。

    All the people who say that they have seen them, say that none of them were of an aggressive disposition or inspired fear in them.

    このような素晴らしい存在が地球を訪れているという仮説は、ポサダスにとって、地球外に、つまり世界に理性的な社会秩序が存在しているという思想的確信を支えるものだった。

    だからこれは当然のことながら、他方では恒星間飛行を実現していないような「地球人批判」でもある。ちょうど北欧のデモクラシーを例にあげて、その欠如としての日本のデモクラシーを批判的に検証するようなロジックと同じである。彼は、地球社会の支配階級が科学や知識を利潤や権力のために制限していることを批判し、次のように述べている。

    What does that give him? Power over others? And what then? … It does not give him any capacity to raise and develop his intelligence. On the contrary, it limits it.

    ここで言う「それ」とは、工場や軍事的地位などの財産・権力を指している。ポサダスは、富や権力が知性の発展を阻害していると主張する。恒星間飛行を実現し、穏やかに地球を見守る共産主義の宇宙人との、なんという差であろうか?

    4

    現代において、ポサダスの名前はミームの一部として再浮上している。「UFOを信じたトロツキスト」「宇宙人は共産主義者」「核戦争を肯定したマルクス主義者」といったラベルが、RedditのスレッドやTシャツ、ステッカー、ファンアートの中で再生産されている。

    だが、それは決して真面目な再評価ではない。 それは笑いであり、そしてしばしば不安に対する防衛反応である。ジョークというのは、しばしば恐怖に対する反応なのだ。

    つまり我々は、理性のないこの地球、そして理性のないこの銀河に住んでいることを、おそらく無意識のうちに理解している。そしてそれを直視するかわりに、「宇宙人なんているわけがない」と笑ってやり過ごすのだ。笑いの中にあるのは、理性の敗北を受け入れるという諦念である。

    我々が彼を笑えるのは、理性の実現をどこにも、銀河の果てまで探そうとも見出さないという社会的合意との差においてなのだ。

    ポサダスはこう述べた。

    These beings from other planets come to observe life down here and laugh at humans, we who fight each other over who has the most cannons, cars and wealth.

    これは、未来への希望ではなく、地上の理性の不在を埋め合わせようとする必死の跳躍だった。

    理性が地球にないのなら、せめてどこかにはあるはずだ——そして来ていてほしい。 そうでなければ、我々の惨状には終わりがない。理想社会、彼の言葉で言えば共産主義は実現不可能なものになる。

    だが、もし我々が彼をただの冗談として処理してしまうならば、それはこう言っているに等しい。

    「理性は、銀河のどこにもない。ポサダスが描いた地球の惨状は、永遠に続く」

    そしてそのとき、地球人にとってもっとも悲惨な結論が訪れる。

    ポサダスはやはり、完璧に間違っていた思想家だったのだ。


    参考文献

    J. Posadas, Flying Saucers, the Process of Matter and Energy, Science, the Revolutionary and Working-Class Struggle and the Socialist Future of Mankind, June 1968.
    https://www.marxists.org/archive/posadas/1968/06/flyingsaucers.html

  • 社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    社会は人間のために存在するのではない:セオドア・カジンスキー『産業社会とその未来』

    Authored by 円原一夫

    1

    スマートフォンやノートパソコンは、いまや「便利な道具」ではなく、生きていくための前提になりつつある。

    アルバイトの応募にはスマホが必要で、大学の授業はシラバスからレポート提出まですべてオンラインで完結する。行政手続きも、就職活動も、銀行や保険の管理も、SNSを介した人間関係ですら、通信端末の所有を前提としている。それを持たない者は、もはや「社会に適応していない」とみなされる。

    テクノロジーを「使う自由」は、いつのまにか「使わないことができない不自由」へと変質している。

    では、私たちには、そこから距離をとる自由が残されているのだろうか。テクノロジーを拒否する選択、あるいはそれを選ばない生き方は、まだ可能なのか。

    この問いに対し、ある人物の名前を思い出さずにはいられない。

    ユナボマー――セオドア・カジンスキー。

    アメリカを震撼させた連続爆弾事件の犯人。そして、「産業社会とその未来」と題された長大な犯行声明において、現代文明の構造そのものを激しく批判した思想犯。

    彼は、文明批判の名のもとに一連のテロを実行し、その動機と思想についての文章を、長大な「犯行声明」として、1995年にワシントン・ポスト紙上に掲載させていた。

    “Unabomber’s Manifesto” in the Washington Post

    本稿ではこの「犯行声明」を読む。

    彼が何を見て、何を拒絶しようとしたのか。なぜ彼は言葉ではなく、行動を選んだのか。それを理解することは、彼を肯定することではない。むしろ、それを通して、我々がいまどこに立っているのかを確認することに他ならない。

    彼の行動は、当然ながら、単にくだらない連続殺人である。肯定するつもりはない。むしろ私はこの論考で根源的に否定するつもりである。

    だが、いま私たちが生きているこの状況――生成AIが日常化し、すべてがデジタルに変換され、オフラインであることがほとんど不可能になったこの環境――その全体像を見通すためには、カジンスキーという極北にまで踏み込んだ抵抗のかたちを、一度は検証しなければならないのではないか。

    なぜなら、彼の予測は、今となってはあまりに的中してしまっているからだ。

    そしてそれゆえに、彼のテロルは何も変えられなかったのだということを論証する。それが根源的に否定するということの意味であり、それが、私たちの現在である。私たちは森の隠者となった天才数学者以上の絶望をたっぷりと味わう。世界の終わりに備える。

    2

    カジンスキーにとって、現代社会とは単に便利で高度な産業社会ではない。それは、人間の自由意志を次第に奪い、自律的な判断や生活を不可能にしていく「システム」である。そのシステムとは、国家でも資本でも宗教でもなく、テクノロジーそれ自体である。

    このシステムの本質は、人間の行動や欲求を満たすために存在するのではなく、人間の行動のほうがシステムに適応させられていくという構造にある。

    The system does not and cannot exist to satisfy human needs. Instead, it is human behavior that has to be modified to fit the needs of the system.


    このシステムは人間のニーズを満たすために存在しているのではない。むしろ、人間の行動こそがシステムのニーズに合うよう変更されねばならないのだ。

    3

    しかも、この産業-技術システムはすでに、人間の意思決定を超えて、自己増殖的に拡張する構造となっている。この「システム」とは、単なる政府や企業のネットワークではない。それは、社会制度が相互に依存し、止まることなく自己強化を繰り返す構造体――フィードバックループそのものを指す。

    新しい技術が登場すると、人々はその「便利さ」のためにそれを受け入れる。やがて社会制度そのものがその技術を前提に再構築され、もはやその技術なしでは生きられない状態が生まれる。

    さらに、その技術は新たな問題(副作用・格差・リスク)を生み出す。すると今度は、それに対処するためのさらなる技術的手段が求められる。こうして人間の生活は、連鎖する技術的対応策のなかに閉じ込められていく。

    Technology has been creating new problems for society far more rapidly than it has been solving old ones.

    技術は、過去の問題を解決するよりもはるかに速く、新しい問題を社会に生み出してきた。

    Technical progress will lead to other new problems that cannot be predicted in advance.

    技術の進歩は、あらかじめ予測することのできない新たな問題を生むだろう。

    この技術連鎖は一方通行である。自由を後退させても、技術自体は決して後退しない。

    Technology repeatedly forces freedom to take a step back, but technology can never take a step back—short of the overthrow of the whole technological system.


    技術は自由を一歩後退させることを繰り返すが、技術自体は――システム全体を覆さない限り――決して後退することがない。

    たとえば、スマートフォンを例にとろう。「スマホを持たない」という選択は、形式的には可能である。だが、実際には日常生活や社会的参加からの排除を意味する。つまり、「選ばない自由」は制度的にも社会的にもほとんど存在していない。技術は導入された瞬間から社会構造を作り変え、拒否できる余地を急速に奪っていく。

    4

    カジンスキーは、このような現代社会において、政治的党派や制度的手段は根本的に無力であると断言する。その理由は明快だ。すべての党派が「テクノロジーを使って問題を解決する」という枠組みに閉じ込められているからである。

    つまり、右派も左派も、何を守るかは異なっていても、どう守るかにおいては等しく構造に従属している

    右派は道徳と秩序、左派は正義と平等を掲げるが、いずれもそれらの理念の実現手段として、技術的監視・管理・制度設計を当然視している。その時点で、彼らの抵抗は加速の一部に変わる

    さらにカジンスキーは、制度的な改革についても、構造に吸収される運命を免れないと指摘する。

    If a small change in a long-term trend appears to be permanent, it is only because the change acts in the direction in which the trend is already moving.

    長期的傾向の中で小さな変化が恒久的に見えるのは、それが既存の傾向の進行方向に沿って作用している場合に限られる。

    つまり、制度が変わったように見える時でさえ、それはすでに技術システムの内在的進行にとって都合のよい変更でしかない。

    そして何よりも決定的なのは、カジンスキーが自由と技術を同時に維持する社会設計は原理的に不可能であると述べている点である。

    Freedom and technological progress are incompatible.

    自由と技術的進歩は両立しない。

    Permanent changes in favor of freedom could be brought about only by persons prepared to accept radical, dangerous and unpredictable alteration of the entire system.

    自由のための恒久的な変化は、全体のシステムを根本的かつ危険で予測不可能な形で変更する覚悟を持った者にしかもたらされない。

    制度的改革は、本質的要素を破壊しない限り、システムの力を削ぐような根本的変化には至らない。

    結論として、制度、党派、改革、運動は、構造の“吸収力”に抗うことができない限り、真の拒否とはなりえない。

    であればこそ、カジンスキーは、制度の外部に出ること――すなわち、飛躍すること――すなわち個人的なテロルを唯一の道と見なしたのである。次の節でそれを確認しよう。

    5

    こうしてカジンスキーは、制度、党派、改革、言論すべてが構造の一部に取り込まれていると断じた。それらはいずれも、抵抗の形式を装いながら、最終的には加速する技術システムの維持と正当化に貢献してしまう

    では、残された手段はあるのか?

    彼がたどり着いたのは、「倫理的飛躍」としての拒否――制度によって吸収されない、個人的かつ実存的な否定の行為だった。

    この拒否の根拠は、体系だった理論ではなく、直観に基づく倫理的判断である。カジンスキーはそれを次のように述べている。

    In a discussion of this kind one must rely heavily on intuitive judgment, and that can sometimes be wrong.

    この種の議論では、直観的判断に大きく依存せざるを得ない。そしてそれは時に誤ることもある。

    彼にとって、「こうは生きられない」という確信は理論ではなく、直観として知覚される“倫理的な反発”であり、それゆえに、合理性の枠組みに回収されない行動の根拠となり得たのだ。

    だがこの感覚が行動に転化されるには、メディアも言論も機能しない世界において、どのような行動がテクノロジーに無毒化されない行動なのかという問いが生じる。

    To make an impression on society with words is therefore almost impossible for most individuals and small groups.

    言葉によって社会に影響を与えることは、ほとんどの個人や小集団にとって、ほぼ不可能である。

    そして結論する。ユナボマーが誕生する。

    In order to get our message before the public with some chance of making a lasting impression, we’ve had to kill people.

    我々のメッセージを公にして永続的な印象を残すには、人を殺さねばならなかった。

    ここでカジンスキーが語るのは、単なる衝動でも戦略でもない。社会のあらゆる回収構造を突破する“否定としての破壊”の選択である。

    それは、「届く可能性が残された唯一の行為」であり、制度の外部に身を置こうとする最後の跳躍=倫理的飛躍だった。

    6

    しかし、テロルは無意味だった。それはわかりきったことだ。あなたはこの文章をどうやって読んでいる? ここからは、カジンスキーのロジックの確認ではなく、確認した上での私の応答を書く。私が無意味だったと書くのは、カジンスキーの情勢分析が正しかった――正しすぎたことを前提としている。

    この構造は、あまりにも完成している。左右の党派も、制度改革も、オルタナティブな共同体も、最終的には、ヒステリーを起こした一人の数学者の犯罪と同じ地平にまで落ちていく

    なぜなら、この社会においては、「届かない」という点で、すべてが等価だからだ。暴力も、言葉も、希望も。制度の内側に吸収され、制度の外側には立てない。拒否も否定も、選択肢にない。つまり選択の余地はない。

    私は、冒頭でこう問いかけた。

    私たちは、テクノロジーと距離を取る自由を、まだ持っているのか?

    いまなら、答えられる。距離をとる自由は、ない。自由など、ない。誰も、触れることすらできない。

    つまり、私たちは今後も技術社会のフィードバックループの中で生きることになる。

    他人に出し抜かれないために。

    社会から排除されないために。

    それ自体が新たな問題を生み出すと知りながらも、

    テクノロジーを高い金を払って導入し、運用し、維持し続けなければならない。

    慎重は無能とみなされ、回避は敗北と同義となる。

    そしてその圧力は、個人にとどまらない。

    国家もまた、加速を強いられている。量子コンピュータの開発競争に敗れれば、暗号は破られ、情報は奪われる。半導体の製造能力や輸入能力を喪失すれば、軍事・医療・行政すら停止する。もはや安全保障とは、技術の獲得競争に他ならない。その遅れは、支配されることと同義なのだから。

    だから、我々は続けよう。馬車馬のように働き、自らの労働力の価値を下げるために、自費で最新の設備を導入し、日々その更新に追われる生活を続けよう。

    拒否は反逆とみなされ、沈黙すら怠慢として切り捨てられる。誰も逃げられない。どこにも外部はない。

    ようこそ、産業社会の未来へ。

    しかし、もしかすると、抵抗の方法はまだ残されているのかもしれない。新たな世代が、私たちの知らなかった方法で、別の出口を提示する可能性はゼロではない。

    だがそれは、おそらく――カジンスキーのような個人による暴力など、歴史の彼方に押しやってしまうような、もっと大きな規模の暴力だろう。それはもはや、このように公開される文書で記述できるようなものではないだろう。